23:アベル
王国の西にある辺境の地で、その男はただ毎日空を見ていた。
アベル。
それがカインの双子の弟である彼に与えられた名だ。
しかし――。
「うー」
彼は自分の名前など知らなかった。
いや、そもそも言葉というものがわからないのである。
塔の中の一室。
窓が一つしか無いこの部屋だけが、彼の知る世界の全てだ。
錠の掛けられた扉が開くのは、基本的に食事が運ばれてくる時だけ。
もちろん彼がそこを通って外に出たことは一度もない。
両腕と両足には鎖で重りが付けられており、まともに移動することなど不可能だ。
彼の頭部には鉄仮面が付けられており、食事の時にだけ、口の部分とその下の金属製の猿轡が外される。
一日に三度の食事と、天井近くに一つだけ開いた窓から見える空の変化。
それだけが彼の楽しみだった。
食事を持ってくる者が口を開くことは殆ど無く、自分という存在を自覚出来るようになった時から既にこの生活だったアベルは、言葉を身につける機会を得ることが出来なかった。
言葉を話せないのだから、当然自分の名前など覚えられるはずもない。
それどころか、身振り手振りで意志の疎通を試みる相手すらいなかったのである。
カインの双子の弟、アベル。
カインと一緒に生まれたというのなら、彼だって王族のはずだ。
それではなぜ、彼はこんな扱いを受けているのだろうか?
単純な話だ。
彼らが双子だったからである。
様々な理由によって血筋が途絶えかけていた赤い瞳の一族にとって、子供が多く生まれることは朗報だ。
基本的には、後継者争いが発生するリスクが上昇するデメリットよりも、一族が存続できる可能性が高まるメリットの方が上回る。
しかしそれが双子となれば話が別だ。
年齢は同じ、そして能力も拮抗する場合が多く、過去の歴史を見ても後継者争いで国が割れる可能性が非常に高い。
世界が安定しているのならばともかく、当時は既に扇動され易い人々を必死に纏めていた時代だ。
一歩間違えば世界は二つに割れ、最悪の場合は双方同士討ちで全滅となる可能性すらあった。
そしてそんな状況を、まさか教会系の勢力が何もせずに見ているわけがない。
彼らの介入は必死。
そしてその危機を確実に乗り切るだけの余裕はなかった。
もちろん、結果は終わってからでなければわからない。
双子の仲が良好で、国を割るような事態にはならない可能性だってある。
だがしかし、目論見が外れ、それが失敗だったとわかってからでは遅いのである。
後継者争いが発生する可能性は高く、そしてそうなった場合の影響も致命的。
止む終えない。
弟の方を殺すべきだ。
当時の国王達はそう結論付けた。
……が、しかし結局殺さなかった。
殺せなかったと言った方がいい。
自分と同じ瞳を持つ数少ない肉親。
初めての子供達。
非情にならねばならぬと頭ではわかっていながらも、しかし先代の国王はついにその決断することができなかった。
王族の血が絶えないように保険とするのだと苦しい言い訳をして、弟のアベルを人目につかない場所で平民として育てることにしたのである。
王としてはおそらく失格。
しかし親としての彼を攻めるのは違うだろう。
そうして、アベルは親の元を離れることになった。
秘密守りの一族。
東の辺境を拠点とする罪飼いの一族と同様、便宜と引き換えに特別な役割を担う者達に彼を任せることにしたのだが、しかしここで一つ誤算が起こった。
アベルを大事にしてくれと念を入れて頼んだ先代国王。
彼としてはもちろん、大事な息子をよろしく頼むという意味でそうしたのだが、秘密守りの一族はこれを別の意味で受け取ってしまった。
即ち、”王族の血を守るため、アベルの存在を絶対に外部に悟られるな”という意味に解釈したのである。
後はもう説明の必要もないだろう。
彼らは非常に熱心に仕事をした。
アベルが外部と接触できないように塔に幽閉し、大きな声で存在を悟られないように猿轡を嵌め、そして顔を見られないように鉄仮面を被せた。
ただ王族の血を残すためだけに。
それが彼の人生の全てだ。
さて、双子の兄であるカインが王都から追放され、そして東の地で十年目の監禁生活を送っていた頃、弟のアベルにも転機が訪れた。
いつものように天井近くの窓から星を眺め、眠くなって布団に入った頃である。
「――ベル。――アベル」
「うー?」
夢か現か。
いったい何事かと眠い目を開いたアベルは、視界を青白い光で包まれていた。
「ようやく起きましたか。眠り深すぎですよ、あなた」
「あー?」
首を傾げるアベル。
彼は言葉がわからない。
当然、光の奥から話しかけてくる女が何を言っているのかも理解できない。
「なるほど、言葉がわからないのね。それなら……、これでどう?」
一瞬だけ強くなった光。
「これは……」
それが収まった瞬間、アベルは心底驚いた。
一瞬の内に言葉がわかるようになっていたからだ。
いや、言葉だけではない。
彼はここから外に出たことなど一度も無いというのに、まるで世界の全てを見て回ったかのように世の中の事がわかるようになっていた。
「これで話ができるでしょう?」
「なんだ? いったい何をしたんだ?」
「ふふ、それは女神様の秘密です」
女神。
つまり彼女はそういう存在だということか。
しかし自分で自分を女神様と呼ぶのは如何なものだろう?
「今、この世界には外から入り込んだ邪悪が満ちています。アベルよ、私が与えた力を使い、悪と戦うのです」
「力? 一体何の話をしているんだ?」
世の中の事が理解できるようにはなった。
しかしそれでも尚、女の声の言っていることが全ては理解できない。
外から入り込んだ邪悪?
なんのことだ?
「すぐにわかりますよ。もうじき、魔族達があなたを救出しに来ます。彼らと共に戦いなさい。……おっと、そろそろ時間切れね。魔族の子達にはあなた用の剣と鎧も渡してあるから、それを使って頑張って! 以上、アクシルちゃんからのお知らせでしたー! それじゃ、待たねー♪」
最後は本性というか、地の性格を漏らしながら、女神の声は光と共に収まった。
「……なんだったんだ?」
わけがわからない。
しかしこうしていきなり言葉がわかるようになったのも事実だ。
そして何より、これは好機である。
あくまでも女神から与えられた言語能力と知識が信用できるという前提の元ではあるが、アベルは自分が今どんな扱いを受けているのかを理解した。
そしてもちろん世界の現状も。
(魔族達が俺を救出しに来る、か。まずそこで話を聞いてからだな)
自力でここを脱出することができないという現実に変わりはない。
アベルは状況が動くのを待つことにした。
魔族達が秘密守りの一族達を殺して彼を開放したのは、それから数日後のことだ。
こうして、彼の魔王としての人生が始まったのである。
魔族達が迎えに来るまでの間、アベルが今まで通りに言葉がわからない振りをし続けたのは、やはり彼がカインの兄弟だからなのかもしれない。