5:この世界の主人公
黒い雲で覆われた空が、力の解放を求めて鳴り始めた。
向き合う魔王と勇者達。
魔王の頭部全体を覆う兜。
そしてその奥にある、瞳の赤。
その視線が交差したにも関わらず、ヒロト達は誰もそのことに気が付かなかった。
いや、気に止めなかったと言う方が正しい。
赤い瞳の王がこの世界からいなくなって既に十年。
異世界から来たヒロトはそんなことには元から何の興味も無かったし、彼の妻となった三人とて、それが重要なことだとは一度も考えたことが無かった。
もしも彼らが真剣に王国の運営を考えていたのなら、その意味に気がつくことが出来たかもしれない。
それとも、正妃であるアシェリアを連れて来ていればあるいは……。
「俺がやる。お前達は下がっていろ」
空気を切り裂くように響く魔王の声。
それを聞いた魔族達が、躊躇いなく距離を取り始めた。
明確に示される上下関係、そして力関係。
「逃がすわけないでしょ! フレイム――」
――ゴキュ!
「――!」
後退する魔族達を炎の魔法で薙ぎ払おうとしたエヴァ。
しかし、彼女の腕は魔法を放つよりも前に潰された。
魔力の供給が断たれて、魔法が不発に終わる。
いつの間にか右腕を上げ、握った手を彼女の方向に向けていた魔王。
エヴァを腕を潰したのがどのような手段によるものかはともかくとして、誰の仕業によるものかは明らかだろう。
「あ……、う……」
エヴァが脳裏を疑問で満たしながら、呻き声を上げた。
この世界の女神から、勇者の補佐役として聖戦士の福音を与えられた三人。
彼女達はこれまで、圧倒的な戦力を持って敵を一方的に蹂躙してきた、
が、しかしである。
戦場に立つようになったのは、あくまでも福音を手に入れてからのことだ。
早い話、彼女達は敵の攻撃によって大きな傷を負ったこともなければ、痛みに耐えるための訓練すら受けていないのである。
「エヴァ!」
「エヴァさん!」
地面に落ちた杖。
潰された腕を抑えながら蹲ったエヴァに駆け寄ろうとするヒロトとアドレナ。
「うっ!」
しかし治癒師の本領を発揮しようとしたアドレナの首を、見えない力が掴んだ。
魔王の腕の動きに合わせて、今度は彼女の体が宙に浮く。
そして――。
ゴキャ!
「――」
この世界の魔法には死者を蘇らせる類のものはない。
首を骨まで握りつぶされたアドレナの人生は、ここで終わった。
聖戦士として神に選ばれた人間の、呆気ない幕切れ。
虫をいたぶるような趣味を魔王は持っていない。
エヴァに注意を奪われていたヒロトは、その音でようやく彼女の異変に気がついた。
「アドレナ! どうしたんだ! しっかりしろアドレナ!」
自分達は特別な存在であるという驕りが、現状の把握を妨げる。
この世界の魔法には死者を蘇らせる類のものはない。
しかし仮にそんな魔法が存在したとしても、この場でそれを行使するものはいない。
生者ではありえない方向に曲がった首、そして今さっきエヴァの腕が同じように潰された事実を持ってしても、ヒロトは彼女が死んだということを理解できなかった。
所詮は安全地帯から上から目線で物事を見ていただけの小物である。
いざ自分自身が困難に直面したところで、それを理解し立ち向かうだけの力はない。
そういう類の能力は、苦難と困難の中でこそ養われるものであり、女神から貰った力に頼って気を良くしているようでは論外だ。
「このっ!」
この事態の犯人に気がついた魔弓士ユリアが弓を引く。
狙いは当然、魔王だ。
範囲を極端に限定するなら、彼女はヒロトよりも現実が見えていたと言えるかもしれない。
バシュ!
狙いは心臓。
先代魔王の防御も貫いた魔法の矢が、新たな魔王に迫る。
(貰った!)
ユリアは勝利を確信した。
魔王はまだ一歩も動いていない。
仮に今から動き始めたとしても、タイミング的に回避は不可能。
矢の攻撃面積を考慮すれば、確実に心臓を抉り取ることが出来る。
と、そう判断したわけだ。
……まったくもって愚かな女である。
カンッ!
「なっ!」
魔王の左胸に吸い込まれた魔法の矢。
しかしそれは呆気なく、安っぽい音を立てて鎧に弾かれた。
文字通り、傷一つついてはいない。
グキョ!
「――!」
魔王が何かを握る潰すかのように宙を掴む。
エヴァに続き、ユリアもまた腕を握り潰された。
アドレナのいない今、その腕がこの場ですぐに治る可能性は間違いなく、無い。
「ユリア!」
ガシュ!
「……え?」
ヒロトが視線をエヴァからユリアへと移動させたのと同時に、魔王はその腕を今度は横に振った。
手刀が空を切り、それに合わせて駄目押しとばかりにユリアの首が斬り裂かれる。
「ヒロ……」
訳が分からないまま仰向けに倒れるユリア。
その視界を、黒く不機嫌な空が埋めた。
――いったいどうしてこうなるの?
――私達は神に選ばれた存在でしょう?
彼女の意識に深く根付いた選民思想が、現実の認識を拒む。
――私達は聖戦士。
――女神に選ばれた存在。
――ヒロトの手足。
――だから何をやっても許される。
――だって私達がこの世界の主役なのだから。
――そうでしょう?
――そのはずでしょう?
疑問に目を見開いたまま、最後を迎えたユリア。
その返り血を浴びたヒロトは、この段階になってようやく理解が現実に追いついた。
「お前……! よくもみんなを!」
今まで想像すらしたことがなかった仲間の死。
憎しみを宿した目で魔王を睨みつけ、ヒロトは聖剣を構えた。
そもそもの話として、彼がもっと早い段階で魔王に攻撃していれば、二人はまだ生きていたかもしれない。
しかしその可能性を考えるのは苦痛であり、悪徳である。
なぜならばそれは彼にとって非常に都合の悪いものだからだ。
善悪の基準は決して一律ではない。
勇者ヒロトのそれは、彼自身の気分と機嫌と、目先の都合だったというだけの話でしかない。
そう、大衆と全く同様に、だ。
勇者に合わせて、魔王もまた剣を抜く。
ヒロトの剣が僅かに黄色みを帯びた白を纏ったのに対し、魔王の剣は僅かに紫を帯びた黒を纏っていた。
「なんだ、その剣は?!」
明らかな対称関係。
ヒロトは魔王の剣が、自分の聖剣と対を成す物である可能性にすぐ辿り着いた。
そうだとすれば、聖戦士である二人が呆気なく殺されたことにも説明がつく。
聖戦士よりも強力な勇者の福音。
目の前の敵がそれと同等の力を持っているというのならば。
「これか? この剣は女神から与えられた。……勇者を駆逐するためにな」
「バカな!」
ヒロトは魔王の言葉を疑った。
当然だ。
聖剣もまた、勇者の福音と一緒に彼が女神から与えられた物だ。
言うなれば、女神が彼に加護を与えたと言っていい。
――その女神がどうして敵である魔王に力を与える?!
(嘘だ、嘘に決まってる!)
ヒロトは魔王の言葉を攪乱戦術だと結論づけた。
都合の悪い現実は虚構となり、楽観的な判断が選択される。
……負けている状況では特にそうだ。
「うぉぉぉぉぉぉぉ!」
剣を振りかぶり、敵を一刀両断しようと走り出す。
その様子を剣術に秀でた者が見れば、おそらくこのように感じるのではないだろうか?
ナンセンス。
才能の欠片も、努力の痕跡も見当たらない、と。
ただひたすらに勇者の力を当てにした戦い。
貰い物の力に頼っていて成長が望めるはずもない。
恥と屈辱を飲み込む覚悟の無いものに、望む未来など訪れはしない。
ガシュシュ! グシュ!
魔王は冷静に剣を振り、ヒロトの両腕両足を切り落とした。
そこには何の感慨も見当たらない。
当たり前だろう。
何の美学もない相手なのだから。
――そう、美学だ。
それがどれだけ利己的であったとしても。
それがどれだけ愚かであったとしても。
それがどれだけ醜悪であったとしても。
美学のあるものにこそ、人は惹かれる。
「あぐっ……!」
苦痛に歪む顔。
胴体だけになった勇者。
何の美学も無い男は、何も出来ずに地面に転がった。
あまりの痛みで叫び声を上げることもせずに気を失ったヒロト。
魔王はその横を素通りし、今度はエヴァに近づいていく。
「あ……、あ……」
時間の猶予によって多少は痛みになれたエヴァだったが、横で既に屍となっている二人、そして胴体だけとなったヒロトを見て震えていた。
彼女の脳裏に、これから訪れるであろう自身の最後の姿が過る。
(こ、殺される!)
震えて上手く声が出ない。
恐怖で体が言うことを聞かない。
「こ、来ないで……」
絞り出す様な声を辛うじて出しながら、尻もちをついたままで後ずさるエヴァ。
しかし魔王は止まること無く彼女に向かって歩いてくる。
いったいどうしてこうなったのか。
自分達はこの世界の中心のはずでは無かったのかとエヴァは思った。
長年に渡って繰り返された勝利と成功。
そしてこれまで全く訪れることが無かった敗北と失敗、あるいは苦痛と苦難。
この世界を自分達の好きにしていい。
あの女神はそう言ったのだ。
だからこそ魔王を倒して名声を手に入れ、ヒロトを王にして権力を手に入れた。
高価な服やアクセサリーで着飾り、ヒロトに色目を使う女は一方的に処分した。
殺せなかったのは、あの正妃アシェリアぐらいのものだ。
何が悪かったというのか。
この世界は自分達のためにあるはずだ。
であれば、自分達はあるべき姿の体現者ではないか。
正しいはずだ。
いや、間違いなく正しい。
だって世界はそうあるべきだと神が言ったのだから。
しかし現実は確かにそうはなっていない。
勇者ヒロトは敗北し、他の聖戦士二人は既に死んだ。
……そう、彼女の目の前に立つ男の手によって。
「た、助けて……。お願い……、何でもするから……」
失禁。
もはやその傲慢さを維持する余力もなく、惨めに服と地面を濡らしながら、エヴァは鎧に身を包んだ男を見上げて命乞いをした。
恐怖によってか、もはや正気を維持しているかどうかも不透明な彼女を無言で見下ろす魔王。
数秒の静寂。
成り行きを見守っていた魔族達も、そして生にしがみつこうとしたエヴァも、ただ彼の反応を待った。
……この場の支配者となった男の反応を。
「……」
兜の奥で、魔王の瞳が赤く光る。
見定めるべきは夢か現か。
その決断と共に、彼はエヴァに背を向けた。
「勇者の傷を治せ! 腕と脚は無くしたままでいい! 嵐が来る前に引き上げるぞ!」
翻って再び歩き出した魔王が魔族達に指示を出す。
(助かった……)
――首の皮一枚つながった!
歩きながら剣を治める魔王。
その紫色のマントが揺れるの見ながら、エヴァはそう思った。
(そうよ……。だって女神様が言ったのよ)
自分達がこの世界の主人公だと。
これは自分達が主役の物語。
だからここで死ぬわけなどないのだ。
きっとこれは話を盛り上げるためのイベントに違いない。
そうだ、そうに決まっている!
死んだ二人は神の奇跡で蘇り、自分とヒロトは新たな力を得てもっと強い存在になるのだ。
(きっとそうだわ……!)
――ガキョ!
「……?」
首の付近から体内に響いた衝撃、痛み。
そして不自然に傾く視界。
エヴァは気が付かなかった。
魔王が治療しろと言ったのは勇者のみ。
そこに魔王の攻撃で腕を負傷した彼女は……、入っていない。
制御不能に陥り、意識と共に崩れ落ちたエヴァの体。
それに背を向けたままの魔王は、いつの間にか宙を掴むようにして左手を握っていた。