神居桜子
◎神居桜子
白土市を支配する神居家の末娘。
地下格闘技の会場には、今日も大勢の人間が入っていた。大勢とはいっても、全部で二十人ほどではあるが。全員の視線は、会場の中央に設置された檻の方に向けられている。
檻の中には、二人の男がいた。
一人は、背が高く筋肉質の黒人である。ただ大きいだけでなく、手足が長く均整のとれた体つきだ。黒人はリズミカルに体のあちこちを動かしながら、じっと対戦相手の入って来るのを待っている。
もう一人は、スーツ姿の背の低い男である。オールバックの髪型にサングラスをかけ、片手にはマイクを持っていた。彼は、司会でありレフェリーでもある。もっとも、ここでの闘いにルールなど、有って無きが如しものだが。
その檻の中に、ダニーが入って行った。
ダニーが檻の中に入ると、観客たちの口から驚きの声が上がる。だが、それも当然だろう。体にピッタリと貼り付いた長袖のラッシュガードのシャツを着て、顔にはプロレスラーのような覆面を被っている。観客としても、判断に困っているのだろう。
すると、サングラスをかけた男がマイクを握り、観客に向けて語りだした。
「ええー、皆さん。こちらにいるダニーはですね、生まれた直後に病気にかかりまして、二目と見られぬ醜い顔の持ち主なのです。したがって、皆さんに不快な思いをさせないため、あえて覆面を被せております。このまま試合を開始しますので、皆さんにはご了承の程をよろしくお願いします――」
「ちょっと待ってくださいよ。それ、おかしくないですか?」
不意に、観客の中から声が上がる。同時に、一人の男が前に進み出て来た。明智らよりは歳上だが、それでも三十代前半といった雰囲気だ。地味なスーツ姿で一見すると平凡な印象ではあるが、その瞳には冷酷な光が宿っている。
明智は、その男を睨みつけた。いったい何を言うつもりなのだろう?
「この試合は納得いかないですね。彼が何者であるか、観客である我々には分からないというのは、ちょっと不公平ではないのですか?」
男はなおも言い続ける。明智は憤然とした表情で、男のそばにつかつかと近寄って行った。
男のすぐ前に立ち、睨みつける明智。だが、男は怯まない。落ち着いた表情で、明智に会釈する。
「おや、確かあなたは明智光一さんでしたね。噂は聞いてますよ。最近、えらく評判になってますね。で、何か用ですか?」
「おい、さっきからゴチャゴチャうるせえんだよ。あんた、なんか文句でもあるのか?」
鋭い声を発しながら、男に詰め寄って行く明智。その時、小林が二人の間に割って入った。
「ちょっと明智さん、押さえてください」
言いながら、小林は男に視線を移す。
「西村さん、あなた何しに来たんですか?」
小林の声は、かすかに震えていた。それに対し、男はニコリと笑う。
「久しぶりだな、小林くん。君もえらく出世したようだね。ところで、君の質問だが……俺はただ、試合を観に来ただけだよ。プロレスじゃあるまいし、あんな覆面ファイターなんか認められないな」
そう言うと、西村と呼ばれた男は他の観客たちの方を向く。
「そうは思いませんか、皆さん。せっかく試合を観に来たというのに、どこの何者かも判別のつかない者が闘う……これはどうでしょうね?」
言いながら、西村は大げさに両腕を挙げ、肩をすくめて見せる。
そんな西村の動きに感化されたかのように、他の観客たちもざわめきだした。だが、それも当然だろう。この試合は、賭けの対象になっている。しかも、その額は決して小さくはない。
大金を賭けている以上、そこには不正はあってはならない。だが、覆面を被ったファイターというのは、いくらでも替えが利く。前回と今回とで違うファイターが入っていたとしても、チェックのしようがない。
明智は顔を歪めた。プロモーターの石井のそばに音もなく移動し、彼に素早く耳打ちする。すると、石井は頷いた。
その反応を確認すると、明智はすぐさま檻に近づいて行く。
「ダニー、覆面を外せ」
その声を聞き、ダニーはゆっくりとした動作で覆面を脱いだ。
ケロイド状の皮膚に覆われた、醜い顔が露になる。
その途端、観客たちの口から一斉に声が洩れる。驚きと嫌悪に満ちた声だ。さらに、観客たちの視線がダニーの顔に集中する。
しかし、石井は意に介さず司会の男に目配せする。司会の男は頷き、再びマイクを握る。
「ええー、ただいまダニーのマネージャーである明智氏より申し出がありました。皆さまへの配慮として、ダニーに覆面を被せていましたが、公平さに欠けるとお思いになる方がいるようですので、覆面は外して闘うこととなりました」
司会の言葉に、観客は微かにざわつく。だが、司会はさらに喋り続けた。
「では、そろそろベットの方を締め切らせていただきます。新人のダニー、もしくは元ヘビー級ボクサーのバリニコフ……勝利すると思われる方に、是非とも賭けてみてください」
やがて、賭けは締め切られた。檻の中では、ダニーとバリニコフが向かい合っている。バリニコフは興奮剤でもやっているのだろうか、ギラついた目でダニーを睨みつけている。身長はダニーより高く、体重もダニーを上回るだろう。
一方、ダニーは落ち着き払っていた。冷静な表情で、じっと対戦相手を見つめている。怯えているわけでも、侮っているわけでもない。
その表情を見た明智は確信した。いつも通りだ。
ダニーは勝つ。
「ファイト!」
司会の声と同時に、試合は始まった。
だが、試合は一瞬にして終わった。
開始直後にダニーの放った一発のローキックが、バリニコフの左脚に炸裂する。その途端、バリニコフの表情が一変した。ダニーの超人的な強さを理解したのだ。
しかし、ダニーは追撃の手を緩めない。続いて、鞭のようにしなるミドルキックがバリニコフを襲う。バリニコフはとっさに、ダニーのミドルキックを腕でブロックした。
だが、その瞬間……バリニコフの顔が苦痛で歪む。ダニーのミドルキックは、生半可な防御で防ぎきれるものではないのだ。たった一発の蹴りで、バリニコフの腕がジーンと痺れる。あまりに強すぎる威力のため、痛みより先に恐怖を感じた。
このままでは、腕を壊される……バリニコフは奥歯を噛みしめた。
直後、凄まじい勢いで前進し、小刻みなジャブを突いていく。ダニーの蹴りの威力は凄まじい。受けに回っていたら、あっという間に壊されてしまう。その前に、相討ち覚悟のパンチで倒すしかない。
バリニコフはジャブを突きながら、強烈な右の一撃を放つ――
しかし、ダニーは下がらない。それどころか、逆にこちらから間合いを詰めていく。バリニコフの一撃必倒の右ストレートを躱すと同時に、彼の頭を両手で抱える。
次の瞬間、飛び上がるような膝蹴りを放つ――
ダニーの膝は、バリニコフの顔面を打ち抜いた。
直後、バリニコフはゆっくりと崩れ落ちていった。
しんと静まり返る場内。あまりに早い決着と、ダニーの圧倒的な強さに、ほとんどの観客は呑まれていたのだ。皆、どう反応すればいいのか分かっていないのだ。
だが、その静寂を破る者がいた。
「いやあ、実に見事だ! さすが、明智さん推薦のファイターだけのことはある。凄い凄い」
言いながら、拍手をしている者がいる。先ほどダニーに難癖を付けた、西村という男だ。
明智は今にも殴りかかりそうな表情で、西村を睨み付ける。だが、西村は意に介さず、といった様子だ。ニコニコしながら近づいて来た。
「明智さん、大したものですね。あれほどのファイターを見たのは初めてですよ――」
「なあ、そんなに気に入ったなら、次はあんた自身が闘ってみたらどうだ?」
クールな明智にしては珍しく、鋭い形相で詰め寄っていく。だが、西村も負けてはいない。平静な表情で、敵意に満ちた明智の視線を受け止めている。
二人の間に、異様な空気が流れた……だが、またしても小林が割って入る。
「明智さん、そんなことしてる場合じゃないですよ。ダニーのそばに行ってあげてください」
言いながら、小林は腕を掴み引っ張っていく。明智は西村をひとにらみすると、くるりと背を向け去って行った。
檻から出てきたダニーは、普段と同じ平静な様子である。息も切らせていないし、汗もかいていない。彼にとって、今の闘いはウォームアップでさえないのだろう。
「ダニー、よくやった」
先ほどとはうって変わって、優しい表情で迎える明智。それに対し、ダニーも嬉しそうに微笑んだ。
「うん。兄貴のためなら、俺は誰とでも闘う」
「そうか。じゃあ、引き上げるとしようぜ」
そう言うと、明智は拳を握り、ダニーの胸を軽く突いた。
「ところで小林、さっきの西村ってのは何者だ?」
帰りの車の中、明智は小林に尋ねた。
「えっ、ああ……あいつは西村陽一です。裏の世界じゃ、ちょっとは知られた男と聞いてますね」
小林の態度はおかしかった。普段とは違い、奥歯にものが挟まったかのような返事である。
「西村陽一? 聞いたことの無い名前だな。それにしても、ふざけた野郎だったぜ……あいつの頭を叩き割ってやりてえよ」
「まあ、世のため人のためになることは一つもしない男ですからね。関わらない方がいいですよ」
やはり、小林の口調はどこかぎこちない。何かを隠している。
「おい小林、お前は西村と知り合いなのか?」
明智が尋ねると、小林はビクッとなった。顔には、狼狽しているような表情が浮かんでいる。実に分かりやすい男だ。
「い、いや、知り合いってほどでも無いんです。ただ、昔いろいろとありましたんで――」
「いろいろって何だ?」
なおも尋ねる明智。すると、小林は押し黙ってしまった。言いたくない何かが、小林と西村の間にあるらしい。
明智の眉間に皺が寄る。彼は質問を続けようとした。俺にも言えないようなことなのか、と……しかし、明智はすぐに思いとどまった。ダニーと同じく、小林にも言いたくないことの一つや二つはあるだろう。
それに、あの西村が敵に回るなら潰せばいいだけの話だ。今は、今後の展開について考えなくてはならない。明智は、ダニーへと視線を移す。
「ダニー、今日は楽勝だったな。次も頼むぞ」
「うん、分かった」
答えるダニーの表情は、朗らかなものだった。




