3.「俺氏、いかてんするも装備できる武器が耳かきのみだった件」
「――で? 何の用だよ? 俺はこれから家に帰ってレベリングがあるんだけど」
「それなら大丈夫よ。取りあえず……ここに名前を書いてくれれば、今日はもう帰ってくれても結構だから」
如月は言いながら、足元の通学鞄から何かの紙を取り出し、目の前の調理台の上に置いた。
……何だ?
俺は視力があまり良くないため、何が書いてあるのかよく見えなかった。取りあえず身を乗り出して、その紙をこちらに引き寄せる。
【入部届 いかてん部 年 組 番 氏名――】
「これは……?」
「部名はもう書いておいたから、後の空欄を埋めてくれるだけで良いわよ」
さっき同じ部の仲間になるとか何とか言ってたのは聞き間違いではなかったらしい。
「いや、でも俺は別に料理とか得意じゃないんだけど……」
一応、忙しい母さんの代わりに、毎日妹と自分の弁当を作っている。とは言え、おかずの殆どは冷凍食品に頼っているし、そこまで手間をかけたものは作れない。
そもそも料理とかあまり興味もないのだが……。
――と、首を傾げて疑問顔の如月と目が合った。
「料理? ここはいかてん部よ?」
「ああ、イカ天部だろ?」
「…………」
「…………」
……ん?
…………噛み合ってない?
俺が言っているのはイカ天。如月が言っているのは……いかてん?
「あのー……ちなみに、”いかてん”って……?」
「”異世界転生”の略称でしょう?」
「紛らわしいわっ!」
大体そんな愉快な省略の仕方聞いた事ないぞっ!
「何だ? お前は天ぷらが好きなのか?」
「佐藤君が何を言っているのかはわからないのだけれど……そうね、参考書を見せた方が早いかしら」
「……参考書?」
胡散臭そうに見つめる俺を余所に、如月はツカツカと部屋の奥へと歩いて行った。そして、壁に沿って置かれている食器棚の前で立ち止まり……ってちょっと待て。
何でソレがこんな所にある?
食器棚――は、おかしくない。家庭科室なのだから。でも、その中には……。
「えっと……そこにずらっと並んでるのが、異世界転生――いかてんの参考書?」
「ええ、そうよ。私も最近知ったのだけれど、このような小説はライトノベルというものらしいわね」
そう。食器棚には、表紙が見える様に様々なラノベが並べられていた。
可愛い女の子のイラストが描いてあるものや、モンスターらしきものが描いてあるもの。更には学校に似つかわしくない少々過激なものまで……。
「この棚にあるのは、全て白井右近という先生が書いたものなのだけれど」
如月はそう言って、棚の中から一冊のラノベを取り出した。
そのまま俺の元まで歩み寄り、そのラノベを手渡してきた。
その表紙には、なるほど確かに【著:白井右近】と書かれている……けど。
「……これがどうした? 大体俺、この白井右近っての知らないんだけど……何者?」
何気なく聞いたその瞬間。如月は目の前の椅子に閃光の如く腰かけ、俺の目を見つめてズイッと顔を近づけてきて……近い。
お互いの前髪がもう完全に触れ合っているが、如月は気にした素振りも見せずに少々興奮気味に口を開いた。
「良く聞いてくれたわねっ! 白井先生は私が初めて読んだ異世界転生――つまりいかてん小説の作家なの――あ、佐藤君には異世界転生と転移の違いについての説明は不要よね?」
「――へ? ……ああ、まあ……」
幾ら何でも近すぎだろ――とか、少しでも動いたらその小さな唇に触れちゃうんじゃ――とか。
身動き取れずに困惑する俺を知ってか知らずか、如月はそのままの体勢で声を高鳴らせる。俺は心臓の鼓動を高鳴らせ……ないな。あれ?
服装は違えど月夜さんと同一人物なのに何でだろう?
やっぱJKだとわかったからか?
心の内で首を捻る俺の直ぐ目の前では、如月が口を高速で動かしている。
「異世界転生をいかてんと略したのは私の知る限りその白井先生ね。白井先生のデビュー作【幼なじみに裏切られていかてんした俺】を初めて読んだ時は正直理解が及ばなかったのだけれどでもそれはまだまだ私がいかてん初心者だったからで――」
あ、この目、知ってる。如月がまだ月夜さんだった頃に見せた、あのキラキラとした目だ。
俺はそんな事を考えながら、頬を紅潮させて力説する如月をボーっとアホの様に眺めていた。
「――というわけなの……わかったかしら?」
「…………」
「佐藤君?」
「……あ? は、はい、そうですね!」
「…………」
無言で冷たい目を向けてくるのは止めてください。
俺、そういう趣味はないから。
「白井先生の初アニメ化作品は?」
「【俺氏、いかてんするも装備できる武器が耳かきのみだった件】」
「……では、この物語のいかてん方法――」
「耳かき大好き巳已海斗君が、ふと手に取ったコンビニの耳かき。なんの変哲もないそれを耳に入れた瞬間――いかてん」
「……正解」
一応、ちゃんと聞いてたよ?
俺クラスのレベリングマスターになると、両手で2つのゲームをレベリングしつつノベルゲーをプレイするぐらい造作も無い事だ。
……まあ、白井なにがしのラノベには一言も二言もツッコミたい事山々だったのだが……俺の直感が止めておけと囁いた。
等と俺が新たな力に目覚めかけている間に、姿勢正しく座り直し、表情も元のクールなものに戻していた如月。
彼女は一枚の紙を俺の眼前に突きつけてきた。
それは、先程如月が鞄から取り出した入部届けで……。
「……何だ?」
「白井先生のいかてんの素晴らしさが理解できた今なら、勿論入部してくれるわよね?」
「帰る!」
俺は言うと同時、椅子を蹴飛ばして駆け出していた。
如月がいかてんとか白井とやらの事を力説している間、俺もただアホの様にポカーンとしていただけではない。
今、この時のために逃走する自分を何度もシュミレーションしていたのだ。
俺はアドリブには弱いが、事前にしっかりと準備をしていればある程度は補える。
ハッハーッ!
魔族とやらからも逃げ果せた俺の逃走力舐めんなよっ!
俺はシュミレーション通りの道、歩幅、腕の振り、息遣い、瞬きの回数で出口を目指し――。
「逃走成功っ!」
俺の歓喜の叫びが旧校舎に響き渡った。
「……あ」
さっき手渡されたラノベも一緒に持ってきてしまった。
こんな所で詰めの甘さが出ようとは。
「ま、いっか」
引き返してまた拘束されても面倒だし。
それよりもっ!
「レアリスた〜ん! 今直ぐ帰るから待っててねーーーっ!!」
一分でも、一秒でも早く。
その一心で、俺は周りの目など気にする余裕もなく、一心不乱に帰路を駆けて行った。