7.「どこぞの組織の暗殺者《Phantom》」
目の前のオンボロな扉を見て、はぁと小さく息を吐く。
ここは旧校舎4階。
弁当を食べ終わった俺は、家庭科室――いかてん部の部室前へとやってきていた。
ここを訪れた理由は、昨日持って帰ってしまったラノベを如月へと返すためだ。
正直来たくはなかったのだが、こういうのは時間が経てば経つほど返し辛くなるものだ。
「失礼します」
『……どうぞ』
ノックをして呼びかけると、昨日と同じように部屋の中から淡々としたクールな声が返ってきた。
俺は躊躇することなくガラガラと扉を開く。
「あら、やっと来たのね」
昨日と同じ、窓際の席に腰かけていた如月。俺の姿を目に収めると、さも俺が今日もここに来ることが解っていたかのような反応をみせた。
俺は特に何も言い返さず、無言で如月の元まで歩いて行った。
調理台を挟んだ対面で立ち止まると、通学カバンの中からラノベを取り出して如月へと差し出す。
「これ。昨日は勝手に持って行って悪かったな」
差し出されたラノベを見た如月は、「別に良いわよ」と短く言うとスッと片手で受け取った。
「……じゃあな」
用事も澄んだし、俺はいそいそと踵を返した。
「待ちなさい」
取りあえず今日は家に帰ったら着替えて、近所のゲームショップにレアリスたんを探しに――。
「佐藤君、耳が悪いの?」
「ひっ!!」
……こいつは本当に一体何者なのだろう。
足音を一切立てず、その気配すら感じさせずに近づいてきて、耳元に話しかけるのはやめていただきたい。
お前はどこぞの組織の暗殺者か?
「……何だよ。俺の用はもう済んだぞ?」
「佐藤君の用事が済んだのだとしても、まだ私の用事は済んでいないわ」
「お前の用事?」
俺の暗殺か?
「昨日の話は覚えているかしら?」
「昨日……レアリスたんイナクナッタ……」
そうか、俺の精神を削り取る作戦か。
「はい? 佐藤君が何を言っているのかはわからないのだけれど……これの事よ」
そう言って如月がスカートのポケットから取り出したのは回転式拳銃……ではなく、いつぞや見た覚えがある紙切れ。
「まだ名前を書いてもらっていないわ」
「いや、そもそも俺はいかてん部?に入るつもりがないんだが」
「え? 何で?」
素で聞き返されてしまった。
「いや、何でって言われても……てか、結局そのいかてん部って何をする部活なんだよ? いかてんが異世界転生の略ってのは昨日聞いたが――」
俺は迂闊にもそう聞いてしまった。
が、もう遅い。
俺が言い終わると同時、如月は「良くぞ聞いてくれました」と言わんばかりにズイッと俺に身を寄せてきた。
「いかてん部。つまり異世界転生部なのだけれど、その活動内容は勿論、異世界転生の方法の調査・研究よ。私はこれまでに、白井先生の参考書に載っているいかてん方法を幾つも試してきたわ。……全て失敗に終わっているのだけれどね」
如月は何の躊躇もなくどんどん俺へと身を寄せてくるため、俺はじりじりと後ずさる事に。
「でも、私と違って佐藤君にはいかてんの才能があるの。いかてんではなく転移ではあるけれど一度経験しているのだし、佐藤君はもう立派ないかてん(仮)経験者……いえ、異世界からこちらに来たのだから、むしろ異世界人といっても過言ではないわね」
過言です。
とか何とか言っている間に、とうとう壁際まで追い詰められた。
もう後ろへは下がれない。
「入学式の日に黒井先生から、佐藤君がトラックに轢かれたという話を聞いた時は、正直私も本気ではなかったわ。それが幾らいかてんのテンプレであったとしてもね。……でも、また数日後に、佐藤君が急激な回復をみせたという話を聞いて。それで、1%の望みをかけて訪れた病院で、佐藤君から異世界の話を聞いた時は本当に嬉しかったの」
尚も身を寄せてくる如月。
その慎ましい胸の感触が伝わってくるようなこないような。
「だって、異世界は本当に存在する。そう確信できたのだから。……佐藤君のおかげよ」
俺の顔の直ぐ前には整った如月の顔。
その長いまつ毛まではっきりと見える……って。
「……なあ」
「ん? 何?」
「流石に近すぎないか?」
「……そうね。ごめんなさい」
そろそろ冗談ではなく唇が触れてしまうと思い指摘すると、如月は特に動揺するでもなくスッとその身を離した。
いかてんの話をしていた間は興奮して高揚していた表情も、一瞬で元の平坦なものへと変わる。
……こいつは俺が男だと認識しているのだろうか。
俺は大人な女性がタイプだから、こんなガキに詰め寄られても特に何も感じないが。
「さて。私が何故佐藤君を誘っているのかも説明したことだし……勿論、いかてん部に入部してくれるわよね?」
まるで、俺が断るわけがないと確信しているかのように言ってくる。
「だが断る」
「…………」
「……えっと、俺は異世界転生……いかてんとかあまり興味ないし」
「……そう」
短く呟いた如月は、相変わらずの無表情。
でも、どこか気分を落としているようにもにも見え……いや、情に流されてはいけない。
異世界転生の方法を探す部活?
はっ。こんなわけわからん部活に入れば、普通の高校生活は絶対に送れない。
如月がどこまで本気で言っているのかは知らんが、奇人変人の類には取りあえず関わらないのが利口だ。
「……じゃあ、俺はもう帰るぞ」
俺は如月から顔を背け、今度こそ出口目指して踵を返す。
また襟でも引っ掴まれるのかと身構えていたりもしたが、そんな事はなくすんなりといかてん部部室を後に……。
「そういえば、佐藤君。あの写真はどうしたの?」
「写真……?」
部室から片足を出した所で、背後からそう声をかけられた。
「ええ。てっきり、あの写真を見てここまできたのだと思ったのだけれど」
「は? だから、写真って何なんだよ?」
「やはりね。ここに来た時の佐藤君の反応が想像と少し違ったから、おかしいと思ったのよ」
如月は勿体ぶった様子で淡々と話す。
その態度に、俺は思わずイライラした声で聞き返していた。
「だから、何が言いたいんだよ?」
「これを見て」
そう言っておもむろに差し出してきたのは、入部届よりも一回り小さな……。
「……へ?」
如月が差し出してきたもの――一枚の写真を見た俺は言葉を失ってしまった。
「これは佐藤君のお見舞いに伺った際、撮影したものよ。あの日、一度病室を出た後、1つやり残した事を思い出して引き返したのだけれど、佐藤君はもうぐっすりと眠ってしまっていてね。肩を揺すっても起きなかったから、仕方なく1人で済ませたの」
そう淡々と語る如月が手にしている写真には、ナース姿の月夜さん――否、如月と寝具姿の俺が、病室のベッドで抱き合って寝ている様に見えなくもないものが映っていた。
「勝手に撮った事は謝るわ。でもせっかく綺麗に撮れているのだし、佐藤君にもあげようと思って机の中に入れておいたのだけれど……」
ああ、確かに良く撮れている。
やっぱり月夜さんは素敵だな……って。
「よくよく考えると、何も知らない人がこれを見たら勘違いするかもしれなのよね――」
「お前は何つうことしてくれとんじゃっ!!」
俺は叫びながら如月の声を背にして駆けだしていた。
息が切れるのも気にせず、周りの目も気にせず、とにかく全力で教室を目指した。
その時の俺の顔は、それはもう真っ青になっていたことだろう。
途中、所々で悲鳴が聞こえた気がしたが、そんなのどうでも良い。
数分後。
倒れ込むように自分のクラスの教室へと入って行った。
肩で息をしながら、自分の席へと歩を進める。
この時の俺は、プリントが妙に綺麗に整理されている事など気付く余裕もなかった。
ただ、机の中を一心不乱に掻き出し目当ての物を探す。
だが出てくるのはプリントばかり。
やがて、机の中がスッカラカンになり、机の上に取り出したプリントの束を何度も何度も見返し……。
「……ない」
手を止めてそう呟いた時には、下校時刻を知らせるゆったりとした曲が流れていた。
「はったり……か?」
でも、如月は嘘をついているようにも見えなかった。
そもそも、嘘をつく理由も見当たらない。
「……俺が慌てる姿を見て楽しんでいただけ?」
もし本当にそうだとすると、かなり根性の悪い奴ということになるが。
何にせよ、これ以上プリントの束を見返していても、ないものは見つかりっこない。
そう思った俺はその後、もう一度いかてん部部室へと舞い戻ったわけだが、夕日差し込む家庭科室にはもう如月の姿はなかった。
結局、その日はモヤモヤとしたものを抱えたまま、家へ帰ることとなった。
家に帰ると、何故か中学の制服姿のままのフウが玄関にちょこんと座っていた。
俺に「……お、おかえり」と言うフウはどこかよそよそしかったが、この時の俺はその様子を変に思う余裕はなかった。