マーチン=クレイヴの場合
「マーチン=クレイヴの場合」
マーチン=クレイヴが朝の八時半に彼女と待ち合わせるとき、彼は愛用の道を使う。
朝の五時半、ツグミの声で目を覚まし、シャワーを浴びる。
夜の間の汚れが冷たい水と共に流れ落ち、脳みそに絡み付く夢の名残も流してしまう。
夢の惜しみ方を考えるころには、何を夢見ていたのか忘れてしまう。
家の中をけたたましく飛び回るツグミ。
舌打ちするマーチン=クレイヴ。
六時にゆで卵を食べる。朝の飲み食いは豚の元だと母は言った。
彼はそれに従わず、ブラックコーヒーでゆで卵を胃へと流し込む。
鏡を覗き、ブラシで濡れた髪を整える。
けたたましく泣き叫ぶツグミ。
何を主張したいのか、マーチン=クレイヴには分からない。
マーチン=クレイヴはドライヤーを使わない。濡れた髪にツグミの羽根か絡み付き、彼の頭はツグミの巣と化す。
オーデコロンは火事現場でくすぶるワラの枯れた匂い。
首の回りにたっぷりとつけ、濡れた手をシャツの裾になすり付ける。
六時半でマーチン=クレイヴの朝の準備は完了する。
彼はお気に入りのストライプのネクタイを絞め、ジャケットを羽織る。
ペパーミント色のネクタイ。ダークグリーンのジャケット。
靴はエナメルで、ぴかぴかに磨き立てた。昨夜おそくまで磨いたのだ。
マーチン=クレイヴは腕時計を確かめる。
左腕に光る腕時計の針は、短針が七、長針が三を指している。
マーチン=クレイヴはあわてて、家を飛び出していく。
朝の八時半はマーチン=クレイヴを待ちはしない。または待ち人の彼女はマーチン=クレイヴを待たせはしない。彼女は八時半きっかりに来て、一秒の遅れも許しはしないだけだ。
ソックスが裏表逆であることに気付いたのは、家を出てから十五分後。
池のほとりのベンチに座り、急いではきかえる。
ソックスの色は白だ。エナメルの靴墨がつかないように気を遣い、ソックス型の布のブーツを履く。そうするとソックスはそれに守られて、マーチン=クレイヴのソックスを汚さない。
池のカエルが横につぶれた細い瞳を動かし、マーチン=クレイヴに言う。
「だれのために生きているんだか……君に分かることと言ったら、何かするだけだ、そういうことだろ?」
マーチン=クレイヴはカエルの言うことに耳を傾ける。
「何をするか、だれかに何をするかなのだろう? 私には分からないが、昨日妹がおやじのパイプをへし折った。肺病の元を断ったというわけだ。これはいいことだが、妹はおやじに勘当されてしまって、いまは伯母の家にいる。妹はおやじのためにパイプをへし折った。しかし、結果は最悪だったというわけさ」
マーチン=クレイヴは左腕の時計を見た。
七時四十五分。
マーチン=クレイヴは血の気が引いた。
朝の八時半に間に合うバスは七時四十五分にくる。そのバス停にいくまでに十分はかかる。走らなければ。
引き留めるカエルの好意を断って、マーチン=クレイヴは駆け出した。
カケスが大声でまくし立てる。
「よう、どこへ行こうってんだ、急いでも何も変わらないし、変えられないんだぜ?」
「確かにそのとおりかもしれないが、彼がなぜ、無意味に向かって急いでいるのか、わけがわからないな」
「相棒、この男が無事に目的が遂行できるか見ていようぜ」
カケスはばさばさと飛んでいった。
マーチン=クレイヴは胸ポケットからクシを取り出し、濡れた髪をすき、柔らかな羽毛をより分けた。
マーチン=クレイヴは急ぎ過ぎている。
岩が叫ぶ。
「アウチ! 俺の頭をこづくな、いたい目に合わせるぜ。これで五百回目だ、何度叫べば俺の言ってることが分かってもらえるんだ、いったい!」 マーチン=クレイヴは「失敬」と小声でつぶやくと、岩を蹴って、小川を乗り越えた。
「アウチ! 俺の頭は飛び石じゃないんだ!」
背中から追うようにして岩の声が聞こえた。
けれど、マーチン=クレイヴは七時四十五分のバスに間に合うように懸命に走っていく。
マーチン=クレイヴは音と共に走り、音を逆上り、時間がのろのろと逆行し始める。マーチン=クレイヴは光の早さを越えていく。
彼が結局バス停についたのは、朝の六時半だった。
舌打ちするマーチン=クレイヴ。走り過ぎたんじゃないのか?
停留所に一本で立ち続ける看板がいった。
「大丈夫。バスはもうすぐくるのさ、あちらも走り過ぎているからね」
マーチン=クレイヴは待ち合わせに遅れたことがない。
待ち人の彼女はマーチン=クレイヴを待ったことがない。
たとえ、八時半を一秒遅れることが許せないのだとしても。