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「立てるか?」
大きな手が差し出され、コチョウは戸惑いながらその温かい手をそっと掴んだ。
「怪我はないか」
ぐっと身体が引き上げられて、コチョウはその力の強さに目を見開いた。同じく地面に転がってしまった買い物かごを拾ってくれたその男性は、かなり上背がありがっしりした体格をしている。精悍な顔立ちは言いようのない威圧感があり、コチョウは怯えて目を伏せた。
「ご主人、彼女が買い求めていたものはどれだ」
「あ?そりゃ、この糸だけどよ」
「俺が買おう。これなら文句はあるまい」
あっという間にコチョウが買いたかった刺繍糸の支払いをすませると、男は一言ついてきなさいとだけ告げてその場を後にした。連れて行かれた先は、市場からは少し離れた場所にある服飾店だった。
「ここで待っていなさい」
そう言って店に入っていった男は、間を置かずして一枚のマントのようなものを持ってコチョウの元に戻ってきた。そして、泥で汚れた外套の上からそれを纏わせようとした。
「――!」
コチョウは、せっかくの綺麗な布が汚れると必死に抵抗し、身振り手振りでそれを伝える。男はしばらく首を傾げて何かを考えた後、真面目な顔をして言った。
「私は貴方が困っているところを見ていたのに、間に入るのが遅れてしまった。怖い思いをしただろう、すまなかった」
頭まで下げる男に、コチョウはとんでもないとあわあわと両手を振った。お詫びも込めてとマントを差し出され、どうあっても引いてくれなさそうだと察したコチョウは、一番汚れている外套だけでも脱いでしまおうと恐る恐る目深に被っていたフードをぱさりと落とした。そこから零れ出た艶やかな黒髪に、男は思わず目を瞠る。
「その髪、東方の出か。言葉は分かるか?」
東方とはコチョウの故郷であるリィノクニとその周辺の島々を指す言葉だ。大陸国セントアルネリアは北方と称され、地方によって生活や文化も大きく異なるが、何よりも大きく異なるのは髪と瞳の色だ。東方に暮らす人々は黒髪を持つも者が多く、このセントアルネリア人は金髪や茶髪を持つ者がほとんど。何処にいても民族の違いは、文字どおり一目見れば分かるのだった。
コチョウは男の問いにこくこくと頷いた後、恐る恐る男の袖を摘んでその手を手のひらを上にし、胸元にそっと引き寄せた。
「なっ、何を――・・・・・・ありが、とう?」
コチョウは続けてその大きな手のひらにお金は必ずお返ししますと指で書き綴った。何やら赤くなって固まっていた男は、不自然に咳払いをしてそっとコチョウの手の中から自分の手を抜き取った。
「俺が買いたかったから買った、だからあれは貴方のためではなく俺のためにしたことだ。貴方が気にすることではない」
そして男は、泥のついた外套を脱いだコチョウの肩にぎこちない動作でマントを羽織らせた。
「俺はサイガという。貴方の腕にそれは重いだろう、もしよければ俺が付き合おう」
驚いたコチョウはそこまでしてもらう必要はないと身振り手振りで訴えたが、結局頑として引き下がらないサイガに押し負けて、その日の買い物の荷物持ちをしてもらうことになってしまった。初めは怯えていたコチョウだったが、一緒に過ごすうちにだんだんと彼が見た目のように威圧的で怖い人物ではなく、誠実で優しい人柄であることが分かってきた。
「ここへは仕事を探しに来たんだ。分かりやすく言うと、日雇いの用心棒のようなものだな。いつもいろいろな土地を転々としている」
普段は旅をしながら用心棒をしているというサイガはいろいろな知識を持っていて、その話を聞くのはとても楽しかった。コチョウの故郷であるリィノクニにも行ったことがあるという。
「あそこは四季がはっきりしていて、とても美しい国だった。芸術が豊かで、特に初めて舞を見た時は感動したものだ。コチョウ殿は、リィノクニの舞を見たことはあるか」
コチョウは眉を下げて首を横に振った。幼い頃にこの国に来た彼女は、祖国のことをほとんど覚えていない。共通の話題だからかリィノクニについて穏やかに話し続けてくれている彼に気を使い、何とか意思疎通を図ろうとしていたコチョウは、人の少ない路地裏で突然目の前に立ちはだかった数人の男達に驚き目を見開いた。
「リン・ロイエーズだな」
鎧混じりのその青いユニフォームは、城に仕える兵士たちのものだ。戸惑い狼狽えるコチョウの前に、すっとサイガが立ちはだかる。
「彼女に何の用だ」
「大人しく同行しろ。抵抗すれば反逆とみなす」
高圧的な言い方にぴくりと片眉を跳ね上げたサイガは、後ろ手でコチョウを背中に庇った。
「聞こえなかったのか!抵抗すれば――」
「反逆とみなす、だったか?それならばまずそちらの事情を説明するべきだろう。今一度問おう、彼女に、何の用だ」
ぴり、とその場の空気が張り詰める。兵士たちはサイガの只者ならぬ雰囲気に気圧され、手にしていた槍を構える。コチョウは自分の代わりに彼が傷つけられるかもしれないことに慌ててとにかく彼の背中から出ようとするが、逞ましい腕がそれを許してくれない。ついにぽかぽかと背中を叩き出した彼女に、サイガはようやく首を後ろに向けた。
「リン殿は、何か城に呼ばれるような心当たりがあるのか」
そんな心当たりなど全くなかったが、コチョウはこくこくと必死に頷いた。するとサイガはぐっと眉間に皺を寄せ、何か言いたそうな顔をした。しばらく見つめ合った二人は、やがてサイガの方がふっと視線を逸らしたことにより分かたれる。
「――荷物はロイエーズの屋敷に届けておこう。いいか、くれぐれも彼女を乱暴に扱うな」
兵士に取り囲まれ大人しく連行されていくコチョウを見送ったサイガは、始終恐縮し気を使い続けていた彼女の姿を思い返しながら、人は見た目によらないものだなと思った。ただ、どうしても彼女が重罪を犯すような悪人には思えなかった。思い返すのは、自分の粗野な手に遠慮がちに重ねられた彼女の繊細な指先。
男はちらちらと彼女の可憐な微笑みをリフレインする自分の脳に喝を入れながら、しかし隙のない足取りで素早く雑踏の中に紛れていく。早く仕事を見つけなければ、また野宿はもう御免だった。