神様候補の奮闘
神界の湖の畔。
浅黒い肌をした少年が、震える程全身に力を籠め、立ちすくんでいた。
「う……ん……ふっ、ん……やっぱり、駄、目だ……」
詰めていた息を吐き、がくりとへたり込んだ少年の傍らで、事の成り行きを見守っていた大きな黒犬が立ち上がった。黒犬は少年の左手を舐め、金色に輝く瞳で少年を見詰めた。
「クウガ、少し休め。急に出来るようになるもんでもないだろ」
忙しなく肩を上下させる少年の背後から、女神が黒犬に同意した。
「肩に力が入りすぎよ。力任せでどうにかなるものじゃないわ」
女神は苦笑いし、それから今度は優しい笑顔になって少年を諭した。
「焦る気持ちも分かるけれど、まずは落ち着きましょう。貴方の力は素晴らしいけれど、こういったことにはあまり向いていないって、自分でも解っているでしょう?」
「そうですよね……」
少年は肩を落とした。
「フウガ、ちょっと練習に付き合ってくれないかな?」
クウガが、隣を歩くフウガにそんなことを言いだしたのは、職場からの帰り道だった。フウガがクウガの提案を断ることはなく、この時も即答した。
「勿論だ。で、何のだ?」
「変化。力が余ってる今なら出来るんじゃないかと思ってさ」
「そうか。なりたい姿でもあるのか?」
「うん、ちょっとね」
本来、一つの身体を共有している黒犬のフウガと少年のクウガは、二者間の力の不均衡により、一時的に身体が分離している。厳密に言えば魂は癒着したままなので、あくまで分離しているように見えるだけの状態だ。とはいえ、常に隣に居る必要はないのだが、一緒に居るのが当たり前過ぎて、別行動をとるほうがよほど不自然に思え、結局、彼等は殆どの時間を共に過ごしていた。
「それじゃ、いつもの湖に行くか」
「うん」
連れだって神界の外れにある湖に到着した彼等を、笑顔で迎える先客がいた。彼等の恩神であり先輩である女神マイアだ。この場所を気に入っている女神は、仕事や用事がないときは大抵ここで過ごしている。
「やっぱり、貴方達が並んでいるのを見るのは不思議な感じね。今日はどうしたの?」
優しく問うマイアに、クウガは少し恥ずかしそうに答えた。
「変化の練習をしようかなって。それで、フウガに付き合って貰ってるんです」
「貴方は本当に努力家ね。フウガ、確か貴方はもう自力で変化できるのよね?」
「まだ人間の姿だけだけどな。一部分だけの変化も出来ないぞ」
「まだ初級免許も取れてないんですもの、十分よ。部分変化は高度な技だもの。今日はフウガが先生ね。ふふ、私も先生に立候補しようかしら。とは言え、私もそれほど得意な方ではないのだけれど」
そうして始まった課外授業は、予想以上に難航することになった。
「そうだな、まず、変化後の姿を頭に描くんだ」
「うん」
フウガの助言に、クウガが神妙な面持ちで頷いた。
「そんで、肉球にふんって力を籠めるだろ?」
「うん?」
「その力を尻尾に集める感じで、びゅっとする。細部が荒い仕上がりにはなるけど、最初はゆっくりやるより、勢いがあった方がやり易いぞ。少なくとも俺はそうだった」
「うん……」
「で、その力を」
「お待ちなさい、フウガ」
見かねたマイアが口を挿んだ。
「何だ?」
フウガがマイアをきょとんと見詰めた。
「ふんっ、とか、びゅっ、じゃ解り辛いわ。そもそも、クウガには肉球も尻尾も無いのよ? もう少し丁寧な説明が良いと思うわ」
「でも、ふんっ、で、びゅっ、だろ?」
マイアの眉尻が下がる。
「びゅっは兎も角、ふんっは私にも解らないわよ」
「マイアはどうやってるんだ?」
「え? そうね、こう、ぐぐぐっ、すぅーって感じかしら」
「そうなのか? ぐぐぐっ、だと、びゅっに繋げ辛くないか?」
「だから、すぅーっ、なのよ」
女神と黒犬の遣り取りを、なんとも言えない表情で眺めるクウガに気付き、マイアが慌てて取り繕った。
「今のはフウガに合わせただけよ。ええと、まず、身体の一部に意識を集中するの。どこでもいいけど、最初は掌とかお腹が分かりやすいかしら。水や空気の塊を想像してみて」
「はい」
マイアの説明通りに、クウガが力を集中する。
「次は、その塊を変化する姿に成形するように想像して」
「はい」
クウガの腹部がうっすらと光を帯びる。
「いいわ、上手よ。そうしたら、その塊を身体に沿って伸ばしていくの。均等に伸ばすことを意識して」
「は、い」
クウガの持つ神力は、力を集めることには向いているが、力を分散させたり細かく操ることにはあまり向いていない。そのせいなのか、マイアの助言通りにしようにも、中々感覚が掴めない。
(想像……それを、伸ばす……集中、集中……)
クウガは苦戦していた。それでも、次第に光がじわじわと腹部から手足の方に広がっていく。
フウガとマイアが固唾を飲む。
その緊迫した空気を、突如として破る明るい声。
「相変わらず君達は仲良しだねぇ」
振り返ったフウガとマイアの目の前で、光る玉――チョウキが瞬いた。チョウキは辺りを窺うように左右に素早く飛び、光度を落とし小声になった。
「何してるんだい? 遠慮せず、お兄さんに話してごらん。その代わりと言っては何だけど、ちょっと匿って欲し、うっ」
「そこまでだ、主殿。いい加減、逃げ出すのは止めて頂けぬものか」
何時の間にか頭上から忍び寄っていた、フウガに劣らぬ大きさの茶色い犬が、チョウキを右足で踏みつけていた。
茶犬はそのままの体勢で、あっけにとられているフウガ達に愛想よく挨拶した。
「おお、マイア殿、本日も麗しい。フウガ、クウガ殿、体調はどうだ? 異変は無いか?」
茶犬の足にはそれほど力が入っているようには見えなかったが、よほどうまく抑え込んでいるのだろう、チョウキは小刻みに左右に揺れるのが精一杯の様子で、茶犬に懇願した。
「頼むよ。見逃してくれ、ヨルダ」
ヨルダと呼ばれた犬は、足元のチョウキに鼻を寄せると、低い声で囁いた。
「そうもいかぬ。主殿が逃げ出す度、我にしわ寄せが来るのだ。大人しく同行願おう……」
「主の俺よりもザンセツ君を優先するなんて、酷いじゃないか! ヨルダの裏切り者!」
ヨルダは首をゆっくりと左右に振り乍ら、深くため息を吐いた。
「我とて辛いのだ。ザンセツ殿から、奉納品の極上肉を馳走にさえなっていなければ、主殿に味方出来たというのに」
「俺、お肉で売られちゃうの? そ、そうだ、今度地上に行く時御馳走するよ! 好きなだけ食べていいから、ね、だから……」
「流石主殿、太っ腹だ。まあ、それはそれとして、やはり肉の恩を無かったことには出来ぬ。さあ行こう。済まぬな、皆。騒がせた」
ヨルダはチョウキを咥え、一堂に頭を下げると、風のように走り去った。チョウキの「助けてぇー」と叫ぶ声が尾を引く。
束の間の逃走劇に巻き込まれたフウガとマイアは我に返り、慌てて振り返った。クウガは、すっかり光が消えてしまった腹に手を置き、立ち尽くしていた。
「あの、大丈夫? クウガ?」
「…………」
「どうした?」
「…………」
クウガは暗い目で己の腹部に手を当て、呟いた。
「今後、チョウキ様にどんな事情があっても、俺は絶対にザンセツ様に味方するからね……」
「お、おう」
フウガが言葉少なに答え、マイアも黙って頷いた。
それからのクウガは、途切れてしまった集中力を中々取り戻せなかった。先刻、掴んだと思った筈の感覚は、穴の開いた袋から洩れる空気の様に、直ぐにどこかへ消えてしまう。
「ん……、う……んん…………ふうっ、はあはあ」
「今日はもう、止めておいた方がいいわ」
顔を真っ赤にして呼吸を乱すクウガの背を擦り乍ら、マイアが告げた。
「力み過ぎて、変な癖がついてしまったら、後々大変よ。こういう時は少し休んだ方が、するっと出来るようになったりするものよ」
フウガも、宥める様にクウガの手を舐めた。
「そうだぞ。さっき少し出来ただろ。次は、もっとやり易くなってるさ」
クウガは何か言おうと口を開きかけ、直ぐに口を閉じた。荒くなった呼吸を整え、最後に大きく息を吐くと、顔を上げ背筋を伸ばした。
「マイア様、ありがとうございました。仰る通り、今日はもう帰って休みます。また、色々教えてくれますか?」
少年に礼儀正しく礼を言われ、マイアは笑顔で頷いた。
「勿論よ。でも、今度はもっと厳しくするから、覚悟なさいね?」
「はい。それじゃ、帰ろう、フウガ」
口々にマイアに別れを告げ、フウガとクウガは湖を後にした。
フウガが口を開いたのは、湖面を渡る風が彼等に届かない程、湖から離れてからの事だった。
「意外だったぞ」
「なにが?」
クウガは前を見たまま歩き続けている。
「随分すんなり言うことを聞くなって思って。疲れたのか? 大丈夫か? 背中に乗るか?」
クウガが俯き、足を止めた。その様子に、フウガが本格的に焦りを見せる。
「ど、どうした? 具合悪いのか? 待ってろ、すぐに救護班呼んでくる!」
「具合は悪くないから、落ち着いて」
「でも……」
「本当に平気だから」
クウガは道に膝をつくと、おろおろとするフウガの首筋に腕を回し、ピンと立った耳に顔を寄せた。
「笑わないで聞いてくれる?」
「ああ」
クウガに抱きつかれたまま、フウガは小さく頷いた。
「……戻らなくなった……」
「え? なんて?」
勿論、クウガの真剣な声が聞こえなかったのではない。クウガが何について話しているのか、フウガは解らなかったのだ。
「戻らなくなっちゃったんだ」
先程よりもはっきりしたクウガの口調だが、フウガの頭には疑問符が浮かぶだけだ。ただ、珍しく焦りを滲ませた相棒の口調に、ただならぬ事態が起きているに違いないと感じた黒犬は、両足に力を込めた。
「俺が絶対なんとかする。だから、何が起きているか教えてくれ」
クウガがフウガの首に回した腕を解いて立ち上がり、辺りに誰も居ないことを何度も、何度も確認した。やっと納得いったのか、一息つくと意を決した様子で頷き、何故か短剣を差している腰布を緩め、上半身を覆っている衣装に手を掛けると、そっとそれをたくし上げた。
フウガの目の前に、少年の薄い腹部が覗く……ことはなかった。クウガの腹は、背中の方まで、ぐるりとふかふかの黒い毛に覆われていた。
「……? ん? んん?」
まるで黒い腹巻でも巻いているような状態に、フウガは首を傾げた。
(クウガ、こんなに毛深かったか?)
相棒に不思議そうな顔で腹部を見詰められ、クウガは急いで上着を元に戻し身支度を整えた。
「チョウキ様に声掛けられた時、一瞬気が緩んで、こうなった……」
どうやら、行き場を失った力の流れが暴走し、最も力の集中していた部分だけが変化してしまったらしい。
直ぐに気付いたクウガは、大いに焦った。早く何とかしようと躍起になればなるほど、さっきまで出来ていた筈の事が出来なくなる。闇雲に腹に力を入れ息を乱すクウガの背にマイアの手が触れた時は、己の身に起きたことに気付かれてしまうんじゃないかと、気が気じゃなかった。
「やけにあっさり帰る気になったのは、そういうことか。確かに、マイアは驚くかもしれないな」
「だろ?」
それだけではない。
「クウガのこの状態見たら、『可愛いわ!』とか言いそうだしな」
「そうなんだよね」
心身ともに未だ少年らしさを残すクウガにとって、女性に「可愛い」と言われることは決して本意ではない。
黒い毛が生えている以外クウガに異変はないらしく、安堵したフウガは、羞恥心で凹む相棒の尊厳を守るべく、真顔で頷いた。
「じゃあ、急いで帰ろう。変化の練習続けるぞ。俺も手伝うからな」
「うん。ありがとう、フウガ」
「でも、部分変化は難しいってマイアも言ってただろ。クウガ、凄いんじゃないか?」
「そうしようと思って出来たんならね。それに、自由に元に戻れるならね」
服の上からだとややごわつく腹部を撫でながら、クウガはため息を吐いた。少年と黒犬は家路を急ぐ。
ふと、フウガの頭に疑問が浮かんだ。
「なあ、クウガ。一体何に変化しようとしてたんだ?」
フウガは足早に隣を歩くクウガを見上げた。
「え? さっき、匂いで分からなかった?」
「いや、いつものクウガの匂いしかしなかったぞ」
クウガは歩きながら項垂れた。
「それじゃあ、どっちにしても失敗してたのかな……俺、犬に変化しようとしたんだ。そうすれば、ヨルダみたいに、フウガと一緒に風を切って走れるだろう? 気持ち良いだろうなって、ずっと思ってたんだ」
フウガは「そうか」と呟いた。
俺の中にクウガが居る時は、俺が風を感じさせてやるのに。こうして身体が分かたれている時は、俺がクウガを乗せて走るのに……フウガは少しだけがっかりした。
嘗て、自分を守る為に命を懸けてくれた少年が望むなら何でもしようとフウガは心に決めているが、そもそもクウガが誰かに頼ることはあまりない。大抵のことを熟せる器用さは、自分を甘やかすことを知らない様に見え、時折フウガを切なくさせる。
その代わりに、クウガはフウガに望むのだ。「一緒に居たい」、「一緒にしよう」と。「だって、相棒だからね」と、全幅の信頼を寄せて。
(じゃあ、これも、甘えられてるって思っていいんだよな?)
フウガがそっと隣を伺うと、クウガは眉尻を下げて己の腹を擦っていた。
(まあ結局、俺、クウガのこういう所に弱いんだよな)
フウガは再び「そうか」と呟き、にやりとした。
「クウガと走れるの、楽しみだな。でも俺、結構速いぞ?」
「知ってる。俺も足には自信あるよ。でもやっぱり、走る練習もしたほうがいいかな?」
何時になったら一緒に走れるかなぁ、とクウガがぼやいた隣で、フウガはご機嫌だった。
クウガの腹毛が消えるまでに、そこそこの時間を有することになったのは、また別の話である。