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しあわせと呼ばれた人  作者: なつのいろ
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「いいか、今度こそおぶっていってやるんだぞ」



 マキタの厳命により、リュカは心底心外だという顔をしながらもコチョウを背負って外を歩いていた。ほっそりした背中だが、コチョウ一人分の体重を支えてふらつく素振りもない。正直体力はもう限界で、コチョウとしてはとてもありがたかった。



 迷いなくさっさと歩く彼は、やがて一軒の家の前で足を止めた。壁という壁には所狭しと蔦が絡みつき一見廃屋のようだが、彼がノックをするとはっきりと人の気配がした。


 ぎい、と内から扉が開き、リュカはコチョウを背負ったまま中に滑り込む。



 室内は意外にも落ち着いた内装で、あちこちに植物の鉢植えのようなものが飾られている。煉瓦造りの暖炉の前にはいくつかの椅子がばらばらと据え置かれ、その足元には不思議な文様の絨毯が敷かれている。



「よく来たね、ここへお座り」



 その中の一つに腰掛けて編み物をしていた老婆が、こちらを振り向くことなく言った。



「失礼します」



 リュカはコチョウをその中の一つに座らせ、自分はマキタから預かった小包みを手渡した後、すっと後ろに控えた。



「おまえさんが、マキタが心配していたお嬢さんじゃな」



 継ぎ接ぎだらけのワンピースの上に暖かそうなグレーのショールを羽織ったその老婆は、マギサと名乗った。三重になっている瞼の下の目は白く濁っていて、焦点が合っていないように見える。

 彼女は編みかけの棒針を脇へ寄せると、椅子の肘掛に体重をかけてゆっくり立ち上がった。その腕がひどく震えていたため、コチョウも慌てて立ち上がり彼女を支える。



「ああ、ありがとう。おまえさんは座っていておくれ」



 マギサは再びコチョウを椅子に座らせると、その前に立って彼女の両頬に包み込むようにして触れた。骨ばったひんやりと冷たい手が、何かを確かめるようにコチョウの頬を撫でる。誰かに触れられるという感覚がずいぶん久しぶりで、コチョウは緊張しながらじっとされるがままだった。





 どれくらい時間が経っただろうか。やがてマギサの手が離れ、コチョウは知らず知らず詰めていた息をほうっと吐き出した。



「おまえさん、記憶が一部欠けているじゃろう」



 先ほどと同じ椅子に腰を下ろしたマギサは、突然そんなことを言った。驚いて固まっているコチョウを他所に、彼女はしわがれた声で続ける。



「口がきけないというのも、生まれつきではない。何か強い力に抑え込まれているせいじゃ」

「その強い力というのは」



 すかさず切り込んだリュカに、マギサは宙を見つめながらどこかぼんやりした調子で言葉を続けた。



「古い魔法じゃ。恐ろしく緻密、しかも幾重にも重ねられている」

「・・・・・・一体何を隠すためですか」



 低くなったリュカの声に思わず体を震わせる。そんなコチョウを知ってか知らずか、マギサは唐突に翼をなくした天使を知っているかと尋ねた。



「古くからこの国に伝わる昔話さね。ある日偶然天上から地上へ迷い込んだ天使が、飢えや貧しさに苦しむ人間たちを見て大変心を痛められた。そして、自らの持つ幸運の力を使って人々を助けた」



 歌うような調子で紡がれる物語は、耳によく馴染んだ。雨を降らせたり川の氾濫を抑えたり、病気の人を治したり。天からの使いは、請われるがまま、人間のために惜しみなく力を使ったのだという。



「ある日そんな天使の行いを知った悪魔が、その力の源である翼を差し出せば、人々はもっと幸せになれるとそそのかす。心優しい天使は喜んでその両翼を切り落として悪魔に差し出し、天上へ昇る力を失って地に堕ちる。人間に姿をやつした悪魔はその翼を使い、天使の真似事をしては人々にあがめられた。そうして、何も知らない地上の人間は神に救われたと喜び、幸せに暮らしましたとさ」



 しんと静かな空間に、マギサの深いため息が響いた。



「報われない話じゃ。しかし、たった一つの犠牲で多くの人々が救われた。そして、世の権力者たちのほとんどは同じ見方をするじゃろう」



 だからこそ、その存在は隠されなければならない。マギサはそこで言葉を切った。コチョウは彼女が何を言おうとしているのか分からず、ただただ呆然とその話を聞いた。そんな絵空事のようなことを、彼女は何故自分に教えるのだろう。混乱していると、背後からリュカの憮然とした声が飛んできた。



「まさか天使など実在するわけがない。その話と今の状況に何の関係が?」



 マギサはいっそう声を潜めた。



「天使というのは空想上の存在だが、人々にたしかな幸運をもたらす存在というのは実在するんじゃ。いつの時代も権力者と共にあり、その国と命運を共にするとも言われている。人々は密かにその存在のことをこう呼ぶーーしあわせの人、幸運の女神、と」



 コチョウの脳裏に、かの日のアリソン王の冷酷な声が蘇った。幸運の女神。あの日、彼はたしかにコチョウのことをそう呼んでいた。







 頭がいっぱいいっぱいで、起きているのに思考が靄がかかったようにぼんやりしている。気付けばコチョウは再びリュカに背負われ、路地を歩いていた。途切れ途切れの記憶の中、最後にマギサが言っていたことを思い返す。



ーーおまえさんは隠されるべきであり、見つけられるべきでもある。いずれゆくべき道が示されるじゃろう。くれぐれもその身を明け渡さぬようにすることじゃ・・・・・・



 自分は、一体何者なのだろう。それはコチョウがずっと考え続けていたことだ。コチョウという名を持ちながら、リン・ロイエーズとしてこの国で生きている自分。血縁はいない、自分の居場所もない。しかし、拠り所となるはずだった幼い頃のコチョウとしての記憶もまたなかった。


 記憶がないのも声が出ないのも、強い力に抑え込まれているせいだとマギサは言った。ならば、いつかその頃の記憶も戻ってくるだろうか。故郷で幸せに暮らしていた頃の記憶、愛する兄と過ごした心満たされた時間。



「・・・・・・」



 お兄様。声に出さずにそう口を動かす。もしかしたら、故郷でも今と同じように疎まれる存在だったのかもしれない。唯一の記憶の中の優しい兄も、実はコチョウのことを嫌っていたかもしれない。幸せな記憶など、もとよりなかったのかも。



 でも、それでも、もしも可能性があるのならば。


 きゅっとリュカの肩を掴むコチョウの手に力がこもる。それでいい、とどこかで聞いたことのある声が、満足げに呟いたような気がした。



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