柔田三郎
◎柔田三郎
悪徳刑事。明智に弱みを握られ、面倒事の後始末をしばしば押しつけられている。
地下から微かに聞こえてくる、凄まじい音――
今や廃墟と化している潰れた町工場や、得体の知れない住人が住んでいる木造の一軒家などが立ち並ぶ真幌市の一角……そこに建てられている古いビルの地下より、爆発音のごとき音が絶え間なく響いている。周辺には人通りは少なく、その奇妙な音を聞き付ける者は、ほとんどいないであろう。
ダニーがサンドバッグを蹴る度に、爆弾が爆発するような音が響き渡る。その横で明智もサンドバッグを叩いているが、あまりの凄さに、時おり手を止め苦笑いしている。
さらに隅の方では、小林が黒ぶちの伊達メガネを外してウエイトトレーニングをしていた。もっとも小林の場合は、ほんの暇潰しにやっているような雰囲気ではあるが。
やがて、明智はサンドバッグから離れた。体から流れる汗を拭き、ペットボトルの水を飲む。
その後、ヘッドギアと十六オンスのグローブをはめた。
軽快な動きで、ジムに設置されたリングに上がり、ダニーに呼び掛ける。
「おいダニー、久しぶりにスパーやろうぜ」
「ちょ、ちょっと! なに考えてるんですか明智さん!? あなた死にたいんですか!?」
慌てた様子で立ち上がり、明智のそばに行く小林。だが、明智は笑いながら手を振ってみせた。
「大丈夫。ああ見えて、ダニーはちゃんと手加減できる男だから。おいダニー、早く上がれよ。ボクシングルールでやろうぜ」
小林が不安そうな顔で見守る中、明智とダニーのスパーリングが始まった。
フットワークを使い、素早い動きでダニーの周りを回る明智。一方、ダニーは微動だにしない。両拳を上げた構えで、明智の動きをじっと見ている。しかし、明智がちょっとでも攻撃の姿勢を見せると、すぐに反応する。
明智は冷静な表情を浮かべてはいたが、内心ではダニーから受けるプレッシャーに舌を巻いていた。ボクシングルールのスパーリングのため、ダニーの蹴り、膝、肘は全て禁止だ。にもかかわらず、その両拳から感じられる殺気にも近いプレッシャー……今まで、ダニーの強さを間近で見ているだけに、その怖さも尋常なものではない。まるで、拳銃の銃口を向けられているような気分だ。
ダニーの間合いに入れば、弾丸のごとき拳が放たれる。明智を一発で眠らせられる威力の拳が……その意識が、明智の動きを縛りつけているのだ。
しかし、明智にもダニーに勝る部分があった。ダニーの身長は百七十五センチである。一方、明智は百八十センチだ。リーチだけ見れば、明智の方が長い。明智はギリギリの間合いから、速く鋭いジャブをテンポよく放っていく。
明智にジャブを打たれ、ガードを固めるダニー。明智はさらにジャブを打っていくが――
直後、ダニーの右手が明智の左ジャブを払い落とした。
次の瞬間、目の前にダニーの拳が迫る――
だが、その拳はピタリと止まった。明智の顔面に当たる寸前で、ダニーが止めたのだ。
思わず苦笑する明智。彼の放った速い左ジャブを、ダニーは何の苦もなく右手で払い落としたのだ。しかも、払い落としたその右手が、まるで水泳のクロールのごとき軌道を描いて明智の顔面へと放たれた。これは、カウンターのロシアン・フックである。
明智は改めて、ダニーの才能に驚かされた。こんなテクニックを、いつの間に覚えたのか……。
「ダニー、やるな」
言いながら、明智はダニーの肩に軽いパンチを入れる。すると、ダニーはニコッと笑う。誉められたのが嬉しかったらしい。
そして二人はリングの中央に行き、スパーリングを再開する。
明智はゆっくりと、ダニーの周囲を回る。下手にジャブを打とうものなら、先ほどのロシアンフックの餌食だ。
フェイントを交えながら、明智は動き続ける。しかし、ダニーは平然としている。今度は、プレッシャーをかけつつ前進してきた。自らの力に絶大の自信を持っているがゆえに、明智のフェイントなどには惑わされないのだ。
ダニーのプレッシャーは凄まじい。彼のパンチの届く範囲内が、オーラに包まれているかのようだ。明智はじりじりと後退する。
だが次の瞬間、明智は構えをスイッチした。左手を前に出したオーソドックスの構えから、右手を前に出したサウスポーの構えへとチェンジする。右のジャブを放ちながら素早く踏み込み、左のストレートを放つ――
しかし、ダニーはそのパンチを見切り、最小限の動きで躱す。直後、右のボディーブローが明智の腹に炸裂する。
明智の腹に、息が詰まるような衝撃が走る。それは意思の力で耐えられるようなものではなかった。たまらず、明智はその場で悶絶する。
「あ、兄貴! ご、ごめんよ!」
慌てた様子で、明智のそばにしゃがみこむダニー。小林もまた、素早い動きでリングに上がって来た。心配そうに、明智の顔を覗きこむ。
すると、明智は顔をしかめながらも立ち上がる。
「大丈夫だ。ミゾオチにいいのが入ったぜ……ダニー、スパーは終わりだ」
グローブとヘッドギアを脱ぎ、一息つく明智。ダニーはまだトレーニングを続けている。あれでは、スパーリングパートナーを見つけるのも一苦労だ。明智も弱い方ではないはずなのだが。
高校時代、明智は近所のボクシングジムに通い始めた。もっとも彼の場合、強くなりたいとか、そういった思春期の若者に有りがちな理由ではなかった。
明智は純粋に、暇だったのだ。自らの内に潜む狂気……その存在を、この当時の明智は既に自覚していた。ボクシングをやることにより、自身の狂気を静めていたのである。
明智の長いリーチと強烈なパンチ力、さらにスピードのある動きは素晴らしいものであった。通い始めて一年もすると、ジムの中でも彼に太刀打ちできる者はほとんど居ない状態であった。
そんな明智に対し、ジムの会長はプロになるよう誘った。
「お前なら、世界チャンピオンも夢じゃないぞ」
だが、明智はその誘いを断った。彼にとって、ボクシングはあくまで狂気を静めるためのものである。チャンピオンという言葉には、何の魅力も感じていなかった。
そんなある日。明智に向かい、ジムの年配のトレーナーがこんなことを言ったのだ。
「明智、お前には才能がない」
明智は意味が分からなかった。自分には才能がある、と会長は言っていた。だが、目の前のトレーナーは真逆のことを言っている。
もっとも、明智にとって自身のボクシングの才能など、有ろうが無かろうがどうでも良かった。ただ純粋な好奇心から、明智はそのトレーナーに尋ねる。
「俺には、才能が無いんですか?」
すると、トレーナーは頷いた。
「お前のボクシングセンスは凄い。今まで何人もの選手を見てきたが、お前は確実にトップクラスだ。しかし、お前は絶対に世界チャンピオンにはなれない。何故か分かるか?」
明智は、分かりませんと答えた。そもそも、分かるくらいなら質問などしていない。
「お前は、ボクサーにはなれないからだ」
その一言が返ってきた。後は自分で考えろ、とだけ言い残し、トレーナーは他の選手の指導を始めた。
あのトレーナーの言葉は正しかった。
自分はどうあがいても、ボクサーにはなれない。そもそも、なりたくないのだから。
ボクシングに、人生の全てを捧げる……自分には、そんな生き方は出来ないし、したくもない。そこまでボクシングを好きにはなれないのだから。
そう、確かに自分には才能がなかった。
ふと我に返り、明智はダニーの方を向いた。ダニーは一人、サンドバッグを叩いている。既に床には、流した汗が水溜まりのようになっていた。
ダニーは、今の生活をどう思っているのだろう。毎日ストイックに体を鍛え、命令を受けて他人を痛めつけるだけの日々。その生活に対し、ダニーはどのような思いを抱いているのだろうか。
「明智さん、大丈夫ですか?」
不意に、後ろから小林が声をかけてきた。明智はタオルで汗を拭きながら振り返る。
「大丈夫だよ。あの程度でおかしくなるほどヤワだったら、今まで生き延びちゃいねえ」
「なら、いいんですけどね。くれぐれも、頭にパンチをもらわぬよう気を付けてください。明智さんがパンチドランカーにでもなったら、俺たちはみんなで空中分解ですから」
言いながら、小林は床にあぐらをかいた。
「ところで明智さん、こんな時になんですが、沖田からクリスタルを大量に欲しいって連絡が入ったんですよ。どうします?」
「クリスタルか……面倒くさいな」
言いながら、明智はペットボトルの水を飲んだ。
沖田とは、明智らと顔見知りのチンピラである。まだ若いが顔は広く、特定の組織には所属していない。主な収入源は、クリスタルの密売である。明智からクリスタルを仕入れ、クラブなどで売りさばく。そのため、明智らにとっては上客である。付き合いも、そこそこ長い部類だ。
もっとも、明智はこの関係を特に重視している訳ではなかった。クリスタルの儲けは、さほど大きいものではない。そのために、いちいちクラブに出向かなくてはならないのは面倒だ。かといって、沖田のようなチンピラをここに招待する訳にもいかない。
「そうですよね。クリスタルの方は、そろそろ別の連中に任せた方がいいかもしれません」
小林の言葉に対し、明智はジロリと睨みつけた。
「おい、また屑みてえなチンピラを雇うつもりか? あんな奴らを雇うくらいなら、クリスタルから手を引いた方がマシだ」
「いいえ、違いますよ。実はですね、士想会の斉藤ってのが話を持ちかけてきたんですよ……クリスタルを扱いたいようですね」
「士想会だぁ? 奴らは薬は扱わないんじゃなかったのかよ」
怪訝な顔をする明智。士想会と言えば、昔ながらのやり方を未だに踏襲しているヤクザである。もっとも近頃では、銀星会のような大組織と、風祭組や桑原興行のような新興勢力との間に板挟みになっているという話だ。古くさい伝統や因習にこだわっているため、この数年で組織の規模はだいぶ縮小した……という話も聞いている。
しかし、小林の話は意外なものだった。
「それがですね、斉藤ってのは士想会の中でもぶっちぎりの改革派なんですよ。ヤクザという肩書きそのものにも、全くこだわりのない男です。その斉藤が、この前、俺に連絡してきたんです」
「連絡だぁ?」
「ええ。はっきりとは言いませんでしたが、奴の目当ては、クリスタルでしょうね。一緒に飯でも食わねえか、なんて言ってましたがね。どうでしょう? いっそ、クリスタルの販売はヤクザに丸投げしてみるというのは? そうすれば沖田も、ヤクザ連中から買うようになります。いちいちクラブなんかに行く必要もなくなりますしね」
「丸投げ、か」
明智は言葉を止め、小林の言葉について考えた。クリスタルの販売をヤクザに任せるのは、悪くないアイデアだ。自分たちは大量のクリスタルを仕入れることが出来る。だが、販売する力はない。販売する力は、ヤクザの方が上かも知れないのだ。
悪くはない。悪くはないアイデアだが……そこには一つ問題がある。
「小林、そいつはちょっと保留だ。士想会の人間は、いまいち信用できねえ。だが、お前のアイデア自体は悪くない。他の連中と組めないかどうか、考えておいてくれ」
低い声で言うと、明智はダニーの方を向いた。
「ダニー、そろそろ引き上げるぞ。ちゃんとストレッチしとけ」