番外編『テル・トールマンの手記』(2)
まずは、この手記を読むのが〈森の民〉のことを何も知らぬ人であると仮定して、私を迎え入れてくれた、彼ら〈森の民〉のことを説明しようと思う。
〈森の民〉は、彼ら自身が名乗っているその名の通り、この森に住む人々である。
小柄な種族で、大人でも、せいぜい私の胸の下あたりまでしか身長がない。彼らが私を『背高さん』と呼ぶ所以である。
もっとも私はどうやら別の世界から来たものであるらしいから、彼らが小さいのではなく私がこの世界では巨人であるという可能性も考えられるわけだが、おそらく、そうではなさそうだ。この世界には彼らの他に、彼らが知るかぎりでも幾つかの別の種族が生活しており、彼ら以外の種族はみな、おおよそ私に近い身長があるらしいのだ。
彼らは、それら、自分たち以外の種族を総称して、『外の世界の大きい人たち』と呼んでいる。つまり、この世界においても、〈森の民〉は特に小柄な種族であるということだ。
彼らは骨格が華奢で身が軽く、非常に敏捷である。身体が柔らかくバランス感覚が良いので、まるで軽業のような動きをやすやすとしてのける。そんな彼らには、私は非常に鈍重で不器用に見えるらしい。
彼らの、もっと大きな身体的特徴は、先ほど説明した通り、幼児期には『産毛』と呼ばれるふんわりと柔らかな被毛に全身を覆われていて、長さも見た目も断尾前の仔羊のそれに似た尻尾があることだろう。
この『産毛』は、前述のとおり、多少の個人差はあるが生まれて四~五年ほどで抜け落ち、私の知る『人間』の姿になるものらしい。が、中には成人後も、耳や背筋など身体の一部に被毛が残るものもいて、ちょっとした愛すべき個性とみなされているようだ。
尻尾のほうはもう少し早く、よちよち歩きを脱する頃には自然に取れるのが一般的だそうだ。
赤ん坊の毛皮の色は、大人の〈森の民>の髪の色同様、様々な色調の茶色から金色にかけての濃淡であることが多いが、稀には、銀に近い灰色や、純白であることもあるそうだ。
面白いのは、生まれてきた時の産毛の色が必ずしも成人後の髪の色と同じとは限らない点で、産毛が抜ける時に頭部の毛も全部抜け替わるらしい。特に銀や白の毛皮の赤ん坊は、産毛が抜けると普通の茶色や金髪に変わることが多いそうだ。中には、生まれた時は純白だったのに一転して黒髪になる子供までいるという。黒髪もまた、彼らの中では非常に珍しいようだ。
そして、〈森の民〉は、大変美しい種族である。
もこもこの毛皮に包まれた幼児期の、ぬいぐるみさながらの愛らしさは言うまでもないが、産毛が抜けて、私の知る『人間』の姿になったものたちは男女問わず軒並み非常な美貌で、わけても若い娘たちときたら、誰もかれもが『花のような』という形容にぴったりの可憐さである。
美貌といっても、彫りの深い鋭角的な美貌ではない。どちらかというと彫りは浅く、なだらかな造作なのだが、その柔和で穏やかな顔立ちが非常に優美で、清純素朴な美しさを湛えているのである。
彼らは、見た目上の男女の性差が少ない種族でもある。
身長も男女でさほど変わらないし、男女共にほっそりとしたものが多く、体格の差もあまり目立たない。そして、顔立ちも一様に優美で少女めいている。しかも、成人男性でも髭が生えない体質のため、彼らの言う『外の世界の人たち』には、彼らの男女の別が服装や持ち物――衣類に描かれる紋様が男女で異なり、また、男性は弓矢を持ち籠手を嵌めている――でしか見分けられなかったりもするらしい。私にも、その気持ちは良く分かる。
柔和な美貌に加えて男性に髭がないせいもあって、彼らは、全体的に若く見える。特に女性の場合、私の目には、何人もの子供を持つ女性でも、ほぼ一様に、美しい少女のように見える。
が、実は、彼らはみな若く『見える』だけではなく、実際に、彼らの中には、あまり年をとったものがいないらしい。
老境に達するまで生き残るものが、そもそも非常に少ないらしいのだ。
彼らは、成長速度は私の知る『人間』に比べてやや遅いようなのだが、だからといって長命ではなく、むしろ、平均してわりと短命であるらしい。
その多くは、数人の子供を産んだ後は、受粉を終えた花が散るように、さほど年を取らないうちに、特に病気をするでもなく、ある日突然に穏やかな自然死を迎えるという。彼らにとっては、それは自然な、当たり前のことで、特に悲しむべきことではないのだそうだ。
だから、彼らの里には、老人というほど老いたものが、そもそも非常に少ないのである。それで、ごく少数の老人たちは、セレタの知恵袋として非常に尊重され、尊敬されている。
〈森の民〉は、善良で平和的な人々である。温和で寛容、おおらかで愛情深く争いを嫌い、過剰な欲を持たず、思いやりに溢れ、およそ邪心を持たない清らかな心の持ち主ばかりに見える。まるで、嫉妬や強欲などの悪徳は、ここには一切存在しないかのようだ。
子供同士のたあいのない喧嘩は別として、彼らが諍っているのを、私は一度も見たことがない。何かを奪い合っているのも見かけないし、人の悪口を言うのも聞いたことがない。私がよそ者だから私の前では取り繕っているというわけでもなさそうだ。
外界との接触をほとんど持たずに森の奥深くで暮らす一族であるから閉鎖的といえば閉鎖的で、外界への警戒心は強いが、一方で好奇心も強く、柔軟で、基本的に人懐こく、私のような得体のしれぬ外来者を温かく迎え入れる懐の深さを持っている。
彼らの森に外界のものが立ち入ることはまずないそうだが、彼らは、外界の一部種族と細々と交易を行い、接触を持っている。
交易といっても、物々交換であるらしい。
〈森の民〉は貨幣というものを持たないし、外の種族がどうだかは知らないが、もし彼らに貨幣があったとして、〈森の民〉がそれを貰っても森の中では使い道がないのだから、意味がないだろう。
交易の場は森の外れの決められた場所で、春と秋に、セレタの男たちの中から選ばれた交易使節団がそこに商品を運び出し、友好の儀式と共に互いの産物を交換する。
〈森の民〉は、森でとれた薬草や香草、木の実や干し果実に干しキノコ、果実酒、毛皮、手工芸品などを提供し、見返りには主に塩や穀物、乳製品、鍛冶製品を受け取るという。
彼らは鍛冶や畜産をしないし、穀物を作らないのだ。
彼らが、農耕というものを知らぬわけではなく、しかも入手しようと思えば穀物の種も農具も容易に手に入るのにもかかわらず畑作を一切しないのは、森の地面を耕すことが禁忌に当たるかららしい。森の木を伐って地面を耕すことは森を傷つけることになるし、そこで自分たちの都合に合わせた作物を作るなどということは、森への不敬に当たるのだそうだ。
自分たちは森の与えるものを受け取って生きるのであると、彼らは言っている。十分な敬意をもって接すれば森は必ず必要なだけのものを与えてくれるのだから、森に自分たちの都合を押し付けたり、余分なものを望んではいけないと。
また、畜産も、彼らにとっては、森の秩序に反することであるらしい。
だが、それはあくまで、『この森の中では』ということであって、他の種族が他所の土地で農耕や牧畜をすることには全く異議はなく、正当な交易で得た穀物や乳製品を口にすることは、別に禁忌でも何でもないのだそうだ。
彼らは普段、草木の根のでんぷんや木の実の粉を粥や堅焼きにしたものを主食としているが――これは残念ながら私の口にはあまり合わない――、祭りや祝い事などの際には交易で手に入れた穀物で創意工夫に溢れた麺麭や菓子――ハチミツや甘い樹液が味付けに用いられる――を焼くし、それらを保存食や携帯食としても利用している。
他に、彼らは、狩りの獲物をはじめ、果実、木の実、キノコ、野生の芋、昆虫などの採集物を調理したり、そのままで食べる。燻製や干物、果実酒など、さまざまな加工食品も作るし、特別な機会には手の込んだ料理を作ることもあるが、新鮮な材料が手に入る季節には、肉ならそのまま焼いたり、果実なら生食など、シンプルな食べ方が主に好まれる。昆虫などは、子供たちがそこらにいるのを手で捕まえて、そのまま口に運んだりもしているので、最初はぎょっとしたものだ。が、調理した昆虫は意外なほど美味なので、今では私も、暇さえあれば好物の昆虫の採集に精を出している。
彼らの暮らしは素朴で質素である。が、慎ましい調和の美と清らかで健やかな喜びに満ちている。
『セレタ』と呼ばれる彼らの里は、ひとつの大きな家族である。母系制の大家族が、そのままひとつの集落になっているのだ。
セレタにいる男性は、すべて、セレタの女性たちの男兄弟である。ここで『おじいさん』といえば祖母の配偶者ではなく祖母の兄弟だし、『おじさん』というのも、おばの配偶者や父の兄弟ではなく、母の兄弟や従兄弟など、すべて母系の血縁だ。
が、彼らはそういう厳密な関係性を全く気にせず、年の近い相手はいとこだろうとまたいとこだろうともっと遠い関係だろうと関係なく兄とか姉とか弟、妹と呼び習わし、世代が上のものは年齢に応じて『おじさん』『おばさん』『おじいさん』『おばあさん』ですませているので、実際の関係は、少しでも遠くなるとほとんどわからなくなっている。いずれにしても血縁には違いないので、それで十分であるらしい。
森の中には、そのような里が、ほどほどの距離を保って幾つも散在しているという。
同じセレタのものはみな血縁なので、婚姻は、他のセレタとの間で行われる。
母系社会だが、婚姻は入婿制ではなく、『恋の季節』と呼ばれる繁殖期を迎えた男女それぞれが自分のセレタを出て森に分け入り、そこで巡りあった相手としばらく森に仮住まいして女性が子を宿した後、またそれぞれに自分のセレタに戻るのである。
この『恋の季節』は、全員が毎年迎えるというものではなく、迎えるものは各セレタにつき年に数人で、迎える時期も、おおよそ初夏の頃と決まっているが多少の幅があり、全員が一斉にというわけではない。そんなわけで、各セレタから同時期に森に出てきている男女は、森の定めた運命の一対であるのだという。
彼らが共に過ごす期間は短いが、ひとたび『恋の季節』を共にした二人の絆は、一生のものになる。自分のセレタに戻った女性が子供を産むと、父親である男は、狩りの獲物や自分のセレタの特産物などの贈り物を携えて女性側のセレタを折々に訪ねるのだ。その関係は、どちらかが死ぬまで続く。
彼らは、そうした『恋の季節』を、一生のうちに何度か迎えるらしい。その都度森へ行っては、そのたびに出会った別の相手と一時的な蜜月を送り、子を成すという。そして、そうした相手の全員と、その後も続く強い絆を保ち続ける。
その際、一人の男が同じセレタの女性二人と絆を結ぶことは、通常はないという。その逆も同様で、『恋人』は一つのセレタには一人しかいないものだそうだ。どういう仕組みでか、そのような成り行きになるらしい。これもおそらく、この森ではいろいろなことがそうであるように、森の計らい、導きであるのだろう。
このようして他のセレタに『恋人』や子を持つ男性が単独で女性を訪問することが、セレタ間のほぼ唯一の行き来であり、それ以外にはセレタ間の交流はないらしい。なので、男性には他のセレタを訪ねる機会があるが、女性たちは『恋の季節』以外には自分のセレタの周辺を出ることもなく、結果、一度も他のセレタを見ることなく一生を終えるのが普通だという。