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「ほう、お前があの・・・・・・顔を上げよ」
コチョウは床に平伏しながらパニック状態に陥っていた。城に着くなり湯殿に連れて行かれ見知らぬ侍女たちに身体の隅々に至るまで磨き上げられたコチョウは、有無を言わさず見るからに高級そうなドレスを着せられて髪をまとめられた。そしてあれよあれよという間に広間に連れて行かれ、気付けば王と対面していたのだった。
自分が置かれている立場がまるで分からず、どう振る舞えばいいのかも何一つ分からない。震えているコチョウがその目にどう映ったのか、随分離れたところで玉座に座っていたらしい王は突然立ち上がり、つかつかと彼女の方へ近付いてきた。そして、顔を上げよと同じ言葉を繰り返した。恐る恐る身体を起こしたコチョウは、装飾の多い煌びやかな衣装の裾を見るにとどめる。
「私は頭の悪い女がこの世で一番嫌いだ。顔を見せろと言ったのが聞こえなかったのか?」
次の瞬間がっと顎を掴まれて無理やり顔を上げさせられたコチョウは、極度の緊張ですっかり潤んでしまっている視界の中、初めてまだ年若い王の顔を直視した。
「たしか口が利けないのだったな。本当かどうかも確かめようがないが・・・・・・鞭打ちでもすれば分かるか?」
白に近い金髪に、アクアマリンのように透き通ったライトブルーの瞳。齢はまだ二十代半ばほどだと耳にしたことがある。目を細め軽薄に笑いながらそんなことを言うセントアルネリア国王アリソンに、コチョウはすっかり震え上がった。
「ふふ、震えているな。私は馬鹿な女は嫌いだが、従順な女は嫌いではない。さあ、私の命に従うな?」
ついにぽろりと涙を流したコチョウは、あくあくと口を動かし、目の前の絶対的な支配者に怯えきっていた。
「――兄上、お呼びでしょうか」
訳も分からず頷きそうになっていたコチョウは、凛と響いた第三者の声にはっと我に帰った。
「来たか。見せたいものがある、ここへ来い」
「はい」
必死に息をしながら、コチョウはゆっくり近付いてくる足音を耳に、幼い頃を思い出していた。信じられないが、現国王を兄と呼ぶ人物など、一人しか考えられなかった。
「お前はどう思う?アリシア」
コチョウは勇気を振り絞って顔を上げ、その人を見た。セントアルネリア国王の弟、アリシア王子。兄王と同じ白に近い金髪に、サファイアのような深い青の瞳。そこにはあの日と変わらない、まるでおとぎ話の中に出てきそうな美しい青年がいた。去りし日から十年、いつか相見えることができたらと密かに願っていたのが、まさかこんな形で再会することになろうとは。美しい瞳と視線が絡み、コチョウは湧き上がる喜びにまたぽろりと涙を零した。あの時の優しい少年が来てくれた、もう安心だと、そう思った。
「これがあの"女神"だそうだ。類稀なる幸運の持ち主、その歌声一つで幸せを呼び国をも動かす。本当にそんなことが出来るのなら願ったりかなったりだが」
アリシアは黙ってコチョウから目を逸らし、まっすぐに王を見た。
「しかし、その女神様とやらは歌うどころか口が利けないときた。笑えるだろう?」
コチョウには目の前でなされている話が一体何のことなのかまるで理解できなかったが、王が静かに怒っていることは肌で感じていた。深く俯くコチョウとは対照的に余裕のある表情で静かに王の話を聞いていたアリシアは、不意にくっと口端を上げた。途端にその端正な顔が歪み、冷酷とも取れるものに変わる。
「口の利けない者が歌で国を救うとはおかしな話ではないですか。そんなもの、偽物に決まっているでしょう」
淡々と冷たい声が嘲笑する。コチョウは、記憶の中のあの優しい男の子とはかけ離れたその口調に驚き、愕然とした。
「そもそも、かつて女神と称された傾国の歌姫がこんな薄汚い女のはずがない。髪が黒いというだけで女神と呼ぶのは安直すぎる」
彼の言葉がコチョウの胸につき刺さる。この人は本当にあの時の男の子なのか、何かの間違いではないか。ぐるぐると混乱しているコチョウに追い打ちをかけるように、王が何かを思案するように言った。
「だが、庶民にしてはなかなかの顔をしている。従順なところもいい、おまえもそう思わないか?」
そこでちらりと温度のない冷たい目でコチョウを見下ろしたアリシアは、鼻で笑ってから吐き捨てた。
「兄上の目はいつからそんな節穴になってしまったのです?それとも、また随分と珍妙な趣味にお目覚めになったようで」
ついに声を上げて笑った王は、早々に退出の許可を待っているアリシアにまるで犬や猫の話をしているかのように言った。
「これの処分はお前に任せよう。生かすも殺すも好きにせよ」
面倒そうに顔を歪めるアリシアを横目に先に退出した王は、これはこれで良い暇潰しになったなと口端を吊り上げる。面倒ごとを嫌い普段から飄々とした態度を崩さない弟にことあるごとに嫌がらせをするのが、ここ最近王にとっての最高の暇潰しになっているのだった。
「あれはああ見えて血を嫌う・・・・・・ああ、つまらん」
どうせなら派手に殺してくれれば良いものを。恐ろしいことを呟いた王は、その足でゆっくりと政務室へと向かった。