10:『落日』の原点
(待てよ……? この男、まさか……!)
カインが玉座の前に跪き、アシェリアが胸を撫で下ろして椅子に座った数秒後。
その時点になって、宰相エルガはこれが非常にマズい展開であることにようやく気がついた。
一見すればカインの行動は、彼が権力への執着や復讐心が無いことをアピールしたようにも見える。
しかしだ。
彼がこの後で魔王と戦うのだということを念頭に置いて考えると、別の見方をすることも可能だ。
魔王を倒せるのは彼ただ一人。
そしてそれを武器に、こちらに対して要求を突きつけてくるつもりだとしたら?
カイン自身が王として命令を下した場合、それによる不満は全て決定権を持つ彼本人に対して向かうことだろう。
だが彼があくまでも”勇者となった平民として”王宮に嘆願する形だった場合、それは実行するかどうかの決定も含めて、王宮に判断を委ねられる。
スケープゴート。
それはつまり、不満の矛先の大部分が王宮に向かうことになるということだ。
もちろんカイン自身に対しても不満は向くだろうが、それでも彼自身が王になって直接実行するよりも遥かにいい。
(それだけじゃない……。最悪の場合、今まで反国王派だった連中との力関係がひっくり返る!)
カインの取り入るために、宰相達は既に勇者ヒロトを悪役に仕立ててしまっている。
このままカインが王に戻らない場合、それを反国王ヒロト派に利用されるかもしれない。
即ち、”国王ヒロト派”がカインの復権を妨害している、と。
市井は既にカイン優位。
反国王派も”カインを信じてヒロト達に反目していた”といえば大義名分は十分。
そうなれば一気に押し込まれる。
彼らはまだ大きな動きを見せてはいないようだが、しかしこのことに気がつくのにそれほど時間は掛からないはずだ。
(マズい……。一刻も早くカインを玉座に座らせねば……!)
多くの人間にとって、良い想像と悪い想像を同時に働かせるのは至難である。
頭の中が一度悪い方向に傾けば、全く関係のない別の案件に関しても発想が悪い方に引きずられていく。
宰相には玉座に座らなかったカインの一手が、自分達に極めて致命的な痛手を与える行動に思えてならなかった。
しかしここから流れを変えるのは容易ではない。
何せアシェリアは既に椅子に座ってしまったのだから。
彼女が座ってしまった以上、その隣に座るべきは現国王であり、現在の夫であるヒロト。
少なくともこの国の儀礼上ではそうなる。
せめて彼女が独身であったなら、あるいはまだ道はあったのかもしれない。
「――!」
そこまで考えた時、宰相は気がついた。
跪いたままのカインの瞳が、赤く輝いているのを。
(そうだ……。この男は……!)
思い出した。
子供の頃に一度だけ聞かされたことがある。
赤い瞳の王族が、影で密かになんと呼ばれていたかを。
謀略の一族。
理詰めにせよ、見切りにせよ、この世界で最も駆け引きに長けた一族。
最も勝負強く、だからこそ王族にまで上り詰めた一族。
(その、最後の一人……)
未成熟ながら、カインはその末裔だということだ。
勇者の力など無かったとしても、ただの人間でしか無かったとしても、それでも尚残る脅威。
宰相はこの段階になって、不完全ながらもようやく理解した。
このまま行けば、間違いなく自分達は磨り潰されると。
見せしめとして、あるいは生贄として。
(どうする? 予定ではカインが玉座に座らなければヒロトの子を即位させることになっているが、このままでは直後に引きずり降ろされるぞ……!)
その時は間違いなく国王派に属していた自分達も一緒だ。
もちろん結果はまだその時にならなければわからない。
だがカインから想像される未来は、決して友好的では無いように思えた。
(一度休憩を挟むか? いや、まだ始まったばかりで不自然過ぎる)
彼らは彼らの基準でカインという人物を推し量っていた。
故に、自分から玉座に座らないということは王の地位に未練は無いはずで、”ヒロトと違って権力に執着しない勇者だ”と持ち上げるつもりだったのだ。
しかしどうやら、その目論見は成就しそうにない。
「恐れながら、カイン様」
「……貴方は?」
その時、カインを挟んで宰相の正面に立っていた、財務大臣トリエールが口を開いた。
(……考えることは同じか)
宰相は彼もまた自分と似たような結論に至ったのだと直感した。
考えてみれば当然か。
両者は今、似たような状況下に置かれているのだから。
「失礼。私は財務大臣をしておりますトリエールと申します。恐れながら、カイン様は勇者として魔王討伐の任がある故、今は玉座にお座りになられないものと愚行いたしますが、それは魔王を倒した暁には、再び王にお戻りになって頂けるということでよろしいでしょうか?」
彼の言葉には、”自分達はあくまでもカインに王に戻って欲しいのだ”というニュアンスが含まれている。
もちろん意図的なものだ。
しかしその言葉遣いからは、やはりカインをどういう立場として扱えばよいのか判断しかねている様子が伺える。
「トリエール! あなた、いったい何を言い出すのです!」
カインが王位を求めなければ、自分とヒロトの子が即位することになると聞いていたアシェリアは、財務大臣の言葉を聞いて慌てて口を挟んだ。
どうやら彼女は、宰相や財務大臣のようには考えなかったらしい。
玉座の前に跪いたカインを見て、自分達の思惑通りに事が運んでいると思っていたのだろう。
(いいぞ……)
跪いたまま表情を変えないカイン。
ベストとまではいかないが、しかし概ね狙い通りだ。
「お待ち下さい、アシェリア様。実務を預かる我々としては、これは非常に重要なことなのです」
「エルガまで……」
言葉を無くすアシェリア。
この世界に国が一つしかない時代が長く続いた影響か、あるいは彼女自身の実務能力の低さゆえか。
本来は彼女の方が上の立場であるのに、この場においては宰相や財務大臣の意見の方が優先されていた。
「お言葉ながら……」
これを絶好の好機と見て、再び口を開くカイン。
「先程”王妃様”にも申し上げた通り、私は国王ではありません。女神様から勇者の力と魔王討伐の任を与えられたとはいえ、所詮は平民の身。玉座に座るなどとても」
その言葉を聞いて再び安堵するアシェリア。
この謁見の間にいた騎士団の者達もまた、内心でその胸を撫で下ろした。
玉座に座らないということは、彼らに対して一方的な罰を与える権限を放棄するということでもあるからだ。
そしてカインもまた、内心で安堵した。
題名やあらすじだけで本の良し悪しを判断するような連中を騙すことなど容易い。
中身を確認しないというのだから、こっそりと仕込みをするには最高に簡単な相手だ。
表紙を偽ってしまえば、ほらこの通り。
彼らはカインという存在が、この時点を持って自分達を脅かす脅威ではなくなったと思っていた。
おかしなものである。
自分達がカインを王の地位から引きずり降ろしたのは、”ヒロトが魔王を倒した後”だったというのに。
対して、そのことを理解していた宰相と財務大臣、そして彼らに近い立場にある文官達は凍りついた。
(この男……!)
まさか我々を完全に磨り潰すつもりなのか、と。
しかし段階はあくまでも確信には至らない懸念。
カインが復権と敵対勢力の一掃を狙っている可能性もあるし、しかし本当に玉座に未練がない可能性もまだ残っている。
果たして本心はどちらなのか、宰相達は確信まで至ることが出来ないでいた。
もしも前者であったとすれば大きく動かなければマズい。
しかし後者であったならば逆に迂闊に動いた方が立場を悪化させてしまう。
人は僅かな希望を過大に評価する。
自らに都合の良い未来を信じる彼らに、ここで意志を統一することなど不可能だった。
赤い瞳の悪魔は嗤いを堪えている。
どちらを選んでも同じだ。
ここまで来ればもう逃しはしない、と。
「それよりも……」
打ち込む楔。
カインは彼らの意志が統一される前に口を開いた。
「問題は魔王です。実はここに来る道中、夢の中で女神様と直接お話をいたしました」
「女神様と!?」
謁見の間がどよめく。
もちろん嘘だ。
カインが女神と話したのは彼らが迎えに来る前、つまり最初に勇者の力を与えられた時だけである。
「私に与えられた力は”陛下”よりも強力、しかしそれでも尚、今回の魔王を倒せるかはわからないとのことです」
カインが聖剣を抜いてみて、いくつかわかったことがある。
その一つは、どうやらカインに与えられた力は、ヒロトに与えられた力の延長線上にあるということだ。
モジュール形式、とでも言えばいいだろうか?
最低ランクの勇者の力に対し、ランクが上がる毎に力が追加されていくという構造になっているらしい。
聖剣はヒロトが使っていた物をそのままカインも使えることから、最初の設計の時点からそうなっていたのだろう。
女神の言葉を信じるならば、カインの力がSSSランク、ヒロトの力がBランクだったはずだ。
ご丁寧にも聖剣を起動して確認できる各モジュールには、対応するランクが振ってあるので、これでヒロトの力を類推することが出来る。
「今回の魔王は歴代魔王の中でも飛び抜けて強力。そしてもちろん魔族もいるとなれば、こちらも過去に類を見ない戦力を用意する必要があります」
「……具体的には?」
最初に言葉を返したのは騎士団の副団長だ。
団長のアーカムがこの場にいないため、軍事部門のトップは彼と言うことになる。
しかし味方でもない相手が待ち望んでいた言葉をあっさりと口走るなど、部下の命を預かる指揮官としての適性を疑う行動だ。
自分が王ならば、人材不足以外の理由で彼に権限を与えることは絶対に無いだろうと思いながら、カインはそれに答えた。
「魔王討伐のため、王都及び近隣で戦える者全てを招集して頂きたい。言葉の通り、全てをです。他に志願する者がいれば、当然その者も」
再び謁見の間がどよめく。
これを武功を立てる好機と見た武官達。
逆に手柄や権限を取られると焦り始めた文官達。
その反応は様々だ。
ヒロトは女神から勇者の力を与えられはしたが、しかしそれが理由で王への道が開けたわけではない。
決定打となったのは、あくまでも魔王討伐の成功だ。
ということはつまり、勇者でなかったとしても魔王を倒せば成り上がる機会はあるわけだ。
果たしてこれを、ヒロトに続く二匹目のドジョウと呼んで良いものか。
しかしカインの言葉を聞いた者達の認識は間違いなくそれだった。
取らぬ狸のなんとやら。
愚者は例え横で他人が失敗していようと、自分だけは成功するのだと常に思っている。
完璧でも完全でもない人々を見て、自分は彼らとは違う、特別なのだと無意識に信じているのだ。
未だアシェリアの前に跪いたままのカイン。
周囲が魔王討伐の成功を前提に考えていることを確認し、悪魔の赤い瞳が密かに光った。
彼の腰にある聖剣が僅かに抜かれ、その特殊能力がいつの間にか起動されていることに気がつく者はいない。
支配者への登竜門。
この時のカインは、間違いなくそこにいた。
(そろそろ、俺も限界だ)
ここまで、感情のままに暴れ出したい衝動を何度も我慢してきた。
だがそれも、もうそろそろいいだろう?
別にこれは誰かのためにやっていることじゃない。
先に冥土に行った連中に土産話の一つぐらいは用意していきたいと思ってはいるが、しかしそれに関して誰かと約束を交わしたわけでもない。
あくまでもカイン個人の気分の問題だ。
小さな獲物では満足できず、大物を狙っているだけに過ぎない。
――なぜ、俺がお前達の事情を考慮してやる必要がある?
カインは舐め回すように周囲に視線を巡らせた。
(大丈夫。心配はするなお前達)
こいつらは根本的な部分を履き違えている。
万人に共通する倫理など無い。
他人の利益や心情を考慮して当然という状態の方が、むしろ不自然だとは思わないか?
だから。
だからだ。
だから――。
――優しいカイン様が、お前達全員にしっかりと”名誉”を用意してやろう。
――確か戦死は二階級特進……、だったよな?