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大陸国、セントアルネリア。かつては他国への侵略も行っていたが現在は各国同士の同盟により国際社会の均衡を保っている。大規模な貿易で巨万の富を得ており、世界有数の貿易国としてもその名を知られている。
複数の民族が入り混じるこの国には、他国からの亡命者も数多く生活している。何か事情があって逃げてきた者やより豊かな暮らしを求めて移住してきた者、理由は様々だが、彼らの多くは稼ぎの良い仕事に就くことが難しく、金持ちのセントアルネリア人に雇われたり商人の真似事をしたりしてなんとか生計を立てている。一見豊かに見える大国だが、道端で餓死する人の姿がなくならないのが現実だった。
コチョウは市場のすぐ近くで息絶えている子どもの前に、先ほど手折ってきた数本の花をそっと置いた。
すぐ目と鼻の先で果物や菓子、揚げ物などが売られている。この匂いにつられてここに辿り着いたのだろうか。
この国で本当に豊かな暮らしをしているのは一握りの限られた階層の人間たちで、多くの国民は毎日を切り詰めた余裕のない暮らしをしている。自分たちが食べていくだけで一苦労だというのに、他所者の子どもにまで大切な食べ物を恵んでやるような優しい人間など滅多に現れない。それは同じように他所者という立場であるコチョウにとっても身に覚えのある厳しい現実だった。
「あんたも物好きだな、毎度毎度そんなことしてる暇なんかねえだろうによ」
すぐ近くの乾物屋の店主が呆れた声を掛けてきたのを機に、コチョウは逃げるように歩き出す。店主の言う通り、道草をしていたと知られればまたこっ酷く罵られるに違いなかった。
コチョウが仕えるロイエーズ家は、女主人とその娘たち二人が取り仕切っている一貴族である。この家の本来の主人はコチョウの兄と懇意にしており、コチョウは亡命の際彼を頼って出国した。リンと改名し彼の養子になったが、彼は彼女が八歳の時突如病死する。そこから、彼の二人目の妻であったカトレアが手のひらを返したようにコチョウに対する態度を変えた。彼女の連れ子だった二人の娘たちもまたコチョウを冷たくあしらうようになり、彼女にとってつらい日々の幕開けとなった。
門をくぐり中に入って外套を脱いでいると、待ち受けていた二人の義姉がコチョウを取り囲んだ。
「遅い! お前は本当にのろまだね」
「ちゃんと買ってきたの? 早く出しなさいよ」
コチョウはぺこぺこと頭を下げながら、おつかい用の買い物かごから頼まれていた飾り紐と生花、化粧用のパフを手渡した。二人は礼も無しにもぎ取るようにそれを手にすると、我先にと二階へ駆け上っていく。その背中を見送ってさあ掃除をしようと踵を返したコチョウは、少し離れたところに立っていた女主人、そして彼女にとっては義母でもあるその女性の姿に気付き、慌てて頭を下げた。
「お使いすらまともに出来やしないなんて、お前は本当に役に立たないね。いいかい、お前が今こうして生きていられるのは私のおかげだってことを忘れるんじゃないよ。あの男が死んだ時に、本当ならお前も追い出してやるはずだったんだ。お前が何でもすると言うから、こうして仕事と寝床を与えてやっているんだ」
頭を下げ続けるコチョウに向かって憎々しげにそう吐き捨てたカトレアは、絹の上品なドレスの裾を翻し続けて言った。
「夕刻までに屋敷中の床を磨き上げるんだ。塵ひとつでも残ってりゃ容赦しないからね」
夕刻まではあと二時間も残されていない。無茶な命令に肩を落としたコチョウはしかし、了承の意を込めてさらに深く頭を下げた。途端に舌打ちをされる。
「返事くらいしたらどうなんだい、この出来損ないが。何のためにその小汚い口が付いているんだか分かりゃしないよ」
ぶつぶつ言いながら去っていくカトレアの姿が見えなくなるまで見送って、コチョウはようやく肩の力を抜いた。視線を落とした先には、肌触りが悪く薄汚れたドレス。
薄着だということもあって、冷たい大理石の床はいつも容赦なくコチョウから体温を奪ってゆく。元より低体温だからか、コチョウは床掃除で水に触れる度に体調を崩した。カトレアはそれを分かった上で度々床掃除をするように命令をする。従わなければ、何かしらの罰が待っているに違いなかった。
コチョウは溜め息をつき、自分の両頬を軽く叩く。何せこの広い広い屋敷中の床を、夕刻までにぴかぴかに磨き上げなければならないのだ。気合いを入れ直し、水桶を取りに物置へと向かった。