第1話 奈落
【注】この物語はフィクションです。
日本の歴史にこのような事実は決してありません。
バカな作者の妄想として読み流してください。
今は昔。都が飛鳥にあったころ。
ヤマトには八百万の神がいた。
しかし百済から仏教が伝わると、仏教徒たちはヤマトの習わしを弾圧していった。
…これはそんな仏教徒たちに闘いを挑んだ人々の物語である。
森から仏教徒の唱える「摩訶般若波羅蜜多心経」が聞こえてくる。
何度も繰り返えされるその陰鬱な誦経が屋敷の人々の気を滅入らせていた。
ここは遠江の国紀甲郡。
郡司である物部氏の屋敷である。
仏教に屈しない物部氏は、仏教徒たちの次の標的だった。
仏教徒たちがその屋敷の周りを囲み念仏を唱え、郡司の物部氏とその部下である武士たちが、仏教徒の襲来に備えて屋敷内にたむろしている。
その屋敷の門を叩く者がいた。
「たのもー!!」
あわてて物部氏の武士が応じる。
「仏教徒か!?」
門の向こうから野太い声が聞こえた。
「私は禰宜のイズミと申すもの。この屋敷の主より文をいただき、参上いたしました」
門が急いで開けられ、男は中に入れられた。
「では、おまえか? 『神使い』という禰宜は?」
驚いたような顔をした禰宜は、落ち着き払うといった。
「私は『神使い』ではありません。ただの禰宜です」
最後の希望を失ったように、落胆した武士は肩を落とす。
禰宜はこう続けた。
「…しかし、仏教徒たちからは、そのように呼ばれています」
武士の顔に希望の光が差した。
「あなたたちを守るために来ました」
屋敷の奥に通された禰宜は、立烏帽子に狩衣姿の物部氏の前に頭を下げる。
物部氏がいった。
「よう来てくれた、イズミ殿。音に聞こえた『神使い』が来て下されば千人力じゃ」
神使いには反論せず、イズミは物部氏に問うた。
「ヤツらはどのような様子でしょうか」
「仏教徒どもは屋敷の周りを囲んで念仏を唱えるだけだ。しかし1日中念仏を聞かされると気が滅入るせいだろうか。頭が痛い、体が動かない、中には気を失うものまでいる始末。あの念仏さえ止んでくれれば…」
イズミには思い当たることがあった。
「それは、念仏ではございませんぞ。ヤツらの中には経文を唱えるだけで人を殺すことができる念力者がいるのです」
「なんと奇怪な! そんなことが人にできるのか」
「ええ、それが仏教徒の力です」
「恐ろしい!」
「大丈夫でございます。屋敷の周りにしめ縄を張られれば、ヤツらの念力を防ぐことができます」
「では、さっそく部下のものにお教えください」
「かしこまりました」
イズミは、物部氏のとともに屋敷をしめ縄の結界で囲む。
森からその様子を見ていた裳付衣姿の僧が、森の奥へと走りだした。
しばらく走ると、同じ姿の僧がいる。
誦経をするその僧に耳打ちすると、彼は声を止めた。
走ってきた僧にいう。
「奈落様に報告を」
僧は森の中を走る。
すると森の木の下に袈裟姿の僧がいた。
「奈落様。物部の屋敷に神使いが現れました」
「なんだと? 物部め! 我々に逆らうばかりか、神使いまで呼び寄せて罪を重ねるとは!」
イライラした様子で檜扇を打ち付けると、「目にもの見せてくれる!」
報告した僧は頭を下げたままの姿勢で聞いていた。
奈落が続ける。
「経が聞こえぬが?」
「弁正様は、神使いが手を打ったため、お止めになられました」
「続けろ! 無知どもに仏の法理を教え諭すのだ!」
「おおせの通りに」
屋敷ではイズミがすべてものに護符を渡していた。
「しめ縄だけでも良いが、この護符を持っていればより安心できます」
そこに、誦経の声がまた響いてきた。
物部氏は驚いたように周りのものを見た。
「おお! なんともない! さすがは神使い様!」
「神使いはやめてください。私のことは『禰宜』とお呼びください」
「さすがだ、禰宜殿」
そこに武士と同じ褐衣姿の若い女性が現れた。
「お父様! 仏教徒どもがまた念仏を始めました!」
「わかっておる! それより客人に挨拶をせんか!」
「客?」
そしてイズミを見る。
「あなたは?」
「禰宜のイズミと申します」
「ではあなたが神使い様?!」
物部氏がたしなめる。
「これ!トチ、神使い様ではない禰宜殿とお呼びしろ」
「かしこまりました、禰宜殿」
「このたびはお疲れのことでしょう。しかし私が来たからにはもう少しの辛抱。きっとヤツらを蹴散らせてご覧に入れます」
「まあ頼もしい!」
「これをお付けください」
「なんです? これは」
「あなたを仏教徒から守る護符です」
ムッとした表情をするとトチはいった。
「私は武士の娘。仏教徒など恐れません」
「仏教徒を侮りなさいますな。彼らは手段を選びません。身を守ることは何でもやっておくことです」
強い口調にトチは押されて、しぶしぶ護符を手に取った。
イズミは誦経の声がする森に目を凝らしていた。
しかし人陰は見えない。
それでも彼は探していた。
「禰宜殿…」
イズミが振りかえると、トチが立っていた。
「先ほどは失礼しました」
どうやら護符のやりとりのことらしい。
「良いのですよ。わかってくだされば」
「お許し下さり、ありがとうございます」
イズミは森を探す。
しかしトチは、そばに立っていた。
「禰宜殿」
森を探しながらイズミは答える。
「はい…」
それに構わずトチは続けた。
「禰宜殿は、なぜこのようなことをされるようになられたのですか?」
イズミはトチを見た。
真剣な表情だった。
「どうしてそんなことをお聞きになるのです?」
トチは表情を暗くしていった。
「私、不安なんです。仏教徒の恐ろしい噂を聞きます。私…私…」
イズミはトチのふるえる手を取った。
「私は三野の国安八磨郡の小さな村の出身です。農民をやっていました。両親のもと、税はあるものの村のみんなと仲良く暮らしていましたが、ある日のこと、仏教徒がその村にやって来ました。彼らは、「我らに帰依せよ」といい、仏教がいかに素晴らしいかを語りました。しかし、村の長は仏教徒になりたいとは思わなかったので、断ったのです」
そこでイズミは話を止めた。
沈黙が長かったので、怪訝そうな顔をしたトチに促されるように彼は続きを話した。
「その日私は言いつけられた仕事をしないで、山に行きイチゴを腹いっぱい食べて村に帰ってきました。仕事をしなかった罰を受けねばなりませんが、帰らないわけにもいきません。しかし、村に帰ると様子がおかしいのです。村中に変な匂いがしました。家畜が死んでしばらくするとするあの匂いです。あまりに匂うので、気分が悪くなるほどでした。胸騒ぎがしながらも家に着きましたが、家の中からなにも音が聞こえません。普段なら食事の用意をする時間なのに。そして戸を開けると、そこには両親と兄弟の死体がありました」
蒼白な顔のトチが聞いた。
「仏教徒の仕業ですか?」
「はい。彼らは信徒にならないのなら殺してしまったほうがいいと判断したのです」
「なんてひどいこと!」
「でもこの話には続きがあるのです」
「……」
「私はその晩、泣き続けて夜を明かしました。朝になるとどこからともなく経を読む声が聞こえました。仏教徒が弔いの経を唱えているのかと思っていました」
「……」
「しかしそれは彼らの反魂経という経文で、仏教徒は死者を自由に操ることができるのです。経を唱えると死者たちは畑で仕事を始めます。身が朽ちて骨になって両親たちは働き続けました。私が禰宜になって、村にいた仏教徒を葬るまで…」
「……」
「仏教徒はいう。欲を捨てよ。己を捨てよ。無になれ、と。しかし、己を捨てた理想郷がこれなら、生きるとはいったい何なのでしょう。欲があってこそ、人は人ではないのか? 仏教徒にとって人とはいったい何なのか」
「……」
「私が禰宜になってこのようなことをしているのは、そういう理由です」
森の中の仏教徒は、誦経を行なう弁正を除いて、奈落のもとに集まっていた。
「経文で教化できればと思っていたが、神使いが現れたとすると、このままでは埒が明くまい。『解脱』の準備を始めよう」
「おおせの通りに」
「できれば信徒を増やしたかったが…」
「無念でございます」
「弁正に伝えよ。解脱を始めると」
「おおせの通りに」
僧が弁正のもとに走り、奈落の言葉を伝えると、彼は経を止めた。
そして地の底から響くような声で唱えた。
「懺悔ぇ、懺悔ぇー!」
イズミは、屋敷のものを集めていた。
そこにも弁正の声は響いている。
「懺悔ぇ、懺悔ぇー!」
苦々しい表情でイズミは、それを聞いた。
「仏教徒がやってきます」
「なにッ!?」
武士たちは色めき立った。
「仏教徒たちの合図です。彼らが攻めてきます」
「フン! 仏教徒などにやられる我々ではないわ! 返り討ちにしてくれる!」
「彼らは怪しい術をつかいます。気を付けて。口を布で覆ってください。香を使って襲ってくるかもしれない」
いつもの闘いではないことに武士たちは不安の色を見せた。
「闘いましょう! 勝利をこの手に掴むのです!」
物部氏が立ち上がった。
「我らは武士ぞ! 仏教徒にやられてなるものか!」
「おおー!」
部下のものが応える。
森では奈落が屋敷に向かっていた。
弁正が唱える。
「懺悔ぇ、懺悔ぇー!」
奈落が指示を出す。
「滅貪! 滅瞋! 滅痴! 行け!」
滅貪たちは、屋敷の塀を飛び越えると、武士に頭をつかむ。
「南無阿弥陀仏!」
滅貪の手が光り、武士の頭も光りに包まれると、武士は倒れた。
そして弁正が経を唱えると、その武士は仲間に向かって太刀をふるう。
仲間を攻撃できない武士たちは滅貪を罵った。
「畜生め!」
滅貪がいう。
「畜生は貴様らよ!」
そして、次の武士の頭をつかむ。
「南無阿弥陀仏!」
弁正に操られた武士が仲間を襲う。
その武士の頭をつかむとイズミはいった。
「祓給清給!」
イズミの手が光り、武士の頭が光る。
「私は何を?」
「ヤツらに操られていたのです」
イズミはもう一人の武士も治してやった。
滅貪がいう。
「神使い! 我執にとらわれし愚か者!」
「なにをいう! 貴様らが欲しがってるのは木偶ではないか!」
「真理の見えぬ畜生ども! 解脱せよ! 南無阿弥陀仏!」
滅貪が手をイズミにかざすと、そこから光がはなたれる。
「祓給清給!」
イズミがそう唱えると、彼に向かってきた光の玉が消えうせた。
イズミは武士たちにいった。
「ヤツらに矢を!」
武士たちは滅貪に向かって矢を放った。
奈落はその様子を見ていた。
そして後ろで部下を指図する物部氏の姿を見つけた。
矢を引くと、物部氏の頭に放つ。
物部氏の頭に矢が突き刺さった。
すると、物部氏は大声を上げた。
「ぐぬ! ぬおお!」
この世のものとは思えない声だった。
「お父様!」
トチが近寄ろうとするが、周りの者に止められる。
「お父様!」
悲痛な声が響く。
物部氏の体に変化が起きた。
刺された矢が大きくなり、体が大きくなる。
体は毛で覆われ、筋肉が盛り上がる。
物部氏は鬼となっていた。
「お父様!」
イズミが物部氏に手をかざす。
「祓給清給!」
光りの塊が物部氏に向かうが、物部氏が手でそれを握りつぶす。
「鬼落とし…奈落が来ているのか」
イズミがいうと、声を上げたものがある。
「ハハハ! 神使い! 思い知ったか、仏の力!」
奈落が森の木の上から姿を現した。
その間も物部氏は部下を殺し続ける。
イズミはトチにいった。
「ああなってしまっては、もう助けることはできない。殺せ! 殺すんだ!」
「できない…父を殺すなんて…私にはできない…」
「ダメだ! 打て! 殺せ!でないと死者が増える」
「できない!」
「ならば…私が…」
イズミは矢を取ると、物部氏であった鬼の目を射た。
「ぐわああッ!!」
「お父様!」
目から血を流し、痙攣する鬼。
「神使い! 貴様は人を救うのか? それとも殺すのか?」
「黙れ! 奈落!」
イズミは奈落に矢を射る。
「あっ!」
奈落は足を射られ、木から落ちる。
「神使い! 愚か者!」
「人を人とも思わぬ貴様こそ愚か者だ!」
イズミは、奈落の矢をつかむ。
矢の先に鬼のツノが付いている。
イズミはそれを蔑むように見た。
「己が犯したことを、身に受けながら死ぬがいい!」
イズミは矢を奈落の頭に突き刺す。
「ぐわああッ!」
奈落が叫ぶ。
「やめろ! 私は! 私は! 仏教徒だぞ! そんな私を鬼にするなぞ!」
「黙れ!」
「ぐあああッ!」
鬼に変わっていく奈落。
筋肉が盛り上がる瞬間。
イズミは奈落の首を太刀で切り落とす。
血しぶきが上がって、奈落は息絶えた。
それを潮時と見たか、仏教徒たちは森へと帰っていく。
残ったのは、物部氏の部下数名とトチだった。
「私、仏教徒になります」
トチがイズミにいった。
「いま…なんと?」
イズミは、彼女の肩をつかんで叫ぶ。
「目を覚ませ! 仏教徒が欲しがっているのは、魂のない屍体だけだぞ! あなたは生きたまま死んでもいいのか!? 人は…」
「疲れたんです…闘うことに…」
イズミはトチを見た。
その決意は変わらないと思えた。
トチの後ろから虚ろな目で物部氏の部下たちが、イズミを見る。
「そうですか…ヤツらも宗徒を殺しはしないでしょう…」
「申し訳ありません、こんなことになって…」
「あなたの意思は尊重します…では、私はヤツらが来る前に退散しましょう」
イズミは荷物をまとめる。
そして荷物を持つと、後ろを振り向かずに屋敷を去った。