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フィルは、またくりんと目を丸くして、備え付けのベンチに腰掛けた。
「ここの離宮にいる人間なら、誰でも知ってるよ。こわーい執事だ」
「怖いんだ」
フィルのおどけた言い方に、アディは弾かれたように笑った。その様子を見て、フィルもにこにこと笑う。
「アディの笑顔は、本当に可愛いね。いつもそうやって笑っていればいいのに」
言われてぱっと顔を赤くしたアディだが、そういえば王宮に来てから、こんな風に声を出して笑ったのは初めてだと思い当たる。
ずっと淑女でいるようにおとなしくしてきたアディだが、久しぶりに教会の友人たちと話しているような気分になった。
「こんな風に笑ったのは、王宮に来て初めてかも。いつも怖い執事にいじめられていたから」
「ルースは君のことが気に入ってるんだよ」
「どうだか! 絶対面白がっているわ、あれ。いいおもちゃを見つけた猫みたいに私のこと振り回しているのよ」
「ああ、それはいい例えだね」
フィルもころころと笑う。一緒に笑ったアディは、体の力が抜けていくのを感じた。
王宮に来て二週間になる。その間、こんなにも気をはっていたのかと、改めて気づいた。
フィルがどうぞ、というように隣を空けたので、アディは少し距離を置いて同じように腰を賭けた。二人の間に、さっきまでフィルが読んでいた本が置いてある。
「何を読んでいたの?」
「これ」
渡された本を開いてみれば、それはキリリシア王国の地理の本だった。各地の特徴や産業、名産まで細かく載っている。最初のところには、大きな地図までついていた。
その中にアディは、懐かしい名前を見つけた。
「……ロザーナ」
たった二週間しか過ぎていないのに、そこにいたのはもうずいぶんと昔のことのように感じる。
アディは、街を示すその名前を指さした。
「ここ、私のいた街なの。こうしてみると、キリノアからはロザーナまではすぐなのにね」
地図の上では、二つの街はアディの人差し指の長さほどしかない。だが実際は、馬車で三日はかかる距離だ。
「アディは、戻りたくない?」
「戻るって、どこへ?」
「ロザーナに」
アディが顔をあげると、にこにこと笑っているフィルがいた。けれど、その瞳だけは笑んではいない。不思議な表情で、フィルが言った。
「ねえ。やっぱり、王太子妃になりたい?」
アディは、まじまじとフィルの顔を見つめる。
フィルはアディが王太子妃候補としてここにいることを知っている。アディがこの王宮に着いた時にはかなりの人数の出迎えを受けたので、フィルもその中にいたのかもしれない。
「なりたいわ」
「なんで?」
アディは、真っ青な空を見上げた。
「あまり愉快な話じゃないから、聞いたらすぐに忘れてくれる?」
「いいよ。覚えることは苦手だけど、忘れるのは得意だ」
「あら、私と同じね」
ひとしきり二人で笑うと、アディは王宮に来て初めて自分の気持ちを吐き出すことにした。




