神居宗一郎
◎神居宗一郎
神居家の当主。その絶大な権力で、白土市を裏から支配している。
「君は、いったい誰なんだ? 何をしに来た?」
挨拶の言葉もないまま、突然そんな言葉が飛んできた。
明智光一は大いに戸惑った。異臭の漂う室内……そこに住む女が変わり者だという噂は、今までにもさんざん聞かされてきた。だが、まさかここまでとは想定していなかった。
明智は石井貞治に連れられ、都内にあるマンションの一室に来ている。
マンションの外観はお洒落なものだが……彼らのいる部屋の中は外と違い、混沌とした空気を発していた。ゴミの詰められたコンビニの袋があちこちに転がり、床は足の踏み場もない。しかも、中からはあらゆる種類の異臭が漂っている。消臭剤でも、隠しきれないほどの匂いだ。週に一度は、業者が掃除しにくる……という話を聞いてはいたが、その業者も辞めてしまったのかもしれない。
明智はふと、ダニーの住む檻の中を初めて訪れた時のことを思い出していた。あの時も、こんな異臭が漂っていたのだ……ただし、ダニーの場合とは根本的に異なるケースではある。ダニーには、部屋を掃除するという常識を誰も教えなかった。さらに、風呂にもろくに入れなかったのだ。ダニーは自ら望んで、あの環境にいたのではない。
一方、桜子は裕福な家庭に育った。それなりにまともな教育を受けているだろう。少なくとも、幼い頃に後片付けと掃除くらいは教わったはずだ。にもかかわらず、それを実行できていない。父親の神居宗一郎の、歪んだ教育の賜物であろう。本物のお嬢様というのは、意外としっかりしているものなのだが。
「あ、あの……桜子さん、こちらは明智光一くんだ。最近、実業家として色んな方面で活躍中だよ。君の助けになれるんじゃないかと思ってね――」
「助けなんかいらない。そもそも、僕はその明智さんとやらに、会いたいと言った覚えもないんだ。用があるなら、さっさと言ってくれ。用がないなら、とっとと帰らせてくれ」
石井の言葉を遮り、にべもない口調で言い放つ桜子。その顔には、露骨に不快そうな表情を浮かべている。髪はボサボサで、フケが浮いている。ここ数日間は風呂に入っていないのであろう。さらに身に着けているジャージには、あらゆる種類の汚れや染みが付着している。しかも、その姿を恥じる気持ちもないらしい。
明智はため息をついた。とりあえず、今日のところは引き上げるとしよう。何も急ぐ必要はない。
「石井さん、もういいよ。桜子さんは機嫌が悪いらしい。なら、今日は帰るとしよう」
そう言うと、明智は桜子に背を向けて立ち去ろうとした。
だが、その背中に向かい桜子が声を発した。
「ちょっと待て。勝手に決めないで欲しいな」
その声を聞き、明智は立ち止まり振り返った。どうやら、この面倒な娘は明智に興味を持ってくれたらしい。良いことなのか悪いことなのかは、まだ不明ではあるが。
「機嫌が悪いなどと、人の気分を勝手に決めつけないで欲しいね。僕の機嫌は僕にしか分からない。君に何が分かるというのだ?」
明らかに苛ついたような口調で尋ねる桜子。だが、明智は冷めた表情のままだった。
「分かりませんね。分かりたくもないですが」
冷たい口調で、言葉を返す明智。すると、桜子の表情がさらに険しくなる。
「君は、いったい何をしに来たんだ? 何か目的があって、僕に会いに来たんだろうが? だったら少しは、やる気を見せてみろ。一度くらい帰れと言われたくらいで、簡単に引き下がるな。君には根性というものがないのか?」
口を尖らせ、明智を睨み付ける桜子。
それに対し、明智は涼しい顔で彼女の視線を受け止めていた。もっとも内心では、湧き上がる殺意を押さえつけるのに必死だったのだが。こんな生活をしているバカに、根性を説かれる覚えは無い。出来ることなら、この場で石井ともども撃ち殺してやりたいくらいだ。
その時、明智の頭の中に素敵な考えが浮かんだ。石井と桜子……この二人は、もともと顔見知りだ。この場にて、石井と桜子の無理心中というのはどうだろうか。そうすれば、二匹の不快なクズが、この世から消えることになる。
「君、何を黙ってるんだ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え!」
桜子は鋭い口調で問いただす。涼しい顔で、桜子の怒りに満ちた視線を受け止めている明智の態度が、彼女の怒りの火に油を注いでしまったらしい。
「いいえ、俺には美人さんを怒らせる趣味はありませんので……あなたにとって俺の存在が不快であるなら、すぐに引き上げるまでです」
内心の殺意を押し隠し、にこやかな表情で答える明智。すると、桜子の表情がやや変化した。明らかに動揺している。
「き、君は何者なんだ? 君は、僕の質問にまだ答えていない。まずは、自分が何者であるのかくらい言いたまえ!」
強気の口調ではあるが、その声はかすかに震えている。すると、何を思ったか石井が口を挟んだ。
「あ、あの、この人は明智光一さんといって――」
「石井さんには聞いてないよ。僕は、その明智さんとやらの口から直接聞きたいんだ」
語気鋭く、石井の言葉を遮る桜子。石井に対しては、相変わらず強気な口調である。お嬢さま育ちにありがちな、典型的な内弁慶らしい。
ため息をつく明智。いっそのこと、ダニーを連れて来ればよかったかもしれない……などと考える。ダニーなら、確実に桜子を怯ませることが出来たはずだ。
「私の名は明智光一です。一応は実業家ですが、大して儲けてるわけでもありません。むしろ、二人の社員を抱えて毎日ヒイヒイ言ってる有り様です。出来ることなら、私もあなたみたいにニートをしていたいもんですよ」
嫌味たっぷりに言い放つ明智。すると、桜子の顔が一気に紅潮した。
「な、何だと! ぼ、僕はただのニートじゃない!」
「ほう、ただのニートではないと言うのですか。それでは、あなたはいったい何者なんですか?」
「な、何だっていいだろうが! 君には関係ない!」
うろたえながらも、強い口調で言い返す桜子。明智はにこやかな表情で対応していたが、再び殺意が湧き上がってくるのを感じていた。
「うーん、それでは話になりませんね。私は自分が何者であるのか答えました。次は、あなたが答える番ではないですか?」
「じ、実業家だけじゃ、何も分からないじゃないか! そんなのは、答えたうちに入らない!」
即座に言い返す桜子。口の減らない、という表現は彼女のためにある言葉だろう。明智は、いちいち相手をするのが面倒になってきた。これで充分だ。今日のところは、顔を覚えてもらえただけでいい。さっさと引き上げよう。
でないと、目の前のワガママ女を殺してしまうかもしれない。
「そうですか……あなたは、私と対等に話し合いをする気がないらしい。それでは、お話になりませんね。では、今日は失礼します」
「おい待て! まだ僕の話は終わっていないぞ!」
言いながら、憤怒の形相で立ち上がる桜子。この態度からして、人に命令することが当然……という環境で今まで生きてきたのは明らかだ。やはり、神居家の教育はかなり浮世離れしている。
そんな姿を見た明智は、思わず顔をしかめた。この女は、本当にどうしようもない人間だ。彼女を無視して立ち去ろうとした時、石井が慌てた様子で止めに入った。
「ちょ、ちょっと! もう少し、話し合おうじゃないか!」
言いながら、明智を押し止めようとする石井。
「石井さん、あんたも大変だな」
そう言うと、明智は足を止めた。その言葉の半分は皮肉の感情で占められているが、もう半分は本音である。こんなワガママなニート女のご機嫌を取らねばならないとは、何とも哀れな話だ。
もっとも、それだけ神居家の影響力が強いということの証明でもあるが。
「では桜子さん、石井さんに免じて話は聞きましょう。ただ、聞くに値する話をしてくださいね」
嫌味たっぷりの口調で言ってのけた明智。
「き、君みたいな凡人に何が分かる! 僕のような人間が為すに値することなど、この世界には存在しない……だから僕は、何もしないことに決めたんだ!」
桜子の口から出た、凡人という言葉……それを聞いた明智は、思わず口元を歪めた。この女は、いったい何を考えているのだろう。自分を天才だとでも思っているのだろうか。天才という言葉は、ダニーのような者だけに与えられるべき称号なのだ。少なくとも今、明智の目の前にいる者は断じて天才などではない。
しかし同時に、明智の頭もようやく冷静さを取り戻した。自分一人のためだけならば、こんなバカ娘の相手をする必要は無い。この場で、桜子と石井の二人を始末しても構わなかった。
しかし、自分にはダニーがいる。そして、小林も。奴らの今後の人生が、自分の両肩にかかっているのだ……。
自分の不快な感情は、この際無視しなくてはならない。
「ほう、なるほど。それはもっともな考えですね」
優しい口調で言うと、明智はうんうんと頷いて見せた。すると、桜子の表情が変わる。
「えっ……」
「いや、本当ですよね。こんな世の中じゃあ、やる気も失せますよ。本当にどうしようもないですよね」
頷きながら、明智は笑みを浮かべてみせる。
「な、何だ! 分かったようなことを言うな!」
「まあまあ、そう言わずに……言いたいことがあるなら、全て吐き出してスッキリした方がいいですよ。私が相手でよければ、聞きますから」
言いながら、明智はゴミだらけの床に座り込む。にこやかな表情を浮かべながら、桜子を見つめた。
・・・
その頃、ダニーと小林は明智宅のリビングにいた。ソファーに座り、楽しそうに携帯電話をいじるダニー。一方、小林は落ち着かない様子でリビングをうろうろしている。
「明智さん、大丈夫かなあ……」
不安そうに呟く小林。すると、携帯電話を夢中でいじくっていたダニーが、顔を上げる。
「大丈夫だよ。兄貴は天才だから。何でも出来るし」
「まあ、そうだよな。明智さんなら大丈夫だよな」
不安そうな表情を浮かべながらも、頷く小林。あたかも、その言葉で己を納得させようとしているかのように。
その時、不意にダニーが立ち上がった。
「こ、小林さん! 俺、ちょっと買い物に行ってくるよ!」
ダニーの声は上擦っていた。興奮したような表情で小林を見ている。
そんなダニーに、小林は眉をひそめた。明らかに変だ。
「買い物? じゃあ、俺も行くよ――」
「い、いや! 俺一人で行くから!」
慌てた様子で、首を振るダニー。
小林は迷った。ダニーは今から、何者かに会いに行くようだ。そういえば、明智も不安を口にしていたのだ。
だが、小林は微笑んでみせる。ダニーにも、秘密の一つや二つ有っていいはずだ。
「分かったよ。なるべく早く帰って来いよ。でないと、明智さんが心配するからな」
「わかった!」




