3:救世主ユダ
「どうだ?! マリア!」
「あぁっ! いい! いいですジェームズ様っ!」
嵐の夜に女の嬌声が響く。
地方のとある村では、領主が毎晩のように若い女を漁っていた。
名目はもちろん、一族の血筋を絶やさないためである。
先日、国王カインの復権を巻き返しの好機と見て、地方貴族達はこぞって王都に人材を送り出した。
が、しかしその結果は敗北。
カインへのアピールを意識して若い人材を優先的に選んだことが仇となり、彼らは跡継ぎの大半を失った。
そこで新たな後継者を手の入れるために、自分達の領内から慌てて適齢期の女を集めたのである。
貴族との縁談はそう簡単ではないため、まずは平民の女に、最悪の場合の予備を産ませようと考えたわけだ。
堂々と若い女を抱ける機会とあって、四十を過ぎたばかりの領主ジェームズは喜んで女を選んだ。
今、ベッドの上で喜びの声を上げているマリアもまた、そんな一人である。
白い柔肌が汗ばみ、長い金髪が揺れる。
十代半ばを迎えた彼女が生娘だったのは先日までの話だ。
そして……。
彼女が別の男の婚約者だったのも。
二人が求め合う寝室の外では、一人の青年がうずくまって静かに涙を流していた。
ユダ。
彼こそが、先日までマリアの婚約者だった男だ。
この村の平民、その中でも立場の弱い親無し。
社会的影響力では完全に負けている。
そんな彼は敷地にこっそりと忍び込み、建物の壁の外で元婚約者が自分ではなくジェームズの名を呼ぶのを聞いていた。
”その光景”を直接見る勇気はないが、推測するに十分な状況証拠は揃っている。
まさか部屋の灯りを消して、二人でカードゲームにのめり込んでいるわけでもあるまい。
あるいは薬でもキメているのか?
……今ならばそれも許せそうだ。
壁の向こうで二人の男女が今、何をしているのか。
ユダの心はその現実に押しつぶされそうになっていた。
『体は奪われても、心はあなたのものよ』
強制的にジェームズの側室となることが決まり、ユダとの婚約を破棄させられることになったマリアが、彼に対して言った言葉がそれである。
……その結果がこれだ。
「マリア! お前はもう、俺だけのモノだ!」
「ジェームズ様! 私はもう、身も心もジェームズ様の物です! ジェームズ様の子供を産ませてください!」
綺麗な建前、腐った本音。
結局の所、美辞麗句に踊らされた者に明るい未来などないということか。
雨がユダの涙を押し流し、風が彼の耳から男女の嬌声を遠ざける。
嵐は彼を慰めているのか、それとも嘲笑っているのか。
一瞬でも信じた奴が悪い。
それを実感として理解したユダは、ついに我慢できなくなって走り出した。
雷鳴の鳴り響く空の底を抜け、誰もいない自分の家へと駆け込む。
ベッドから布団を剥ぎ取り、彼は現実を拒むかのように包まって壁際に座り込んだ。
自分が雨に濡れている今、あの二人は自分達の汗で体を濡らしている。
下がり始めた体温と共に、ユダは心を深淵へと引きずり込まれそうな気分だった。
ユダに親はいない。
しかしもしも彼が貴族の血筋だったなら、あるいはこうならなかったのだろうか?
ありえない妄想が希望へと縋る。
その時――。
「なんだ、それでいいのか?」
誰かの声がした。
反応が遅れたユダだったが、声の発信源がこの家の中であることに気がつくと、慌てて布団から顔を出した。
危機は弱者を畳み掛ける。
強盗か何かかと焦り、声の主を探すユダ。
そして、それはすぐに見つかった。
雷の光を受けて輝く、一対の赤い瞳。
「婚約者を取られたのか? そいつはつれぇよなぁ?」
「だ、誰だ!」
一瞬、ユダはマリアを奪われたことを完全に忘れ、目の前の男に恐怖した。
この村から出た経験が殆ど無いユダだったが、しかしそれでもこの相手が真っ当な人種ではないことぐらいは理解できる。
「別に名乗るほどのモンじゃねぇさ。たまたまお前が走ってるのを見かけてなぁ、様子を見てみりゃあ、どうやら女を取られたらしいじゃねぇか。流石の俺も可哀想になってよぉ」
体が震えているのは冷えたからか?
それとも――。
「か、関係ないだろ! いいから出ていってくれ!」
「まあそう言うなって。せっかく俺が助太刀してやろうってんだからよ」
赤い瞳の男はゆっくりとユダに近づき、そしてついには隣に座った。
その風貌は同じぐらいの年代にしか見えないというのに、遥かに長い人生を歩んできたかのような風格を纏っているのは、いったいどういうことなのか。
「俺はエイリークっていうんだ。お前は?」
「……ユダ」
絶対的な格の違いを感じる。
有無を言わせないエイリークの雰囲気に押され、ユダは自分の名を名乗った。
「ほう、ユダか。悔しいよなぁ、自分の幸せを潰されてよぉ。あの野郎が”いなければ”、こんなことにはならなかったのになぁ?」
「……仕方ないさ。あいつはここの領主、俺は平民の中でも一番下の日雇いだ」
「そうか?」
「……え?」
エイリークの赤い瞳が輝いた。
外の嵐は邪悪の到来に反応するかのように、より一層激しくなっていく。
「本当に仕方ないのか? 力があれば違ったのか? お前が貴族だったなら、あの女はお前のものだったのか?」
「そりゃ……」
「変わんねぇよ」
エイリークはユダの言葉を切り捨てた。
「世界は腐りきってるんだ。信じた奴は裏切られる。お前が他人の善意を期待している限り、何も変わりはしねぇんだよ」
他人の善意を期待している。
その言葉に、ユダは心臓を掴まれたような気分になった。
呑気にマリアの言葉を信じていたのは誰だ?
体は奪われても、心はあなたのものだって?
……おいおい。
「お前がいい子にしてれば、あの女は戻ってくるのか? それで元に戻れるのか? んなわけねぇよな。結局、力を振り回した奴が全部良い所を持ってくんだよ」
貴族という力、権力。
力のある者が……、力を行使した者が良い思いをする。
それが真理。
それが現実。
真面目な者が、ではない。
誠実な者が、でもない。
希望の底まで、希望は降りて来ない。
「だから……、俺がお前に力をやるよ」
人というのは、精神的に弱ると正常な判断が出来なくなるものだ。
普段であれば間違いなく不自然に感じられたであろう会話の流れは、しかし今のユダにとってはこの上なく自然な形に感じられた。
懐から短剣を取り出すと、それをおもむろに自分の手の平に突き刺したエイリーク。
その動作には一切の躊躇が無く、それを見ていたユダも特に違和感を感じなかった。
違和感を感じたのはむしろ、その剣を引き抜いた時だ。
「……え?」
短剣を引き抜かれて赤い血を流したエイリークの手の平。
その傷口が即座に塞がっていく。
この世界の治癒魔法にそんな力が無いことぐらい、ユダだって知っている。
短時間に塞げるのは、せいぜいが表面の皮膚ぐらいのものだ。
……明らかに人間ではない。
ユダはこの時になって、隣にいる男がいよいよ只者ではないことを理解した。
エイリークは唖然とするそんな彼の手を取り、そして――。
――短剣を突き刺した。
「――!!」
手の甲に刺さった短剣から、一瞬遅れて広がる痛み。
しかしそれは最初の一拍だけで、二拍目以降のそれは甘美な疼きとなった。
体内にエイリークの血が取り込まれ、その体を急速に作り変えていく。
ユダは自分の体が自分の意志から離れていくような感覚に陥った。
自分が自分で無くなっていく。
自分が別の誰かになっていく。
いや……、違う。
そうではない。
「力が……、湧き出してくる」
――自分が新たな自分に生まれ変わっていく!
ユダは本能で悟った。
この瞬間、自分は強者になったのだと。
血だ、血が欲しい。
他ならぬ弱者達の血が。
強者とはつまり弱者の血を啜る者。
ならば強者となった自分は、弱者の血を流さねばならない。
それは肉体的な渇きではない。
ユダは精神的な渇き故に、人の血を求め始めていた。
「わかったか? そうさ。こんな腐った世界……、全部ぶっ壊すべきなのさ」
赤い瞳の吸血鬼が耳元で囁いた。
それは正しく甘美な誘惑。
その言葉に背中を押されるようにユダは立ち上がり、そして弾丸のように家を飛び出した。
体が軽い。
まるで風のように早く走れる。
嵐と雷鳴を従えている気分だ。
――そうだ。
(壊せばいいんだ! 気に入らない全てを!)
ユダは先程まで”情事”を盗み聞きしていた領主の屋敷へと向かった。
塀を体当たりで吹き飛ばし、館の壁を突き抜けて、マリアとジェームズが互いを求めあっている寝室へと雪崩れ込む。
「……え?! 何?!」
「なんだっ!」
彼らとて、まさかこのような形で襲撃を受けるとは思っていなかっただろう。
窓を割って侵入するならともかく、まるで砲弾のように壁を破壊するなど、そんなものは人間に出来ることではない。
「そうだ……。壊せばいいんだ」
人が変わったようにブツブツと呟くユダ。
彼は未だベッドで混乱したままのジェームズの頭を掴むと――。
……ブチッ!
”それ”を首の根本から引きちぎった。
「キャァァァァァァァ!」
首を無くした体から血が吹き出し、下にいた女の体を染める。
わけがわからないまま、マリアはヒステリックに叫んだ。
そんな様子を見て、ユダは彼女が何度もジェームズにキスを求めていたことを思い出した。
だからユダは最後の選別として、元婚約者の望み通りにしてやろうと思った。
少なくとも、彼女を愛していたのは事実だったのだから。
いや……、今でもしっかりと愛しているのだから。
ユダは”もぎ取った”ジェームズの頭部の向きを変えてマリアの方向に顔を向けると、それを躊躇いなく押し付けた。
いや、叩きつけたと言った方がいいか。
ベギッ! グチョ!
これ以上無い、激しく情熱的な口づけ。
マリアとジェームズの頭部はどちらも潰れ、そして二人の男女は動かなくなった。
ベッドを染めた赤い血。
飛び散った骨と肉。
ユダは世界があるべき姿に近づいた事を実感して震えた。
まるで自分がこの世界の主人公になった気分だ。
「ジェームズ様! どうされました?!」
異変に気が付いたのか、屋敷の人々が部屋の前に集まってきた。
そんな彼らの声を聞いたユダの脳裏に、エイリークの囁きが蘇る。
『こんな腐った世界……、全部ぶっ壊すべきなのさ』
……そうだ。
この世界に救世主などいない。
ならば自分がなってやろうではないか。
この世界を赤い血で染め上げて、生きとし生ける全てを”救済”してやろう。
そうだ、それがいい!
「わかったか? それがあるべき姿さ」
後を追ってきたエイリーク。
ユダは彼と一瞬だけ視線を交差させると、一回だけ頷いてから、屋敷の人々の方向へと走り出した。
新たな血と悲鳴。
ユダにはもう、そのことしか考えられなかった。