9:理想郷
かつて王の地位を失うまで、人生の大半を過ごした王都。
十年前に平民として去ることになったこの街に、カインは新たな勇者として戻ってきた。
揺れる馬車から見える懐かしい景色。
「ん? あれは……?」
街に近づくにつれ、カインは王都の住民達が国旗を持って蠢いていることに気がついた。
瞬時にその意図を察した体が嫌悪感で固まりそうになるのを、辛うじて誤魔化す。
「勇者様ー!」
「お帰りなさいカイン様―!」
「国王陛下ばんさーい!」
かつてカイン達の処刑に歓喜していた民衆。
そんな彼らが、両手を振って王の帰還を歓迎していた。
「御覧ください。人々もまた十年前の真実を知って、真なる王の帰還を歓迎しております」
……虫唾が走る。
同乗していた貴族の白々しい説明と演技。
カインは今すぐ聖剣を抜いて、この衆愚をなぎ払いたい気分に駆られた。
こいつらは、まさかこれでこちらが喜ぶと本気で思っているのか?
……いや、きっと思っているのだろう。
世の中には救いがたく、そして自覚のない低俗というものが確かに存在する。
この光景を見て本気で喜ぶような人間は実在するし、むしろその類の方がよほど多い。
作り話への反応を見てみればよくわかる。
洗脳で寝取られた姫君。
正気を取り戻した彼女に対し、彼らは裏切った身で被害者面はおかしい、加害者なのだから処罰しろと叫ぶのだ。
今のお前達とて、全く同じ立場だろうに。
勇者ヒロトに騙されていた?
嘘を付くな。
お前達自身が望んで選んだ未来だろう。
賢者は自分の行動が偽善ではないかと疑い、愚者は己の判断こそが最善であると信じて疑わない。
自分は完璧にも完全にも程遠いというのに、他人にはそれが出来て当然と言い放つ。
他者にはひたすらに厳しく、自身にはひたすらに甘い。
彼らにとって都合の悪い事実は、その全てが実在を否定されるだけだ。
「魔王を倒してくださーい!」
「偽物の勇者ヒロトに天罰を!」
喉元を過ぎれば、熱さはすぐに忘れる。
人々は思っていた。
悪の元凶はヒロト達だ。
善良な自分達はその被害を受けたのだと。
そしてその哀れな自分達を救済するために、国王カインが舞い戻ったのだと。
彼らは、十年前にカインを追放した時からまるで成長していなかった。
当たり前だ。
それが無いからこそ、そしてその意欲が無いからこそ、大衆は愚かだと言えるのだから。
彼らを舞台の主役にしてやろうと思っている者など、この世界のどこにも存在しない。
いや、それどころか世界の外にすらも。
カインは”善行に邁進する”民衆を見ながら、自分自身に言い聞かせた。
魔女は豚を太らせてから食らうのだ、と。
これは我慢も忍耐も無いような連中が、気晴らしのために見るような安い演劇ではないのだ。
害虫を駆除することを考えてみるといい。
仮にゴキブリが見つかったとして、嫌悪と憎悪に駆られてそれを駆除するだけで十分だろうか?
いや、断じてそんなことはない。
なぜなら、見えない所にはその何倍ものゴキブリが存在しているのだから。
視界に入った数匹を殺しただけで満足しているようでは、未来永劫、問題は解決しない。
それではまたしばらく後で新しいゴキブリを発見することになる。
……そして同じことがまた繰り返されるだけだ。
本当に害虫との縁を切りたいのであれば、目の届かないところにある奴らの巣ごと、完全消滅させなければならないのである。
カインは聖剣に手を伸ばしたい衝動を押し殺した。
今この場で自分の気分が晴れるかどうかなど、そんなことは二の次、三の次。
必要なのは根本対策なのだから。
★
「お待ちしておりました陛……、カイン様」
胸糞悪い気分を押し隠しながら王宮に入ったカインを、かつての妻、アシェリアが出迎えた。
同格以上の来客に対して国王が対応出来ない場合、政治案件は宰相、儀礼案件は正妃が対応することになる。
そのため、ヒロトの妻となった彼女が出てくるのは別に不自然ではない。
十年前に強かった幼さは薄れ、少なくとも見た目だけは大人の女になったアシェリア。
……いや、大人となるのに必要な要件は年齢だけだ。
それ以外は関係ない。
ここは彼女もまた大人になったと言うべきだろう。
あるいは、悪意を込めて”老けた”もしくは”旬を過ぎた”と表現してやってもいいかもしれないが。
「私は王でも教皇でもありませんが?」
「そ、それは……」
人間の国が一つしかない現状において、通常、この形式で王妃の出迎えを受けるのは教皇だけだ。 それ以外に可能性があるとすれば、この王宮の主である国王しかいない。
当然のことながらカインは教皇ではないので、つまり今は国王として彼女に迎えられたことになる。
自分の家で、自分自身が客人として歓迎される。
なんとも奇妙な構図だが、今回は正にそういう扱いになると彼女達は考えたのだろう。
もちろん友好関係的な意味ではアシェリアを前面に出すのは非常にマズいのだが、しかしここで別の人間を当てれば、そこを起点に難癖をつけられてしまう可能性を懸念したようだ。
「カ、カイン様、ここで立ち話も何です。中へ」
衛兵の一人が気を効かせた。
本来はマナー違反なのだが、ここで彼を咎める者はいないだろう。
少なくとも状況が悪化するまでは、という条件付きだが。
現時点での国王はあくまでもヒロトのまま。
思わずカインを”陛下”と呼びそうになったことに気まずさを感じつつ、アシェリアはカインを謁見の間まで案内した。
もちろんそれも慣例的にそうすることになっているというだけの話だ。
何せ王宮内に限って言えば、彼女よりもカインの方がよく知っているのだから。
カインは幼少の頃から二十年以上に渡ってこの王宮内で暮らしてきた。
それは十数年ここで生活してきたアシェリアよりももちろん長く、不在の間に変わった箇所を除けば、彼が知らない場所など無い。
「……」
「……」
衛兵二人を引き連れ、無言で歩いていくかつての夫婦。
果たしてそれが勇者の福音を与えられた影響なのかはわからないが、カインは前を歩くアシェリアの体が震えていることに気がついた。
それが恐れであることは想像に難くない。
背後から斬り殺されるとでも思っているのだろうか?
……いや、きっと本当にそう思っているのだろう。
遠くは小さく見え、近くは大きく見える。
物事の将来よりも目先の感情を満足させることを優先する人間なのだ、彼女達は。
いや、この世界の”普通の”人間達は。
「どうぞ」
(……ん?)
謁見の間まで案内されたカイン。
両脇には騎士団の兵士達と、宰相や財務大臣を初めとする高位の文官が並んでいた。
が、しかしだ。
ここでアシェリアは、カインに対して具体的な立ち位置を示さなかった。
(こちらの出方を伺っているのか?)
緊張した空気。
やはり彼女達はやはり恐れているのだ。
ここでカインに対して玉座を勧めれば、王に戻った彼によって、粛清の嵐が早々に吹き荒れるかもしれない。
逆に玉座の前に跪かせれば、簒奪の協力者として名指しされる可能性が高まる。
この国の歴史上でも、おそらくはこれと同じ様な事態が起こったことはない故に、読み切れていないのだろう
しかし同時にそれは、彼女達が一枚岩でないことの証明でもある。
カインを迎えに来た一団の者達であれば、きっと躊躇うこと無く玉座を勧めたはずだ。
空席となっている玉座に座るのか、あるいはその前に跪くのか。
その選択はカインの手に委ねられた。
愚かな者達だ。
よりにもよって敵に選択権を与えるなどと。
(決まっている。一番都合がいい方を選ぶだけだ)
カインは玉座の前まで行くと、その前で跪いた。
少し安堵したような表情を浮かべたアシェリア達。
彼女達が、カインの行動の意図を理解できていないのは明白だ。
どうやら自分達は許されそうだと思いこんで、アシェリアは玉座に二つ並んだ椅子の片方、王妃が座るべき場所に座った。
結局のところだ。
この王都にいる者達は皆、物事を考える際に、自分達の溜飲が下がるかどうかを基準にして考えている。
そしてそれが今回も通用すると思っているのである。
他人を貶めて自らの優位を確かめる者達と、自分自身を高みへと持ち上げようとする者達。
その根幹が全く異なるということを、彼らは理解しようとする素振りすら見せようとはしない。
カインがどうして玉座に座らなかったのか。
この時点でその思惑に気がついた者は、まだ一人もいなかった。