桑原徳馬
◎桑原徳馬
『桑原興行』の代表取締役。かつては銀星会の幹部だったが、今は対立している。危険な男として、ヤクザの間でも有名。
その日、明智とダニーの二人は、のんびりと公園を散歩していた。ダニーは相変わらず、帽子とサングラスとマスクを付けた姿だ。端から見れば、完全なる不審人物である。そのため二人とも、人の集まる場所を避けて歩いていた。
遠くの方では、遊具で遊んでいる母と子の姿が見える。子供の方はいかにも楽しそうに、笑顔でキャッキャッ言いながらすべり台に乗っていた。一方、下でそれを見つめている母親もいる。こちらの方は、さすがにどんな表情をしているのかまでは分からない。だが、恐らくは幸せな表情を浮かべているのであろう。
そんな仲睦まじい母と子を、ダニーはじっと眺めていた。あの親子の姿を見て、ダニーは何を思っているのだろうか……明智は気にはなったが、敢えて何も聞かなかった。ダニーにも、言いたくないことはあるだろう。
すると突然、ダニーが立ち止まった。
「兄貴、鴨が泳いでるよ」
そう言うと、ダニーは池を見つめる。サングラスとマスクを付けているため、どのような表情をしているかは分からない。だが声の調子から察するに、楽しい気分ではあるのだろう。
明智は、池を泳ぐ鴨を見つめた。彼は正直、何も感じていない。生物であろうが無生物であろうが、明智にとっては似たようなものだ。ただ、目の前を横切るだけの存在にすぎない。
だから、明智は生物を殺すことに何のためらいも無かった。
言うまでもなく、その生物の中には人間も含まれている。
明智が初めて人を殺したのは、大学を卒業した直後だった。
きっかけは、本当に些細なことだったように記憶している。つまらないことで知人と揉めた挙げ句、相手が殴りかかって来たので殴り返したら、頭を打ち死んでいた……ただ、それだけだ。知人が死んだと分かっても、何も感じなかった。
もっとも、死体の処理はかなり面倒であったが。手足や首それに胴体を、様々な道具で細かく切り刻み、高熱で時間をかけて燃やした。それでも骨は残ってしまったため、ハンマーで粉々に砕いて海に撒いたのだった。
言うまでもないことだが、死体の処理など、明智にとって生まれて初めての経験であった。にもかかわらず、明智は最初から最後まで淡々と作業をした。途中で空腹を覚え、鳥のささみとブロッコリーを口の中に放り込むため中断した以外は、休むことなくやり遂げたのである。
知人は結局、行方不明ということになっている。親や兄弟たちは今も独自に捜しているようだが、そんな事情は明智の知ったことではない。
明智はその時、はっきりと理解したことがある。
前から何となく気づいてはいたが、自分には人間として大事な何かが欠けている。恐らく、それは生まれついてのものだ。それも、脳に重大な欠陥があるとしか思えない。
かつて周囲から、完璧超人などと言われていた明智……だが、自分は断じて完璧ではない。
人として欠けているものを補う、そのために他の能力が発達したのではないだろうか。
「兄貴、あそこに猫がいるよ」
ダニーの言葉に、明智は我に返った。ダニーの指差す方を見る。
茂みの中に、一匹の猫がいた。じっとダニーのことを見つめている。お前は何をしに来たのだ? とでも言わんばかりの様子だ。
その猫に向かい、手を差し出すダニー。だが、猫はビクリと反応した。すぐに茂みの奥へと逃げて行く。
「フフフ、嫌われちまったみたいだな、ダニー」
明智の言葉に、ダニーは照れくさそうな様子で立ち上がった。
どうやらダニーは、動物が好きらしい。タイに居た時には、ドーベルマンと闘い殺すのが仕事だったというのに。
「ダニー、お前は猫も好きなのか?」
「うん、好き」
いかにも楽しそうに答えるダニー。
「じゃあ、犬は好きか?」
「うん、犬も好きだよ」
ダニーは即答した。すると、明智の目がすっと細くなる。その好きな犬を殺していたことについて、どう思うんだ……と言いかけたが、思い直した。そんなことを、今さら言っても仕方ない。
明智はふと、ダニーと初めて会話した時のことを思い出した。当時、ダニーは日の当たらない地下室に入れられていたのだ。首に革製の首輪をはめられ、頑丈な鉄格子の付いた部屋で、得体の知れない何かの肉を手づかみで食べていた。
見た目や行動は、まさに野獣そのものであったダニー。そんなダニーに対し、最初に明智がしたこと、それは……彼の首輪を外すことだった。
首輪を外され、戸惑うような素振りをするダニーに、明智はこう言った。
「今日から、お前の雇い主は、この俺だ。俺のことを兄と思ってくれ」
そんなことを思い出しながら、明智はそばにあったベンチに座る。その隣には、ダニーもいた。ダニーは楽しそうに周囲を見回している。もっとも、サングラスとマスクをしているため、表情は分からないが。
その時、彼らのすぐ近くに雀が舞い降りた。雀は、二人から二メートルほど離れた場所で、地上をうろうろしている。餌をくれる人だとでも勘違いしているのだろうか。
「ピッチーは、飛べるようになったんだよ」
突然、ダニーは呟くように言った。明智は、思わず首を傾げる。ピッチーとは何者だろうか。
だが、明智はすぐに察した。ダニーが飼っている雀のことであろう。
「ピッチーって、あの雀の名前か」
「うん。ピッチーは凄く元気になった」
そう言うと、ダニーは雀の方に顔を向ける。
「ねえ兄貴、ピッチーも空を飛びたいのかな」
不意に、ダニーが言葉を発した。
「どうだろうな――」
明智が言いかけた瞬間、茂みの中から何かが飛び出した。先ほどの野良猫だ。野良猫は目にも止まらぬスピードで雀に襲いかかる。雀は、慌てて逃げようとするが間に合わない。野良猫は、その強靭な顎でしっかりと雀を捕らえていた。
そして野良猫は、勝ち誇ったような表情で雀をくわえ、意気揚々とした態度で去って行った。
一方、明智とダニーは、野良猫の去り行く後ろ姿をじっと見ていた。
「あの猫も、食わなきゃ生きていけないんだよね」
ダニーが、呟くような声で言った。その言葉に、明智は頷いて見せる。
「そうだ。野良猫も生きていかなきゃならない。生きることは闘いだ。闘い、殺し、そして食べる。お前だって、タイにいた時はドーベルマンと闘っていただろうが」
「えっ……」
「お前だって、殺したくて犬を殺した訳じゃないだろ? 食うために、仕方なく殺したんだろ?
「う、うん」
答えるダニー。その声は沈んでいる。タイにいた時のことを思い出したのだろうか。
明智は、なおも言葉を続ける。
「ダニー、お前のピッチーは外に出たいかもしれないし、空を飛びたいかもしれない。だがな、外には敵が多いんだ。今みたいに、野良猫に食われるかもしれないんだ。しかし鳥カゴの中なら、ピッチーは安全に過ごせる。餌も、腹いっぱい食べられる。どちらがいいかは、わからないぜ」
「うん」
頷くダニー。明智は、池の方に視線を移した。
その時、明智のスマホが震える。誰であるかは、いちいち見るまでも無い。このスマホに掛けてくるのは、小林くらいしかいないのだ。
「どうしたんだ」
(今から、そちらに伺ってもいいですか?)
小林の口調から察するに、仕事の話があるらしい。
「ああ、構わないよ」
(でしたら、あと一時間くらいしたら行きますんで)
言葉の通り、一時間ほど経ってから姿を現した小林。その表情には、いつものような余裕がなかった。
もっとも、開口一番に発せられた彼の言葉を聞けば、それも頷けたが。
「桑原の奴が、近いうちに取り引きしたいと言っています。日時さえはっきりすれば、帝銀ホテルの一室を予約しておく……と言っていました。あと、明智さんにも是非とも来てもらいたい、とも言っています」
小林の声は、若干ではあるが上ずっている。急な話に動揺しているのだろう。
「それは急な話だな。で、向こうは幾ら買いたいと言ってるんだ?」
「一キロです。グラム五千で五百万の取り引きになりますが、どうします?」
小林の問いに対し、明智は上を向き考えた。五百万……はっきり言ってしまえば、少額の取り引きだ。以前の取り引き相手である沖田よりはマシだが、わざわざ自分が出向いて行くほどの価値は感じない。
もっとも、今回の取り引きは金額ではないのだが。向こうの腹の内を見極める、その部分の方が重要だ。お互いに初顔合わせでもあるし、桑原徳馬という人間を知るには丁度いい。桑原が組むに値する相手かどうか……直接会って確かめたい。
「いいだろう。桑原に、近いうちに会おうと伝えておいてくれ」
「そうですか。分かりました。しかし、気をつけてください。桑原に関しては、いい噂はほとんど聞いてないんですよ」
「この手の人間に、いい噂なんかないだろう。ましてや、桑原は敵の多い男だ。いい噂なんか、ある訳ねえだろうが」
吐き捨てるような口調で、明智は言ってのける。そう、この業界において、いい噂などほとんど聞かない。この業界の人間については、悪い噂と……もっと悪い噂を聞くだけだ。
「それもそうですが……奴の場合、何をしてくるか分からない怖さがあるんですよね」
浮かない顔の小林。この男は、事の前にはいつも不安を口にする。極めて慎重な男なのだ。本人もそれを自覚しており、自分は小心者だ……と、よく口にしている。確かに、黒ぶちメガネをかけた顔は愛嬌のある童顔だ。どちらかというと癒し系であり、とても裏の世界の住人には見えない。
しかし、明智は知っている。小林は十代の時に、人を三人殺しているのだ。いざとなれば、そこら辺のチンピラなどよりは度胸はある。
「小林、大丈夫だよ。今回はクリスタルの取り引きをするだけだ。いくらなんでも、たかが五百で命のやりとりはしねえさ」
明智は諭すような口調で言った後、ダニーの方に視線を向けた。
部屋の隅で、ダニーは鳥カゴを見ていた。カゴの中には、ピッチーと名付けられた雀がいる。
「おいダニー……ピッチーだって、あんまりジロジロ見られるのは嫌だと思うぞ。ほっといてやれよ」
明智がそう言った途端、小林がプッと吹き出した。しかし、ダニーの方は真剣そのものだ。
「う、うん、わかった」
そう言うと、ダニーは慌ててこちらを向いた。一方、明智はジロリと小林を睨み付ける。もっとも内心では、腹を立ててはいない。むしろ、小林の緊張がほぐれてくれてありがたいと思っている。
しかし、明智に睨まれた小林は慌てて下を向いた。真面目くさった表情を作ってみせる。
「何がおかしいんだ、小林?」
尋ねる明智。すると、小林は慌てて首を振った。
「い、いえ……」
「まあ、笑える余裕があるのは結構なことだよ。桑原と会う時も、その調子でいてくれ」