15
いつものように街に買い出しに出掛けて屋敷に帰ってきたコチョウは、朝から機嫌の悪かったカトレアにまた床掃除を命じられた。それを面白がって便乗した姉たちがせっかく拭いた床にゴミを落としたりわざとらしく水の入ったバケツをひっくり返したりといろいろな嫌がらせをしたが、やがて飽いて皆自分の部屋に閉じこもった。
外は随分と暖かい気温になってきているものの、大理石の床はいつでもひんやりと冷たくコチョウの体温を奪っていく。時折ぶる、と震えながら四つ這いで玄関ホールの床の上を少しずつ進んでいく彼女は、不意に室内の空気が不自然に揺らめいたことに気付かなかった。
「あんまり冷やさない方がいいんじゃない?」
突然耳を打った聞き覚えのない声に驚き、コチョウは弾かれたように顔を上げた。玄関ホールの正面にある長い階段の中ほどには、いつの間にか一人の少年が座っていた。真っ白な髪を一纏めに三つ編みにしていて、けだるげに首を傾けている。珍しい赤の瞳が、不思議な形をした白いワンピースによく映えていた。一瞬女性かと見まごうほどの美少年で、足を組みつまらなさそうにコチョウを見下ろす姿はどこぞの国の女王のようでもあり、この世のものではない妖精か何かのようでもあった。
お客様かと焦って立ち上がったコチョウは、すぐ近くに置いていたバケツに足を取られてひっくり返る。ばしゃ、と全身に水を被った彼女に呆れた顔をした少年は一つ瞬きをする間に彼女の目と鼻の先に移動し、ぐいっと顔を近付けた。
「あんた、いい加減にしないと死ぬよ」
目をまん丸に見開いて固まっているコチョウに向かって、少年は無造作に手を伸ばす。そして何事か口にした瞬間、じわじわとコチョウの服に染み込んでいた水が一瞬で蒸発した。その上全身がぽかぽかと温かく感じられて、彼女はただただぽかんと口を開けることしか出来ない。少年は面白そうにそんな間抜けな彼女の顔を見た後、ようやく身体を離し両手を後ろ手に組んだ。
「ふーん、やっぱり・・・・・・でも時間の問題かな。あんた、名前なんていうの?」
コチョウはリン・ロイエーズの名を答えようとしたが何故か少年は本当の名を教えろと迫り、押し負けた彼女は自分の本当の名前を宙に書いてみせた。
「コチョウ、ね。僕はルノ、あんたとは長い付き合いになりそうだから今日は挨拶に来たんだ」
わざわざこっちから出向いてやったんだから感謝してよねと偉そうに言い放った少年ルノは、未だに呆気にとられているコチョウに蠱惑的に微笑んでみせた。
「可哀想なコチョウ、あんたは何にも知らないんだね。そうだ、せっかくだから僕が力を貸してあげようか」
次の瞬間コチョウの目の前にふわりと急接近したルノは、突然彼女の頬に唇を寄せた。
「――!」
「ふふっ、今日はこれくらいかな。じゃあまた、近いうちに」
ルビー色の目を猫のように細めた彼は、ふっと空気に解けるようにして消える。コチョウは何が起こったのか分からず、唖然としてルノが消えた辺りを見つめ続けていた。夢だったのではないかとも思ったが、先ほどまで並々と水を張っていたはずのバケツは空になったまま転がっているし、頬にはまだ彼のひんやりした唇の感覚が残っている。一体あの少年は何だったのか。
いつもと同じありふれた日常の中に、ひっそりと非日常が紛れ込む。それは大抵誰にも気取られず音も無く近付いてきて、はっと気付いた頃にはもう手遅れになっているものだ。
その日の夜、コチョウはロイエーズの屋敷から忽然と姿を消した。




