地下格闘技
◎地下格闘技
格闘技好きな石井貞治がプロモーターを務めている。ルールは無いも同然。会員は試合を観ながら、賭けを行う。
ジムの中では、凄まじい音が響いていた。
ダニーの放つ強烈な蹴りが、サンドバッグに炸裂する。百キロを超える重いサンドバッグが、衝撃でくの字に曲がる。
さらに、ダニーはサンドバッグを蹴り続けた。そのたびに、サンドバッグは生き物であるかのような激しく跳ね回る。
やがて、ダニーはサンドバッグに組み付いた。両腕でサンドバッグを抱え、左右の膝蹴りを連続して叩きこむ。
すると、サンドバッグはまるで楽器のように、規則正しいリズムで破裂音をかき鳴らし始めた。
いつものように、激しいトレーニングに励んでいるダニー。その姿を、明智光一はベンチに座り眺めていた。
ダニーの調子は相変わらずだ。超人的な身体能力に裏打ちされた技は、一撃必倒の威力を秘めている。しかも、最近はトレーニングにも熱が入っていた。以前よりも動きも表情も溌剌としているのだ。
普通に考えれば、この変化は喜ぶべきものなのだろう。しかし、明智は微かな不安を感じていた。自分の知らない所で、ダニーは何かを経験している。その何かが、ダニーに変化をもたらしたのだ。
その何かが分からない以上、明智には手放しで喜ぶことは出来なかった。さらに彼は、ダニーのこの変化をどう捉えればよいのかも分からなかった。
密かに悩んでいる明智をよそに、ダニーはトレーニングを続けている。今度は両手にダンベルを持ち、ウエイトトレーニングを始めた。ベンチに仰向けに寝て、ダンベルを上げ下げしている。
ダニーは軽々と持ち上げているが、ダンベルは片方だけで七十キロある。常人では、片方を引きずって歩くことすら困難だろう。
そんなダンベルを、ダニーは右手と左手で一つずつ持ち、ベンチに仰向けになった状態で上げ下げしている。いわゆるダンベル・ベンチプレスだ。
一心不乱に、トレーニングを続けるダニー。明智はふと、ダニーは今なにを考えているのだろうか、などと思った。明智の知らない所で、徐々に成長しているダニー……正直に言えば不安である。また、寂しくもある。
もっとも、本来ならば……その成長は喜ぶべきことなのだろう。ダニーもまた、いつかは自立しなくてはならないはずだ。
その時、ジムの扉が開いた。小林が、慌ただしい様子で入って来る。
「明智さん、次の試合が決まりましたよ。来週だそうです」
「おいおい、そいつは急な話だな」
明智は思わず顔をしかめた。ついこの前、試合をやったばかりだというのに、あまりにも間隔が短い。
「しかし、石井はもう既に対戦相手を決めたと言ってます。会員にも伝えてある、とも言っていました。あのバカなボンボン、ダニーのことをかなり気に入ったようですね」
こちらも、顔をしかめながら報告する小林。明智は不快な表情を浮かべながら、ダニーの方を向いた。
「おいダニー、次の試合が来週に決まったぞ。お前、体の方は大丈夫か?」
明智の言葉を聞き、ダニーはトレーニングを止めて体を上げた。
「うん、大丈夫。俺、明日にも闘えるよ」
「そうか、なら良かった。まあ、あんな奴に怪我させられるほど、お前はヤワじゃないけどな」
そう言って、明智は微笑む。確かにダニーは、前回の試合でダメージらしきものは負っていない。相手を一方的に倒してみせたのだ。トレーニングの姿を見ても、普段と全く代わりはない。
試合をさせても、問題はないだろう……そんなことを考えながら、明智は小林の方を向いた。
「小林、後であのバカボンに伝えろ。ダニーは問題ない、とな。ついでに、いつになったら神居桜子を紹介してくれるのか……そこのところも聞いておいてくれよ」
「分かりました。バカボン石井に伝えておきますよ」
そう言って、小林は愉快そうに笑った。バカなボンボン、つまりはバカボンだ。石井にぴったりのあだ名である。
「返答次第では、あのバカボンを痛めつけてやるか……檻の中でな」
言いながら、明智は立ち上がった。トレーニング用のグローブをはめ、サンドバッグへと向かう。
サンドバッグの前に立ち、明智はパンチを叩き込んだ。ジャブ、ストレート、フック……自身の内に蠢いている何かに突き動かされるかのように、明智はサンドバッグを叩き続ける。
やがて明智の額に汗が浮かび、着ているシャツも汗で染まっていく。汗とともに、己の内に潜む狂気をも流し去ってしまいたい……明智は、ひたすらにサンドバッグを叩き続けた。
強烈なパンチを打ち込む明智。しかし一方で、彼は頭の中で様々な計算を巡らせていた。
次は……神居桜子をどうやって落とすか、だな。
・・・
夜の九時、ダニーは真幌公園を歩いていた。いつものように、向坂史奈に会うためだ。
その向坂は、今日もベンチに座っていた。ダニーを見つけると、笑顔で立ち上がり手を振る。
ダニーの顔にも、笑顔が浮かんだ。
「前から思ってたんだけどさ……ダニー、あんたケータイ持ってないの?」
向坂の問いに、ダニーは困ったような顔で頷いた。
「うん。俺、持ってない」
「ねえ、その兄貴さんに頼めないの?」
「わ、わからない……でも、あんまりワガママ言いたくない」
おずおずとした口調で答えるダニー。それを見た向坂は、大きなため息をついた。
「ダニー、あたしは兄貴さんて人のことはよく分からない。でも、ちょっとくらいのワガママも許さない人なの? あんただって仕事してるなら、ケータイくらい持ってもいいはずだよ」
「い、いや、兄貴はいい人だよ。それに、俺はケータイなんか持ったら壊しそうだし……」
ダニーは言い淀んだ。彼にとって、明智は絶対的な存在である。明智の悪口は言いたくないし、そもそも言えないのだ。
しかし、新しく出来た向坂という友だちの機嫌も損ねたくはない。今のダニーにとっては、どちらも大切な存在である。
一方、向坂はそんなダニーを見つめていた。
ややあって、クスリと笑う。
「まあ、いいや。無理に今すぐ、とは言わないよ。ただ、あんたもいつかは一人で生きていかなきゃならないんだよ。ケータイの使い方くらい、知っておいた方がいいと思う」
「一人、で?」
おうむ返しに言うダニーに、向坂は頷いた。
「うん。あんただって、いつまでも兄貴さんの世話になるわけにもいかないだろ?」
「そ、そうなのかな」
「そうだよ。だってさ、その兄貴さんて人が車に轢かれたり、病気になって死んだりしたら、あんたはどうするの?」
「えっ……」
ダニーは口ごもった。そういえば、明智からも前にそんなことを言われた気がする。
人はみな、いつかは死ぬのだ。明智も例外ではない。しかも、自分はこれまでに何人もの人間の死を見てきたのだ。
「俺、分からない。今までずっと、兄貴に助けられてきた。兄貴がいなくなったら、俺は何も出来ない」
「なるほど。でもね、あんたも一人で生きていかなきゃならない日が、いつか来るかもしれないんだよ。そのことは考えておいた方がいい」
そう言った後、向坂は自嘲の笑みを浮かべた。
「まあ、あたしも偉そうなことは言えないけどね。生活保護もらって暮らしてる身だから」
「セイカツホゴ?」
「うん、生活保護。あたしは事故で脳をやられてるから、働けないんだよ。だから、国からお金をもらってるんだ」
「そ、そうなのか?」
不思議そうに見つめるダニー。すると、向坂は口元を歪める。
「だってさ、あたしは人の顔が覚えられないんだよ。仕事なんか、出来るわけないじゃん」
呟くように言った向坂の顔には、悲しげな表情が浮かんでいる。
その表情を見たダニーは、いきなり彼女の手を掴んだ。
「これからは、俺が向坂を助ける。だから元気出せ」
ぶっきらぼうな口調ではあるが、その言葉の奥には暖かみが感じられた。ダニーは本気で、向坂を心配しているのだろう。向坂は苦笑し、ダニーの手を軽く握り返す。
「ありがと。でもね、一つ覚えておきな。いきなり女の子の手を握っちゃダメだよ。大抵の女の子は、ビビってドン引きするから。ただでさえ、あんた力が強いんだしね」
「えっ? あっ、ご、ごめん!」
慌てた様子で、手を引っ込めるダニー。すると、向坂はまたしても苦笑した。
「ダニー、あんたは本当にいい奴だね。でも、あんたはもう少し考えた方がいいんじゃないかな」
「えっ、何を?」
「これからの生き方だよ。あんたも、いつかは一人で生きていかなきゃならない。その時に、どうするか……」
そう言いかけて、不意に向坂は口をつぐんだ。
「えっ、どうしたんだ?」
ダニーが尋ねると、向坂は首を振った。
「いや、あたしだって一人で生きてるわけじゃない。国の世話になって生きてる身分なんだよ。なのに、あんたに偉そうなこと言うなんて間違ってるよね」
「そんなこと、ない。向坂は凄い。いろんなこと知ってる。それに、誰かに助けてもらうの、悪いことじゃないと思う」
ダニーはそこで言葉を止めた。真剣な面持ちで、向坂を見つめる。
「誰かに助けられたら、その分ほかの誰かを助ければいい。向坂には、それが出来る。俺は、向坂に助けられてる。だから、俺も向坂を助けるよ」




