神居家
◎神居家
白土市において、絶大なる権力を持つ名家。その当主は、白土市の影の支配者である。
都内の某所では、月に一度、秘密のイベントが行われている。ごく限られた人間のみが開催を知らされ、参加を許される。参加と言っても、直接なにかをする訳ではない。ビルの地下二階に集まり、めいめい好きなものを飲み食いしながら、血みどろの男たちの闘いを観戦するのだ。さらに、どちらが勝つかを予想し、大金を賭けることも可能である。
その闘いは凄まじいものだ。巨大な檻の中で、二人の男が素手で殴りあう……しかも、その闘いにルールと呼べるものは無いに等しい。血が流れるのは当たり前。顔面が陥没したり、半身不随になることも珍しくない。死者が出ることもある。
にもかかわらず、この闘いを見る者は少なくなかった。彼らはいわゆる「勝ち組」に属する人間である。通常の娯楽など、とうの昔に飽きている。しかも、彼らは暴力や流血に対する嫌悪感がまるで無い。人の死さえも、ゲームの中の一要素として捉えることが可能な神経の持ち主なのだ。
そんな血なまぐさいイベントを開催しているのが、石井貞治であった。
「あんたが明智さんか。噂は聞いてるよ。よろしく」
いかにも自信たっぷりの態度で、石井は明智に挨拶した。ブランド物のスーツで小太りの体を包んだ姿は、どこかの国の将軍様のようである。実際、顔つきや佇まいもどことなく似ている。
もっとも、この男は裏の世界にも顔が利く。いざとなれば、銀星会や士想会といったヤクザ連中を動かすことも可能なのだ。そこらのチンピラでは、石井には手出し出来ない。
「はじめまして、明智光一です」
穏やかな表情で挨拶をする明智。だが内心では、石井の呆れるほどの俗物ぶりに嫌気がさしていた。目の前にいるのは、典型的な金持ちのボンボンだ。
いや、正確には成金のボンボンと言うべきか。本当の金持ちという人種は、しっかりした人格の持ち主であるケースが少なくない。衣食足りて礼節を知る、という言葉があるが、あれは正しいのだ。
少なくとも、明智は貧しさゆえに、自分の子供すら売り飛ばす人間を何人も見てきている。本物の貧しさは、ただただ人間を醜くするだけだ。
今、明智の目の前にいる石井は、自身の子供すら売り飛ばす人間と共通する匂いを発している。正直に言えば、今すぐにでも殴り倒してやりたい気分だ。明智にとって、好きになれないタイプの人間であることは間違いない。
もっとも、石井には使い途がある。したがって、いま殴り倒すわけにはいかないのだ。
そんなことを考えている明智の傍らには、小林が立っていた。いつもと同じく、黒ぶちメガネをかけスーツを着ている。
「明智さん、すまないが話は試合が終わってからだ。商売の話は、それからにしてくれ」
いかにも大物ぶった口調で言うと、石井は広間の中央に設置されている檻に視線を移す。
その中では、二人の男が睨み合っていた。片方は全身にタトゥーの入った大柄な外国人、もう一方は鼻の曲がった日本人だ。どちらも厳つい体格であり、腕は丸太のような太さである。両者ともに上半身は裸で、トランクスのようなものを履いているだけだ。
檻の周囲には、二十人ほどの男女がいる。全員、年齢も服装もバラバラだ。ただし、その顔つきにはどこか共通する部分がある。
そんな彼らは檻の中を見つめながら、にこやかな表情を浮かべていた。時おり、隣にいる者と言葉を交わしたりもしている。
やがて、サングラスをかけスーツを着た小柄な男が進み出てきた。大広間の中央部分に立ち、マイクを片手に、皆に呼び掛ける。
「ベットの受付は終了しました。では、試合を開始します」
サングラスの男は、いったん言葉を止めた。
観衆を見回した後、凄まじい形相で叫ぶ。
「ファイト!」
その言葉と同時に、日本人の男が仕掛ける。拳をブンブン振り回しながら、凄まじい勢いで前進していく――
だが次の瞬間、外国人が下がりながら放ったカウンターパンチが顎に入った。その瞬間、日本人は膝から崩れ落ちる。
すると、外国人が攻勢に転じた。倒れた日本人に馬乗りになり、顔面に肘を打ち付けていく――
一瞬にして、日本人の顔は血に染まっていった。だが、外国人は止まらない。既に意識を失っている日本人に、なおも肘を打ち付けていく。同時に、試合終了を告げるゴングが鳴らされた。
返り血を浴びた外国人が、檻の中で雄叫びを上げて勝利をアピールする。一方、檻の外から歓声を上げる観客たち――
その様子を、明智は冷酷な表情で眺めていた。
「どうだい、明智さん。こんな凄い闘いは、今まで見たことが無いだろう」
いかにも得意気な表情で、石井は言った。その口振りからも、自身への賞賛の言葉を期待しているであろうことは伝わって来た。
だが、明智は薄笑いを浮かべて首を振る。
「うーん……申し訳ないですが、ちょっとレベルが低すぎますね。あの程度の選手しかいないのでしたら、お話になりませんな」
言いながら、呆れたように肩をすぼめる明智。すると、石井の表情が僅かに歪んだ。
「ま、まあ確かに、いま闘った選手のレベルは低いよ。ただ、もっと強い奴もいるからさ――」
「まあ、うちのダニーの相手じゃないでしょうね」
なおも薄笑いを浮かべながら、言い切った明智。すると、石井の表情は一気に険しくなった。
「あのねえ、君のところにいるようなケンカ自慢と、一緒にしてもらっては困るんだよ。今、闘った二人だって、元はプロの格闘家だった。ケンカ自慢のチンピラが相手なら、秒殺できるくらいの腕はある」
「秒殺? うちのダニーなら、二人まとめて片づけてましたよ」
小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべながらの明智の言葉に、さすがの石井も憤然とした表情になった。
「なるほど、そこまで言うなら証明してもらおうか。そのダニーとやらに、ここで闘ってもらうよ。ただし負けたら、君には大口を叩いた報いを受けてもらうがね」
顔を真っ赤にしながらも、まだ取り繕った口調で話す石井。本当は明智のことを口汚く罵りたいのだろうが、周囲の目と彼の小さなプライドが、それを許さないのだ。肩を震わせ、拳を握りしめてはいるが、何とか余裕ある態度を保ってはいる。
明智は口元を歪めた。この石井という男は、頭のてっぺんから爪先まで、どこを見ても好きにはなれないタイプだ。自分で殴り合う度胸もないくせに、人の殴り合いに対しては、したり顔で講釈を垂れたりする。
出来ることなら、明智はこの男と共に檻の中に入り、闘いたい気分である。観客の見ている前で、この男の顔面を陥没させてやりたい。
もっとも、石井にはまだ利用価値がある。そのカードを実現させるわけにもいかないが。
「構いませんよ。念のため聞いておきますが、相手を殺しても問題ないんですよね?」
「あ、ああ」
「だったら、対戦相手にぴったりのサイズの棺桶を用意しておいてください。あと、葬儀屋の手配もお忘れなく」
そう言って、明智は爽やかな笑みを浮かべた。すると、石井の表情が歪む。
「ほう、そこまで言うのなら……もし、そのダニー氏が負けたら、君自身はどんなペナルティを背負うんだい?」
そう言って、明智を睨み付ける石井。その目には、怒りと憎しみの感情が浮かんでいた。
「ペナルティー、ですか……構いませんよ。あなたのおっしゃる通りにしましょう」
「だったら君に、とある男の相手をしてもらおうか。百二十キロの巨漢で、君のような美青年に目が無いんだよ。今さら、嫌とは言わないだろうね?」
そう言って、石井は下卑た笑みを浮かべた。
「明智さん、あんなこと言って大丈夫なんですか?」
帰りの車の中で、心配そうに尋ねる小林。その問いに対し、明智は眉間に皺を寄せた。
「おい小林、ダニーが負けるとでも言いたいのか?」
「い、いえ、別にそう言うわけでは……」
「だったら、ふざけたことを言うな。俺はな、ああいう奴が大嫌いなんだよ」
吐き捨てるような口調で、明智は言った。あの石井は、本当に不快な男だった。金持ちのボンボンらしいが、その中身はただのクズだ。人と人とを殺し合わせ、したり顔で微笑んでいるが……自分の手を汚す度胸はない。もし奴が檻の中に入れば、あまりの恐怖に腰が抜け、立ち上がることすら出来ないだろう。
「まあ、俺もあの手の人間は嫌いですから、明智さんの気持ちは分かります。上でふんぞり返って、下の人間に汚れ仕事をやらせるような奴は……殺してやりたいですね」
一方、小林は淡々とした口調で語る。その目には、冷たい光が宿っていた。
しかし、すぐに表情が変わる。
「ところで、ダニーは今どうしてるんです?」
「ダニーは……何してんだろうな。あいつは最近、俺に隠し事をするようになったんだよ。いったい何を隠しているのやら」
複雑な表情で答える明智。すると、小林はクスリと笑った。
「そりゃあ、隠し事の一つや二つ、あって当然でしょう。むしろ、無い方がおかしいですよ」
「そりゃそうだが……」
言いながら、明智は窓の外に視線を移す。外は既に暗くなっており、学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマンたちの姿がちらほら見える。中には数人で、楽しそうに会話をしながら歩いている者たちもいた。
思いおこせば……明智にも、あんな風に友人たちと語り合いながら道を歩いた時期があったのだ。もっとも、明智は懐かしんでいるわけではない。むしろ、本当に時間の無駄であったと思っている。
学生時代、友と過ごした時間。それは、明智に何も与えてはくれなかった。
いや、一つだけ得た物がある。自分は狂っているという事実を再確認したことだ。
そんな過去の出来事に思いを馳せていた明智。だが、その時に一つの疑問が浮かんだ。
「なあ小林、お前に一つ聞きたいんだが」
「何です?」
「お前、ダニーと初めて会った時……あいつのツラ見ても、表情一つ変えなかったよな。何でだ?」
「さあ、なんででしょうねえ。自分でも分かりませんよ」
かつて、小林と初めて会った時のことだ。明智は、ダニーに言った。
「ダニー、サングラスとマスクを取れ」
すると、ダニーは言われた通りにした。サングラスとマスクを取り、素顔を晒す。
ケロイド状の皮膚に覆われた、醜い顔が露になった――
しかし、小林は表情一つ変えない。平静な顔つきで、じっとダニーを見つめている。
明智は、思わず眉間に皺を寄せていた。それは怒りからではなく、意外だったからである。今まで、ダニーの顔を見ても平静でいられた者はいなかった。どんな強面の男だろうと、ダニーの顔を一目見た瞬間、表情のどこかが変化する。
しかし、小林の表情は変わらなかった。一見すると、黒ぶちメガネを掛けた若手サラリーマンにしか見えない小林。しかし、見た目と違い大した度胸だ。伊達に三人を殺してはいない。
不意に、明智は笑みを浮かべた。
「お前、気に入ったよ。合格だ」
「なあ小林。ダニーの顔を見てビビらなかったのは、お前と桑原徳馬くらいのもんだ。だから、お前を使う気になったんだよ」
明智のその言葉に、小林は笑みを浮かべた。
「そうでしたか。それは光栄ですね」
「よくいうぜ……だったら、光栄ついでに一つ頼まれてくれ」
「どうぞ、何なりと」
軽い調子で答える小林。
「俺にもしものことがあったら、ダニーのことを頼むぜ」
「……構いませんよ。ただ、そういう死亡フラグみたいなのは無しにしましょうよ。あなたに死なれると、俺もダニーも困るんですから」
小林の口調は冗談めいていたが、その表情は暗かった。




