向坂史奈
◎向坂史奈
ダニーの友だち。かつて遭った交通事故により、脳に障害を負っている。
「まずは、この部屋を掃除しましょうか。俺が手伝いますよ」
そう言って、立ち上がる明智光一。すると、神居桜子は慌てて制した。
「いや、この部屋はこのままでいいんだ! 掃除されると困る!」
「そうですか。なら、仰る通りにしましょう」
にこやかな表情で、明智は座り込んだ。桜子はチラリと明智を見る。
「やっぱり君は、綺麗な部屋の方がいいのか?」
「いいえ、俺はどっちでも構いません。むしろ俺は、やたら身の回りを清潔にして、私は潔癖症です……みたいな人間は大嫌いですよ。そんなに自分だけが清潔でいたいのか、って思いますね」
その言葉は、明智の偽らざる本音だった。
「僕もそう思うよ。人間は清潔になりすぎると、人格まで歪んでしまう気がする。水清くして魚棲まず、という言葉もあるし」
「そうですね。確かに、その通りです。桜子さんは大したもんですね」
ウンウンと頷いて見せる明智。すると、桜子の頬が赤くなった。
「い、いや、そんな大したことを言ってる訳じゃないよ……」
口ではそう言っているが、まんざらでも無さそうな表情を浮かべている。明智に誉められたのが、嬉しくて仕方ないようだ。
その反応を見て、明智は内心ほくそ笑んでいた。初めはどうなることかと思ったが……どうやら、自分は桜子に気に入られたらしい。意外と簡単であった。
実のところ明智は、桜子に対し別の方法を用いるつもりでいたのだ。クリスタルを用い、彼女を薬物中毒にしてしまおうと画策していた。
もっとも、こうまであっさりとお近づきになれたのは計算外であったが。
「ところで桜子さん、たまには少し表に出てみませんか? ものは試しに――」
「その意見は却下だ。僕は外には出たくない」
桜子は、きっぱりと言ってのけた。
「何故です?」
「外に出るとなると、いろんな準備が必要だ。それは、時間とエネルギーの無駄遣いだと思う」
「なるほど、確かにその通りですね」
納得したような表情で、ウンウン頷く明智。相手の言うことを絶対に否定しない……昔の一日だけのホスト体験が、思わぬ形で役立っていた。
・・・
「ねえダニー、あんた顔が傷だらけだよ。本当に大丈夫なの?」
向坂史奈の問いに、ダニーは自らの顔をさすった。
「うん。まだ、ちょっとだけ痛むけど大丈夫だよ」
そう言って、胸を張って見せるダニー。だが、向坂の表情は曇っていた。
二人はいつもの如く、真幌公園にいる。時刻は既に十一時だ。人の出入りはほとんど無い。もともと真幌市は住宅地である。夜の九時を過ぎると、人通りはほとんど無い。
そんな公園で、二人はベンチに腰掛け語り合っていた。
「ねえダニー、こんなこと言いたくないけど……」
そう言うと、向坂はためらうような素振りをした。すると、ダニーは首を傾げる。
「どうしたんだ? 何か困ったことがあるなら、俺に言ってくれ」
「あんた、兄貴さんて人に利用されてない?」
意を決したような表情で、向坂は言った。
「それは違う。兄貴はいい人だ。兄貴がいなかったら、俺は今ここにいない」
向坂の言葉を、きっぱりと否定するダニー。だが、向坂の表情は暗いままだ。
「だったら、兄貴さんは平気なの? あんたが、大きなケガをするような闘いをさせてんだよ。もし頭を殴られて、あたしみたいになったら……あんた、どうする気?」
悲しげな口調で言うと、向坂はニット帽を脱いだ。
彼女のスキンヘッド、さらに頭を一周しているギザギザの傷痕が露になった。
「さ、向坂……」
「ダニー、人間なんて脆いもんだよ。頭をコンクリートにぶつければ、脳なんて豆腐みたいに簡単に潰れるんだ」
自嘲するかのような笑みを浮かべ、淡々とした口調で語る向坂。ダニーは何も言えず、下を向く。
「ねえダニー、あんたは本当にいい奴だよ。だけど世の中には、悪い奴も大勢いる。あんたが、悪い奴にひどい目に遭わされる姿は見たくない」
そこまで言った時、向坂はハッとした表情になる。ダニーは彼女の異変に気付き、周囲を見回した。
すると、五メートルほど離れた場所に、数人の若者たちが立っているのが見える。街灯の明かりの下、若者たちの表情は驚きと好奇心に満ちているのが分かった。
ダニーの視線に気付いた若者の一人が、ニヤリと笑った。
「ねえ……もしかしてさ、ホラー映画の撮影かなんかしてんの? カメラ、どこ?」
言いながら、キョロキョロと辺りを見回す若者。体はさほど大きくないが、その目付きは鋭い。度胸もありそうだ。恐らく、彼らの中でも一目置かれている存在なのだろう。
その言葉に反応したのは、ダニーではなく向坂であった。ニット帽を被り、ダニーの手を掴む。
「ダニー、行こう。今日はあたしの家に招待するよ」
言いながらダニーの手を引っ張り、その場を立ち去ろうとする向坂。
だが、二人の前に若者が立ちはだかる。
「ねえ、ちょっと待ってよ。この顔ってマスクでしょ? どこで売ってんの? 俺も欲しいんだけど」
馴れ馴れしい態度で、ダニーに話しかける若者。それに対し、向坂が憤然とした顔つきでダニーの手を引く。
「あのさあ、ほっといてくんないかな! ダニー、行くよ!」
乱暴な口調で言い放ち、向坂はダニーの手を引きながら、強引に若者たちの間をすり抜けようとする。
しかし、若者たちはほっといてくれなかった。暇な彼らの目には、ダニーと向坂はまたとない暇潰しの玩具に映っていたのだ。
「まあまあ、そう言わずに……その顔、ちょっと動画に撮らしてよ」
若者たちはそう言いながら、スマホをダニーと向坂に向ける。
向坂の顔が、怒りでさらに歪んだ。
「あんたら! いい加減にしてよ!」
わめくと同時に、向坂は手を伸ばした。力ずくで、前に立っている若者の一人をどかそうとする。すると、その若者は派手に転んだ。棒立ちになっていたところに向坂の手が伸びて来たため、不意を突かれてバランスを崩したらしい。
その行動は、若者たちの気分を害するには充分であった。
「おい、てめえ何すんだよ!」
憤怒の形相で、向坂の襟首を掴む若者。しかし、彼らは全く理解していなかったのだ。
目の前にいる、醜い顔をした男の怖さを。
その瞬間、ダニーの左足が伸びる。向坂の襟首を掴んでいる若者の尻に、強烈なミドルキックを食らわした。
たった一発の、それも尻へのミドルキックで若者は崩れ落ちた。しかし倒れながらも、凄まじい形相で周りを見回した。自身に危害を加えたのが何者であるのか、即座に理解する。
「てめえ! 痛えじゃねえか!」
喚きながら、痛みをこらえて立ち上がる。同時に、他の若者たちも一斉に動いた。罵声を上げながら、ダニーへと向かって行く。
しかし、ダニーは落ち着き払っていた。彼らの攻撃を冷静に捌き、逆に太ももへのローキックを見舞っていく。
ダニーの強烈なローキックは、たった一発で若者たちを戦闘不能にしていく。悲鳴をあげ、倒れていく若者たち――
数分後、彼らは全員が足を押さえて地面に倒れ、うめき声を上げていた。一方、ダニーは平然とした様子で倒れている者たちを見ている。呼吸は乱れていないし、鼓動も平常時のままだった。ダニーにとって、今のは闘いではない。それどころか、練習にすらなっていなかった。
だが、向坂は違った印象を持ったらしい。すぐさまダニーの手を掴む。
「ダニー、何してんの! 早く逃げるよ!」
言うと同時に、ダニーの手を引いていく向坂。ダニーは戸惑いながらも、向坂に手を引かれるまま付いて行った。
「あ、あのう……」
戸惑いながら、言葉を発したダニー。すると、向坂はニッコリと笑った。
「ここ、あたしの家だよ。さあ、座って」
真幌公園から、歩いて十分ほどの場所にある寂れた雰囲気のアパート……その一室が、向坂の自宅であった。部屋の中は綺麗に整理されてはいるが、同時に殺風景でもある。生活に必要なもの以外、いっさい置かれていない。
「なんにも無い部屋でしょ?」
いきなり向坂にそう言われ、ダニーは返す言葉に迷った。
「えっ、いや、その、あの……」
言葉につまるダニーを見て、向坂は苦笑した。
「うん、あんたの言いたいことは分かる。でも仕方ないんだよ。あたしは生活保護もらってる立場だからね……贅沢は出来ないんだ。でも、あたしなんかまだマシな方なんだよ。中にはパソコンを買っただけで、贅沢だ! なんて言い出す奴もいるからね」
悲しげな笑みを浮かべる向坂。その表情を見て、ダニーは慌てて首を振る。
「お、俺は物が無い部屋の方が好きだ!」
言うと同時に、ダニーは動いた。ピョンと跳ねたかと思うと、逆立ちをして見せる。
唖然とする向坂。しかし、ダニーの動きは止まらない。逆立ちの体勢のまま、ビョンピョン飛び跳ねて見せる。
かと思うと、空中でくるりと一回転して立ち上がった。
「な? こんなこと、物がいっぱいある部屋じゃ出来ないだろ?」
「しないよ、バカ。そんなこと出来るの、あんたくらいのもんだし」
そう言って、向坂は笑いながらダニーの頭をこづいた。
「ダニー、あんたはいい奴だね。だけど、人を殴っちゃいけないよ」
「えっ?」
困惑した表情のダニー。だが、向坂は真剣な表情で繰り返す。
「他人を傷つければ、いつかは自分に返ってくるんだよ。傷つけられた人は、必ずあんたを恨む。いつか、誰かに仕返しされることになるんだよ」
「そうなのか……」
思わず下を向くダニー。彼は今まで、暴力を振るうことについて悩んだことなどなかった。暴力のみが、ダニーにとって生きる術だったからだ。
そんな彼にとって、向坂の言葉は衝撃的であった。
「で、でも、俺は悪い奴しか殴らない。さっきの奴らも、悪い奴だ。悪いから蹴った……俺は悪くない」
「確かに、さっきの連中は仕方ないかもしれない。でもね、あいつらに怪我をさせれば、あんたは警察に捕まるんだよ」
向坂の言葉に、ダニーはうつむいた。彼は、明智がこう言っていたのを思い出したのだ。
(いいかダニー、警官には逆らうな。あいつらのバックには国家権力が付いてる。逆らっても、何も得しない)
国家権力とは何のことだか、ダニーには分からない。しかし、明智の言うことは聞く。
明智の言うことは、ダニーにとって絶対だ。
だが、続いて向坂の口から発せられた言葉は、ダニーの心をかき乱した。
「ねえダニー、あんたは悪い奴しか殴らないって言ったね? でも、悪い奴ってのは誰が決めるの?」
「あ、兄貴だよ。兄貴が決める――」
「その兄貴さんは、間違ってると思う」
静かな口調で、向坂は言った。
「えっ……」
「いいかい、誰が善くて誰が悪いかなんて、一人の人間が簡単に決められないはすだよ。なのに兄貴さんは、相手を悪い奴だと決めつけて、あんたに痛めつけさせる……おかしいよ。兄貴さんは、あんたを利用してるんじゃ――」
「ち、違う! 兄貴はそんな人じゃない!」
怒鳴るダニー。彼は憤怒の形相で、向坂を睨む。だが向坂は怯まなかった。
「あんたがそう言うなら仕方ない。兄貴さんについては、もう何も言わないよ。でもね、一度は冷静になって考えてみた方がいいよ。兄貴さんにとって、あんたは本当に必要な存在なのか」
そう言うと、向坂はダニーの手を握る。
「気に障ったなら謝るよ。でもね、あたしはあんたに不幸になって欲しくないんだ」




