11:人は過ちを繰り返す
地方連合軍が攻め込んでからニ週間後。
聖女と聖獣が復活した聖地には、束の間の平穏が訪れていた。
「聖女様!」
「リリアナ様!」
“呪われた“青い空の下、元々聖地にいた者達も、最近になって舞い戻った非主流派も、そしてさらには先日戦っていた相手である地方連合軍に属していた者達まで、人々はこぞって聖女のいる神殿の前に列を作っていた。
神殿の外には、守護獣であるルシアが悠然と佇んでいる。
聖女から発せられる神々しさと、聖獣が見せつけた圧倒的な力。
それは極端な飴と鞭として機能していた。
「お前達! 聖女様に近づくな! 無礼だぞ!」
リリアナの護衛をしていた神官達が、押し寄せた民衆に向かって武器を構えた。
ここで聖女に何かあれば大事である。
場合によっては自分達の首が飛んだっておかしくはないのだ。
「おまちなさい。人々の悩みを解消するのも私の務め。女神様もきっとそれをお望みでしょう」
「聖女様!」
神官達を制し、リリアナが神殿の外へと出てきた。
どうやら彼女は人々の話に耳を傾ける気らしい。
傷一つ無い白い肌と、それ以上に白いドレス。
民衆は表れた少女の神々しさに圧倒されて、一瞬だけ押し黙った。
そして誰もがこう思った。
名を確認する必要などない。
間違いなくこの方が聖女様だ、と。
「さあ皆さん。私に皆さんを悩みを教えてください。皆さんの苦しみは私の苦しみ。共に分かち合いましょう」
リリアナが両手を広げると、我に返った人々は我先にと群がった。
「この子の様子が、呪われた水を飲んでから変なんです!」
「うちの婆さんもです! 絶対あの水のせいに決まってる!」
妄想と空想は、時に事実と現実へと姿を変える。
人々は自分達の体調が優れないのは青い水の影響に違いないと思っていた。
……実際に水がどのような影響を及ぼすのか検証しようとした者など、まだ一人もいないというのに。
この世界において教育だの学問だのというのは、純粋に悪魔の所業に等しい。
よりにもよって聖地というこの場所において、そんなものに手を染めるなど言語道断だ。
「まあ。私が眠っている間にそんなことが起こっていたのですね。それに空もこんなに青く……」
リリアナは空を見上げた。
彼女もずっと気にはなっていたのだ。
自分の知る空の色は黄色だったはずだというのに、どうしてこんなに青いのかと。
「そうです! 空が青くなってから、毎日のように眩暈がする!」
「眩しくて気軽に外を出歩けません!」
リリアナも、王都で起こった戦いに関しては既に聞いている。
神に背いた先代教皇グレゴリーと、堕ちた魔王カインの戦い。
そして新たに出現した偽の女神シュメール。
つまりリリアナが聞かされた話を基にして考えるなら、王都という場所は正に悪の巣窟と化したわけだ。
人は自分が悪いなどと本心から受け入れたりはしない。
善良なる人々が住む聖地と、悪しき者達が住む王都。
そこには極めてわかりやすい構図が作られていた。
「そう、全ては魔王のせいです」
聖女に群がった人の壁の反対側から、落ち着いた男の声が響いた。
別に叫んだわけでもないというのに、騒がしい中でやけに通る声だった。
「あなたは……?」
「これは失礼。私は司教のニトロと申します」
割れた人の壁の間を通り、彼は聖女の前へと進み出た。
「それではニトロさん。魔王というのは魔王カインのことですか? 全てが魔王のせいだというのはどういう意味なのでしょう?」
リリアナはあどけない表情を司教に向けた。
どうやら彼女にも、目の前に現れた男は普通の人間に見えるらしい。
しかしこの段階になってもまだ魔王アベルの存在が知られていないというのは、カイン達にとって朗報なのだろうか?
情報は錯綜し、この聖地では事実と真実の境界すらも不明瞭となっていた。
「そう、魔王カインです。この”呪われた”青い空も、あの”呪われた”青い水も、全ては魔王カインの企みによるものなのです」
ニトロは聖女に対してというよりも、むしろ民衆を意識しながら宣言した。
彼らはまるで自分達が極めて重要な真実を知ってしまったとばかりに、息を呑んで成り行きを見守っている。
「魔王カイン……。これはその呪いだというのですか?」
「その通り。あの魔王は邪神シュメールと結託し、世界に呪いを振りまいているのです。このままではやがて呪いが全てを飲み込み、世界は滅びることでしょう」
宗教とは何か。
それは悪意を覆い隠す綺麗事だ。
力を持っていることと、それを上手く扱えることは別の話。
ニトロはこの場に虚飾した悪意を振りまいた。
そう、善と正義という究極の悪を。
「魔王……。魔王カインを倒せば、人々は苦しみから解放されるのですか?」
「ええ、もちろんです」
我ながらよくもまあ、こんなでまかせを言えるものだと、ニトロは内心で自嘲した。
だがそんなことはどうでもいい。
とにかく今は、この無垢な聖女様をその気にさせることが優先だ。
「……ならば討ち滅ぼしましょう。その魔王カインを」
即断即決。
聖女がカインと敵とみなした瞬間、それまで動かなかった聖獣ルシアが王都の方角に顔を向けた。
「おお! 流石は聖女様だ!」
「聖女様だけを行かせるわけにはいかねぇ! 俺達も一緒に戦います!」
自分も歴史の大舞台に上がったと舞い上がったのか、あるいは健気な聖女の姿に心を打たれたのか。
人々は堪えきれずに、次々と声を上げ始めた。
★
さて、民衆が打倒カインに沸き始めた後、司教ニトロは次にドクトリンの部屋を訪れた。
先日の戦いで唯一生き残った枢機卿である彼を焚き付けるためにである。
「気分はいかがです? 教皇聖下」
「気が早いですよニトロさん。選挙は一週間後、それまではまだ枢機卿です」
教皇選挙に立候補出来るのは枢機卿の地位にある者のみ。
つまり他に候補が存在しない現状において、彼はもう立候補さえすれば教皇になれるのである。
もはや教皇ドクトリンの誕生は時間の問題でしか無い。
それにしても……。
(こいつ……、こんな口調だったか?)
ニトロはドクトリンの様子を見て戸惑った。
先日までの粗暴な口調ではなく、やけに紳士的な言葉遣いへと変わっているではないか。
その瞳は、まるで初恋に目覚めた少年のようだ。
(ふん、こいつもリリアナにやられたのか)
洗脳か、あるいは洗礼か。
あの聖女にはそういう能力がある。
それは単に見た目の印象で人を引き込むというだけではない。
白のタリスマンによる影響が、明確にそういう現象を引き起こすのだ。
人々の心を惑わす力。
それこそが本当の意味での聖女の力なのだと、ニトロは推測していた。
「しかし聖女様は、既に打倒魔王のために王都へと向かう意志を固めたようです。まさかあの方を一人で行かせるわけにはいきますまい。となれば、教会を率いる教皇の存在は必須。そしてその役目を担うことが出来るのは……。ドクトリン卿、あなただけです。もはや個人の拘りを優先している場合ではありません」
ニトロは、ドクトリンが教皇になるのを躊躇っている体で話した。
つまりは自分が教皇になるなどとんでもないと渋っている相手を、説得しているという体裁で。
「確かに……。聖女様が復活された今、それを支える者が必要……。女神教徒としてこれ以上の名誉はないでしょうな」
少し前のドクトリンであれば、こんな露骨な機嫌取りに騙されたりはしなかっただろう。
彼だって、仮にも福音派の領袖まで上り詰めた男なのだ。
だが今の彼は違う。
ドクトリンはニトロの言葉を真に受け、大真面目に教皇への立候補を考え始めた。
そしてその様子は、ニトロに別の危機感を芽生えさせるに十分だった。
大衆を扇動する。
自分やエイリークでも容易ではないことを、聖女はこうも容易く実現してしまうのか、と。
いや、ニトロやエイリークだけではない。
これまでの歴史上で、いったいどれだけの者達が他人を都合よく操ろうと腐心してきたことか。
白のタリスマン。
……危険だ。
そして一週間後、ドクトリンは聖女リリアナも同席した選挙において正式に新たな教皇に選出された。
その場で行われた受諾演説の中で、彼が打倒魔王のため王都に戦力を派遣することを宣言したのは、もはや必然の流れだった。
もちろん、反対した者など一人もいない。
……そうだ。
人は同じ過ちを繰り返し続ける。
他人の失敗を見て嗤い、自分ならばこんな失態は犯さないと確信するのだ。
グレゴリーの死からまだ数ヶ月と経っていないというのに、彼らはそれと同じ道を選び取った。
全面戦争。
即ち優等たる自分達が、劣等たる他人を蹂躙する正しき世界の実現。
その甘美な誘惑から逃れられる者を……、人間とは呼ばない。