猪狩寛水
◎猪狩寛水
ラエム教の教祖。にこやかな表情を浮かべながら、人を殺せる男。
「はい? チャンピオン、ですか?」
不快そうな表情で問いただす明智に対し、石井貞治は笑みを浮かべて答える。
「そう、次の試合はチャンピオンのクリントとやってもらうよ。最近、クリントの対戦相手がいなくてね……だから、ダニーに是非とも闘ってもらいたいんだ」
いかにも自信たっぷりの表情で、石井は語ってみせた。
その顔を見た明智は、本気の殺意が湧いてくるのを感じていた。この石井ほど、見ていて不愉快になる男も珍しいだろう。
結局のところ、石井は中途半端な男なのだ。金はあるが、それは親から受け継いだものだ。自分はしょせん、親の七光りでこうしていられる……偉そうにしているが、本人も内心ではそれを理解している。そのコンプレックスを隠すため、過剰なまでに自信たっぷりな態度で人に接しているのだ。
「石井さん、誰が相手でも俺は構いません。ただ、そのチャンピオンに勝ったら……そろそろ、神居桜子さんを紹介していただきたいんですがね」
明智の言葉に、石井は口元を歪めた。
「いや、私は構わないがね。ただ、彼女とお近づきになったら面倒だよ。特に、君は顔がいい。桜子さんが一目惚れ、なんて事態になったら……それは悪夢以外の何物でもないよ。よりによって、神居家の――」
「そんなの、大したことはありませんよ。とにかく、出来るだけ早く彼女を紹介してくださいね」
言いながら、明智はニヤリと笑ってみせた。
そして、試合当日。
檻の中で、ダニーとクリントは向かい合った。
チャンピオンのクリントは、スキンヘッドの白人である。ダニーより、二回りほど大きい体格だ。アナボリック・ステロイドの常用者に特有の、丸みを帯びた顔をしている。全身を覆う筋肉の量は尋常ではないが、ボディービルダーのように動きの邪魔になるような付き方はしていない。
明智は格闘技に特に詳しいわけではなかったが、これまでの経験から、クリントが今までに闘ってきた者たちとは違うレベルのファイターであることは一目で理解していた。
「ファイト!」
いつもの如く、司会の声が場内に響き渡る。と同時に、試合が始まった。
クリントは半身に構え、じりじりと間合いを詰めていく。ダニーに対し、怯えているような様子はない。また、侮るような表情でもない。落ち着き払った態度である。このようなルールの無い闘いの場で、ああまで落ち着いていられるとは……見ている明智は、ヒヤリとするようなものを感じた。クリントは確かに強い。伊達に、地下格闘技チャンピオンの座についているわけではないのだ。
一方のダニーもまた、落ち着いてクリントの動きを見ている。小刻みに両拳を振りながら、少しずつ動いていく。
両者の間合いは、少しずつ狭まっていった。
先に仕掛けたのは、クリントの方だ。鋭いジャブを放っていく。
しかし、ダニーはそのパンチを簡単に見切った。手を前に伸ばし、クリントのジャブを払いのける。と同時に、左ミドルキックを叩き込んだ。
直後、クリントの顔が僅かに歪む。普通の人間なら、この一発で致命傷を負っていたはずだ。鍛え抜かれたクリントの肉体にも、少なからずダメージを与えたようだ。
ダニーは、その隙を逃さなかった。続けざまに左ミドルキックを放つ。
だが、クリントも並みのファイターではない。続けざまのダニーのミドルキックを食らいながらも、蹴り足をキャッチしたのだ。
さらに蹴り足を両腕で抱えたまま、一気に引き倒す――
これは、レスリングにおける片足タックルと同じ形だ。クリントのパワーは凄まじく、またレスリングのテクニックに関しても卓越したものを持っていた。ダニーは抵抗すら出来ず、一瞬にして床に転がされる。
倒れたダニーに対し、馬乗りになるクリント。そのまま、ダニーめがけパンチを浴びせる――
明智は思わず舌打ちした。そもそもダニーは、立ち技主体のスタイルである。このような寝技の展開には慣れていない。しかも、今まで寝技の練習もしていないのだ。
顔をしかめ、タオルを手にする明智。いざとなったら、タオルを投げなくてはならない。
しかし、その後の展開は明智の想像を超えていた。
馬乗りのまま、パンチを放つクリント。しかし、ダニーはその腕を掴んだ。
さらにクリントの首も掴み、力任せに強引に引き寄せる。
と同時に、横殴りの右肘を振った――
ダニーの肘は、クリントの左目に命中する。
顔をしかめるクリント。同時に、彼の左目の上がパックリと開く。そこから血が流れた。
一瞬、左目をつぶるクリント。ダニーは、その隙を逃さなかった。自身の体をくねらせると同時に、両手でクリントの体を押す。
クリントはバランスを崩した。その瞬間、ダニーは地を這うような動きで下のポジションから脱出する。
と同時に、クリントの体を蹴って間合いを突き放した――
その攻防を見ていた明智は、改めてダニーという男の才能に舌を巻いた。ダニーは寝技の練習は全くやっていない。にもかかわらず、押さえ込まれた状態から、あっさりと脱出して見せたのだ。
明智は、タオルを握りしめていた手を降ろした。やはり、ダニーは天才だ。敗れることなどあり得ない。
今回も、ダニーが勝つ。
ダニーはクリントめがけ、軽く左足を上げて見せる。すると、クリントは素早く反応した。左のミドルキックをキャッチすべく構える。
だが、それはフェイントであった。左足をすぐに着地させると同時に、今度は右足が動いた。
ダニーの鞭のようにしなる右のハイキックが、クリントの顔面に向けて放たれる――
通常なら、クリントはそのハイキックを防ぐことが出来たかもしれない。しかし、クリントの左目は流血し塞がれている状態である。ダニーの、鞭のようなハイキックを見切ることなど不可能であった。
ダニーの足が、クリントの顔面を打ち抜く――
その瞬間、クリントの巨体がぐらついた。
直後、切り倒された大木のように、横倒しに倒れる……。
一方、倒れたクリントに近づいて行くダニー。
「ダニー! とどめを刺せ!」
檻の外から、明智が怒鳴った。しかし、ダニーは静かな表情でクリントを見下ろしているだけだ。
やがて、ダニーは顔を上げた。檻の中で唖然としたまま突っ立っていた、司会の男を見つめる。
一方、司会の男は口を開けたまま、ダニーとクリントを交互に見た。
だが……ややあって、ハッと我に返ったような表情でダニーの手を挙げる。
「勝者、ダニー!」
その声と同時に、一斉に騒ぎ出す観客。しかし、ダニーの表情は冷めきっていた。司会の勝利宣言を聞いた直後、さっさと檻から出て行く。
明智はタオルと水の入ったペットボトルを手に、素早くダニーのそばに近寄る。小林もまた、明智の後に続いた。
「いや、おめでとう。さすがダニーだ。あのクリントを、あんなに早く仕留めるとは……予想外だよ」
言いながら、いかにも大物ぶった態度で明智の肩を叩く石井。しかし、勝者であるはずのダニーには触れなかった。それどころか、近づこうともしない。ケロイド状の皮膚に覆われた醜い顔のダニーに対し、侮蔑の念を抱いているのは明らかだ。
明智は、ギリリと奥歯を噛みしめる。この石井にしたところで、人の顔の美醜についてどうこう言えるようなタイプではない。お世辞にも、イケメンなどと言えるような顔の持ち主ではないのに。
「いや、ダニーなら余裕ですよ。それより、約束の方はきちんとお願いしますよ。覚えてますよねえ、石井さん。忘れたなんて言ったら、殺しますよ」
冗談めいた口調で言いながらも、冷ややかな視線を向ける明智。すると、石井の表情が僅かに歪んだ。
「忘れてはいないよ。もちろん、忘れてはいない。ただ、一つ約束してくれ。神居宗一郎を怒らせるような真似だけはしないと――」
「大丈夫です。あなたに迷惑はかかりませんから」
微笑みながら、心にもないセリフを吐く明智。もちろん、石井への迷惑など知ったことではない。こんな男は、神居家に消された方がいいに決まっている。
「ダニー、大丈夫か? 少しパンチをもらってたみたいだが」
帰りの車の中で、心配そうに尋ねる明智。
「うん、大丈夫」
答えるダニーの表情は、一見すると普段通りである。しかし、油断は出来ないのだ。脳へのダメージは、後から出てくるケースも珍しくない。
「小林、明日は医者の手配を頼むぜ。ダニーを診てもらわないとな。万が一、脳にダメージがあったらまずいからな」
小林に向かって、明智は言ったつもりだった。しかし、その言葉にダニーが反応する。
「あ、兄貴……脳のダメージって、治るのか?」
「えっ?」
明智は驚き、不思議そうにダニーを見つめる。
「の、脳のダメージって、治るのかな?」
同じ質問を繰り返すダニー。明智は戸惑いながらも答える。
「あ、ああ。治ることもあるし、治らないケースもある。もっとも、俺は医者じゃないから分からんが。詳しいことは、専門の医者に聞かなきゃ分からないよ」
「うん、わかった」
返事をするダニー。何故、そんなことを聞いたのだろうか……明智は、訝しげな表情でダニーを見つめる。自身の、脳のダメージが心配なのだろうか。
しかし、続けて発せられたダニーの言葉に、明智はさらに驚いた。
「ところで兄貴、ちょっと頼みがあるんだけど」
「頼み? いったい何だよ?」
「あの……」
ダニーは、いったん言葉を止める。僅かな間、下を向きモジモジするような素振りをした。
だが、意を決したような様子で顔を上げる。
「兄貴……俺、ケータイが欲しい!」
「はあ? ケータイだとお?」
思わずすっとんきょうな声を上げる明智。すると、ダニーはビクリと反応した。怒られたとでも思ったらしい。
「えっ、ダメ?」
「い、いや……ダメってわけじゃない。ダメじゃないんだが」
そう言ったきり、頭を抱える明智。まったく想定外の言葉であった。まさか、ダニーがケータイを欲しがるとは。
「あのう、すみません……ちょっといいですか?」
不意に、小林が口を挟んできた。
「何だ」
「ケータイくらい、いいんじゃないですかね」
「んだと……お前までダニーの味方すんのか」
言いながら、明智は渋い顔をする。
「やっぱり、ダメなの?」
ふたたび尋ねるダニー。明智は迷ったものの、仕方なく頷いた。
「仕方ねえな、いいよ。ただし、気を付けろよ。変な使い方はするな」
「うん!」
答えるダニーの顔には、満面の笑みが浮かんでいる。しかし、明智は複雑な気分であった。ダニーの世界は、確実に広くなっているのだ。ケータイで、自分の知らぬ何者かと連絡を取るのだろう。
ダニーのその変化を、素直に喜べない自分がいる。明智はダニーから目を逸らし、外の風景を見つめた。




