15:剣の鞘
「魔王様!」
自分達の陣営が誇る最高戦力の到着に、魔王軍全体が沸いた。
討伐軍側は知らないことだったが、魔王軍側には他に伏兵の類はいない。
つまり騎士団と戦っていたのが今回の戦いにおける全戦力であり、魔王抜きでは本当に負け戦になるところだったのである。
「お前達はもう下がれ。後は……」
魔王の頭部を覆う兜。
その奥で、赤い瞳が力強く輝いた。
右手で剣を抜き、左手で宙を鷲掴みにするように、勢いよく拳を握る。
――ゴギョ!
「――!」
寸分のズレも無く、魔王軍と戦っていた騎士達の首が、一斉に握りつぶされた。
「後は全て俺がやる」
その現象が、いったい誰の意志で発生したものであるかなど、もはや説明の必要はないだろう。
崩れ落ちる騎士達。
「魔王様が本気だ! 下がれ! 巻き込まれるぞ!」
敵の脅威が無くなった魔族達は、急いで自陣の後方へと下がり始めた。
彼らの顔には安堵の表情が浮かんでいる。
「何だ?! 何が起こった?!」
それとは対照的なのが人間側だ。
「みんな一気にやられちまったぞオイ!」
「やばいんじゃねぇのかこれ……」
突撃に加わらなかった副団長周辺の騎士達。
勝ち馬に乗り遅れまいと鼻息荒く参加した貴族達。
自分達こそ世界の主役だと思い上がっていた平民達。
討伐軍を構成する全ての者達が、目の前で起こった現実を理解できずに狼狽え始めた。
「おい! 魔王だぞ! 勇者はさっさと殺しに行けよ!」
「こんな時に勇者は何してるんだ! あの役立たず!」
「見ろ! 騎士団長が戦う気だ!」
魔王と戦うために存在するはずの勇者がいない。
口々に文句を言い始めた人々は、倒れた騎士達の中で唯一人立っている男を見つけて、それを指差した。
自己顕示欲の強さを象徴するかのように、騎士の中でも一際目立つ赤い兜飾り。
人々の視線の先では、騎士団長アーカムが魔王に向けて剣を構えていたのである。
「勝手が出来るのはここまでだ魔王。お前の首は俺が貰う」
「……」
そもそもの問題として、なぜ騎士団長だけが立っているのかという話だ。
本人はそれを運命か何かと勘違いしたのかもしれないが、もちろんそこには強者の意図がある。
しかし以前に勇者ヒロトが両手両足を失った状態で王宮に届けられたことを、今のこの状況と関連付けて考えようとする者はいなかった。
「頼むぜ騎士団長!」
「あんたこそ本物の英雄だ!」
「いや、勇者だろむしろ!」
ひたすらに都合の良い大衆。
そしてそれとさほど変わらない騎士や貴族達。
そんな者達におだてられ、また一人の男が舞い上がった。
千載一遇、願ってもない好機。
たった今、周辺にいた全ての部下が瞬殺されたばかりだというのに、騎士団長は自分の望んでいた状況が訪れたことに対して、内心で歓喜していた。
彼には見えている。
目の前の魔王を打ち倒し、自分の名が英雄として歴史に刻まれる未来が。
「うおおおおおおっ!」
人々の視線と期待を一身に集める快感。
騎士団長は魔王に向けて斬りかかった。
(初撃は布石! 止められた直後の二撃目で決める!)
金属製の鎧で全身を包んだ重装備。
ルーツを辿っていけば、その戦闘スタイルは防御を鎧に任せて全力で攻撃を行うというものだった。
しかし物事は必ずしも合理的な方向にばかり変化するわけではない。
長年に渡る、実践と実情を無視した精神論の介入により、現代の騎士達の剣術は攻撃と防御の両方を剣に頼るというスタイルに変化していた。
積極的に活用されなくなった金属鎧など、もはやただの錘と保険にしかならない。
「死ね!」
「……」
初撃を止められる前提で、全力を込めること無く振り下ろされた騎士団長の剣。
即座に二撃目を繰り出そうと心の準備をしていた彼だったが、しかしその思惑は直後に外された。
(俺の攻撃を……、受け止めないだと!)
魔王の右手に握られた剣で受け止められるはずだった初撃。
しかし彼の剣は相手の剣とぶつかることなく、そのまま魔王の鎧へと向かうことを許されてしまった。
(俺のような本物の強者が相手で勝負を諦めたか! いいだろう、叩き斬ってやる!)
心変わりした騎士団長が剣に力を込める。
一撃の威力ならば誰にも負けないという絶対の自信。
自分の力をここで見せつけてやろうと意気込んで剣を振り込む。
「貰った!」
――ガキンッ!
鈍い音が戦場に木霊した。
騎士団長の全力の一撃。
しかしそれをまともに食らったはずの魔王の鎧は傷一つついてはいない。
「なんだと!」
物事が自分の思っていた通りに進まなかった時、人はその真価を問われる。
ではこの男はどうだったのかと言えば、自分の力が通用しないという現実を受け入れることが出来ず、少しの間固まっていた。
当然、その隙を魔王が見逃してくれるはずもない。
ガスッ!
「――! ぐわぁァァ!」
黒紫のオーラを纏った剣が、騎士団長の右腕を貫いた。
ドンッ!
「――!」
続いて魔王の拳が腹部に叩き込まれた。
分厚い金属の板を紙切れか何かのように折り曲げ、衝撃が胃の辺りを直撃する。
喉の奥から湧き上がる嘔吐感。
彼はそれに抗えなかった。
「う、うおぉぇぇぇぇぇぇっ!」
魔王と同様に、顔全体を覆う騎士団長の兜。
剣を落として地面に膝をついた彼は、その中の空間に胃の中身を全てぶちまけた。
兜の隙間から、胃液が混じった酸味の液体が滴り落ちる。
中にある騎士団長の顔は、完全にその液体に浸かっていた。
呼吸をしようとフェイス上げた瞬間、まだ兜の中に溜まっていたそれらがドボドボと纏まって地面に落ちた。
それを上から見下ろし、しかしまだトドメを刺そうとはしない魔王。
殺ろうと思えばいつでもそれが可能だというのに、しかし彼は目の前の男に剣を突き立てようとも、頭を握りつぶそうともしなかった。
「何やってんだ!」
「あっさり負けてんじゃねえよ!」
顔を汚物まみれにした騎士団長、そしてそんな彼に対して浴びせられる罵声。
しかしそれは敵である魔王軍側からのものではない。
その言葉を発しているのは味方の陣営、つい先程までは、彼を英雄だなんだと持ち上げていた連中である。
別に彼らが特別に腐っているとか、人格の面で劣っているわけではない。
これが”普通の”人間というものだ。
単に自己評価が高いというだけで、実際はこんなものである。
(な、なぜだ……。ありえん……)
自分を称え声援を送るはずの者達が、なぜか自分に対して罵声を浴びせているのか。
騎士団長は何がなんだかわからなくなった。
自分は称えられて然るべき人間のはずだ。
いったい何が起こっている?
……魔王を倒す英雄のはずだろう?
(そうだ、魔王だ!)
傲慢な妄想は謙虚な現実を駆逐する。
騎士団長は、この事態は自分がまだ魔王を倒していない故に起こっているのだと結論づけた。
なるほど、確かにそれは正しい。
魔王を倒せたのならば、人々は間違いなく褒め称えてくれるだろう。
……倒せたのならば、だ。
「うおおおおおお!」
残った左手で再び剣を掴み、猿の一つ覚えのような掛け声と共にそれを振り回す。
しかし魔王は仁王立ちのまま、防御の素振りを一切見せない。
その命を取ろうと幾度も迫る剣を、鎧が事も無げに全て防いだ。
「な、なぜだ……」
息を切らし、呆然とした顔で一歩後ろに後退した騎士団長。
「ビビってんじゃねぇよ!」
「逃げんじゃねえよ、根性無し!」
動機や内容はともかくとして、仮にも魔王に一人で挑んでいる男の背中に浴びせられる、容赦無い言葉の数々。
別に彼らが特別に腐っているとか、人格の面で劣っているわけではない。
これが”普通の”人間というものだ。
正面には魔王、その奥には魔王軍。
背後には討伐軍。
正面はどちらも敵だ。
では背後は?
なぜ彼らは敵であるはずの魔王でも魔族軍でも無く、味方であるはずの自分に敵意を向けている?
自分は称賛されるべき人間のはずだ。
……だってそうだろう?
自分は騎士団のトップ。
自分は討伐軍の指揮官。
自分は魔王を倒す勇者。
ほら、称賛する理由しかないじゃないか。
進歩の無い思考が騎士団長の頭の中でぐるぐると回り続ける。
独善と傲慢。
それらを支えていたはずのものが、しかし確かに目の前で崩れ落ちようとしていた。
理想と現実。
明るい未来はどこかへと消え失せようとしている。
騎士団長で無くなった自分。
討伐軍の指揮官で無くなった自分。
魔王を倒せなかった自分。
崩れていく。
未来が。
全てが!
「い、嫌だ……。嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
現実逃避。
自分の頭の中だけに存在する明るい未来にしがみ付こうと、騎士団長は三度目の攻撃を魔王に仕掛けた。
(勝てば……、勝てば良いんだ! 勝てば!)
ドシュ! ガシュ!
「……え?」
突如として、騎士団長は自分が宙に浮く感覚を得た。
一瞬の無重力の後、体全体が下に落ちていく。
「うっ!」
地面にぶつかった衝撃と共に、三箇所から痛みが押し寄せた。
剣を持っていた左腕、そして膝から下を、ついに振られた魔王の”聖剣”が切り離していた。
絶対強者。
仰向けになって天を仰いだ騎士団長に、魔王がゆっくりと近づいていく。
「何やってんだよ無能が!」
「マジで使えねーな!」
「殺せ殺せ!」
騎士団長の目論見通りに”観客”となった者達からは、期待に答えられなかった決闘者に対して、容赦無い言葉が際限無く溢れてくる。
「こ! ろ! せ! こ! ろ! せ!」
どういうわけか討伐軍側から巻き起こった”殺せ”のコール。
なぜか敵の陣営から主役に仕立て上げられた魔王が、彼らの期待に答えるかのように騎士団長の首を掴んで持ち上げた。
崩れ落ちていく。
明るい未来が……。
名誉と栄光が……。
そして全てが……。
「ゆ、許してくれ……」
屈辱的な命乞い。
他の者達にとってはどうだか知らないが、少なくともこの騎士団長のように見栄や自尊心こそを至上とする者にとって、それは心を折られた以外の何物でもない。
ある価値観を持つ者達にとっては取るに足らない物事が、別の価値観を持つ者達にとって重要だというのは、よくある話だ。
だからだ。
だから魔王は彼を”許す”ことにした。
二人の戦いは終わったのだ。
局所的ではあるが、しかし”魔王対騎士団長”の戦いはもう終わった。
だから彼は”聖剣を収める”ことにしたのである。
魔王は自分の”聖剣”を騎士団長の口に当て、そして――。
「うごっ……、お、おぇぇっ!」
……グシュ!
口から入り、食道へと。
黒紫のオーラで守られた”聖剣”が、騎士団長の体内を突き進んでいく。
内臓が切り裂かれ、血という血が喉の奥から溢れ出した。
(あ、赤い……?)
急速に薄れていく意識。
切り裂かれる痛みと鉄の味を感じながら、騎士団長は兜の奥に光る魔王の瞳を見た。
(赤い……、瞳? まさか……、お前は……、カイ――)
――グチュ!
連想した男の名を頭の中で呟き終わるよりも前に彼の意識は途絶え、そして魔王は新たな”肉の鞘”に自分の剣を収め終えた。