とある事務員さん達の話その4。
「言うに事欠いて忘れたですか!?」
「冗談に決まってんだろ!」
「言っていい冗談とそうじゃない冗談の区別もつかないんですかあんたは!」
数分前までは久しぶりの泊まりで、宅飲みでいい感じにお酒も入って、いわゆる恋人の甘い空気というやつだったはずなんだ。
だからつい己の中にあった小さな欲望が口から滑り出てしまって。けれどそれを恥ずかしいなんて思うまもなく目の前のこの人に粉々に打ち砕かれた。
飲みかけの缶ビールをだんっ、とテーブルに叩きつけて、ぎっと睨みつけても、諸悪の根源は眉ひとつ動かさない。
「だいたい、何が違うってんだ。どうでもいいだろ。」
「ええ、ええ、そうでしょうね!ぼくの存在なんてどうでもいいですよね!」
「あ?んな事言ってねぇだろ!」
めんどくせぇと言わんばかりに盛大にため息をつかれればもう限界だった。
だんっ、とローテーブルを両手で叩きつけて勢いよく立ち上がる。
「っ、あ、おい!」
このまま家を飛び出してやろうかと踏み出しかけたところで、腕をがっちりと掴まれた。離してくれと目線で訴えても、その手はビクともしない。
いい加減にしろと言わんばかりの厳しい視線が突き刺さって、なんかもう泣きそうになってきた。
あぁ、ほんと。馬鹿みたいだ。
「……僕の苗字なんて、オリジナリティ皆無なんですよ。平凡の代表ですよ。」
この人が口下手なのは知ってるし、素直じゃないのも知ってる。
それでも、
「恋人にくらい特別を求めたっていいじゃないですか。」
「っ、」
ちょっとくらいそういう事に憧れを抱いたっていいじゃないか。
ここまで言ってようやく察したらしい朴念仁は、あからさまに動揺してビクリと肩を震わせた。
じ、と眉間のしわを睨みつけてやれば、うっ、と言葉を詰まらせる。
「……恭一郎さんの、ばぁか。」
「!?」
怒ってるんだぞと意思表示に少しだけ頬を膨らませてそう告げれば、突然ピシリと目の前の存在が凍りついた。
掴まれていた手が、ずるりと落下する。
「……先輩?」
片手で顔を覆い、俯いていしまったせいでその表情は伺い知れなかったけど、どうやら怒っているわけではないらしい。
よくよく見れば、耳が……赤い?
これは、もしかしなくても。
確認しようと顔を近づければ、逆に腕を引かれて抱き寄せられた。
あ、やっぱり耳が真っ赤だ。
「あの、えっと、きょ…」
「いい、わかった。これ以上言うな。」
黙ってろと、言葉の代わりにぎゅっと強く抱きしめられる。
トクトクとうるさいのはいったいどちらの心音だろうか。
「悪かった、」
……肇
耳元で囁かれたその言葉に、全身の血液が一瞬にして沸騰した。
茹で上がった顔を見られたくなくて、咄嗟に両手で顔を覆い隠し、その場にしゃがみこむ。
なんだ、これ。
耳が熱い。思いっきり胸を掻きむしりたい。いや、むしろ心臓掴み出して投げ捨ててやりたいくらいだ。
これは、いや、望んだのは自分だけども。
でもこれは予想以上というか、なんというか。
「……やっぱりいつも通りで大丈夫です。なんか、恥ずかしくて死にそう。」
消えてしまいたい衝動に駆られながらなんとか声を絞り出せば「……だな。」と小さな返事が聞こえた。