始まりの文字
いつも通りの1日だった。
代わり映えのない1日だったとも言えるし、平穏な1日だったとも言える。
山下祭は1日の疲れ(と言っても勉強疲れだが)をとるために早めにシャワーを浴び、毎日の楽しみであるネットサーフィンをしようとパソコンの電源をつけた。年季の入った相棒の起動は年々遅くなりつつあった。しかし、起動は遅くとも問題なく使用できたため、買い替えまでには至らなかった。
髪を乾かし終え、温かいコーヒーを片手に戻ると、珍しくまだ起動の途中だった。
ぼうっとディスプレイを眺めていると、いつも通りの表示がされ、インターネットマークを押そうとした。その瞬間、画面が暗くなった。
「嘘!?壊れたん!?」
真っ暗なディスプレイに慌て始める。そろそろ壊れてもおかしくないと思っていたが、あまりにも急すぎた。
もう一度電源ボタンを押してみたが、反応はない。
「最悪や…」
ため息を吐き肩を落とす。
こうなってしまうとどうしようもない。
まだ温かいコーヒーを一口飲み、油断すれば吐いてしまいそうなため息をグッと飲み込む。
毎日の楽しみが一瞬にして奪われてしまった。
「明日、電気屋に行かなあかんなあ…」
突然の出費に頭が痛い。それでなくても寒い懐がもっと寒くなってしまう。学生のアルバイトでの稼ぎなどしれている。
しかしながら、大学生にとってパソコンは必要不可欠な物であるため、買う他ないのだ。幸いなことにレポートや論文は全てUSBに写していた為、学業的被害は少ない。しかし、お気に入りの動画や小説、漫画の情報が全て消えてしまった。一から探さなければいけないかと思うと、祭は軽く泣きそうになった。
少し恨みがましくパソコンを見つめる。
ディスプレイは真っ暗なままだった。見つめたところで何かが変わるわけでもないと、視線をディスプレイから窓へと移す。屋外と屋内の気温差が大きいのが、窓に水滴がついていた。
カーテンを閉めようと、椅子から立ち上がり近づくと、窓にうっすらと写った祭の後ろで、真っ暗なディスプレイが一瞬光った。
「何?」
カーテンをサッと閉め、パソコンに近づく。
真っ暗にはかわりないのだが、その真っ暗なディスプレイの中央に白い文字がタイピングされていた。
夢か何かなのではないかと頭を振ってみたが、文字は確実に表示されている。
「何これ…」
現実に起きているとは思いにくい現象に祭は焦った。と同時に恐怖を感じていた。
【運命の時がやってきました】
【貴方は本当のアナタに戻ります】
意味の分からない言葉の下に示された秒数。カウントダウンのようで一秒ずつ減っていく。慌ててマウスを持ち、クリックしてみたが、減っていく時間は止まらない。
最後の一秒が終わった瞬間、祭はギュッと目を閉じた。コンピューターウイルスが感染するだけかもしれないと、現実に起こり得てもおかしくないことを冷静に考える。しかし冷静を保とうとする祭の意思に反し、心臓の音は、徐々に速まっていく。
有り得ない話だ。だけど、本当に何かが起こってしまったら?
心臓がバクバクと五月蝿かった。握りしめた手には冷や汗が滲んだ。
ゆっくりと目を開ける。0秒と確かに表示されていた筈の場所には何も写し出されていなかった。そして、特に何かが変わった様子もなかった。
「なんだ、ただのバグか…」
まだ早鐘のように打ち続ける心臓を深呼吸で落ち着けながら、呟いた瞬間、ディスプレイに再び文字が浮かぶ。
【さあ、行きましょう】
「え、嘘…」
手がパソコンのディスプレイから伸びてくる。細いその手はしっかりと祭の肩を掴み、離さなかった。慌てて振りほどこうとした時には既に祭りの左腕がディスプレイに引き込まれたあとだった。
暴れようが、肩を掴む腕を叩こうが、パソコンの乗った机を必死に掴もうが、祭の体はディスプレイの中に引き込まれていく。ゆっくりと、確実に。
まるで蟻地獄にでもはまったようだと、少し残る冷静な頭で考えていた。決してそこから逃れることが出来ない。そういった意味では、祭の考えは的を射ていた。
引き込まれまいと足掻いていた右腕が、最後にゆっくりとディスプレイの中に消えていく。
祭は叫び声を上げることも出来ず、静かに2年半暮らした部屋から姿を消した。
残されたパソコンのディスプレイに文字が浮かぶ。
【準備は完了しました】
【物語は始まります】
と…。




