一冊だけ売れた。そして誰もいなくなった。
午前0時。新人作家・玲は、自室でノートPCの画面を凝視していた。
心血を注いだ初めての電子書籍『世界が終わる夜に、もう一度君の名前を呼ぶ』の発売時刻だ。
更新ボタンを押す。
【本日付の販売数:0】
「……まあ、そんなすぐ売れるわけないよな」
強がりつつも、指は止まらない。更新。更新。更新。画面の時計が午前0時7分を指したとき、
最後に一度だけ、と更新ボタンを押す。
【本日付の販売数:1】
玲の動きが完全に止まった。
「…………売れた」
数秒後、脳内にアドレナリンが噴き出す。
「売れたあああああっ!!」
深夜のアパートであることを思い出し、慌てて両手で口を押さえる。たった一冊。
けれど、昨日まで世界になかった自分の本を、知らない誰かがお金を払って選んでくれた。
胸を熱くしながら、玲はポツリと呟いた。
「…………誰?」
購入者の名前も顔も分からない。玲は勝手にその人物を「第一号さん」と呼び始めた。
「きっと本好きの、落ち着いた人なんだろうな」
目を閉じると、脳内にうっすらと人影が現れる。黒髪、長身、知的な顔立ち。
「もうちょっと雰囲気が欲しいな」
玲の注文通り、男は豪華な貴族風の衣装に変わり、背景には夕暮れの大樹が現れた。
風が吹き、長い髪がなびく。玲は腕を組み、真剣に考えた。
「…………薔薇は必要か?」
少し考え、パチンと指を鳴らす。
「……必要だ」
唇に真紅の薔薇をくわえた【第一号さん(通常版)】の完成である。
もちろん、本当の購入者がこんな人物だという根拠は一ミリもない。
翌朝。【販売数:1】
「まあ、朝だしな」
昼。【販売数:1】
「みんな仕事中だしな」
夜。【販売数:1】
それなのに玲の頭の中では、第一号さんの生活だけがどんどん豪華になっていく。
大書斎、アンティークの机、高級な紅茶、白猫、神秘的な月明かり。
「――いや待て。普通に実家の布団の中で、スマホ読んでた可能性もあるぞ」
セルフツッコミを入れた瞬間、脳内の豪邸が一瞬で消え去り、煎餅布団に寝転がってスマホを見る薔薇男が現れた。玲は激しく首を振る。
「…………夢がない。戻そう」
指を鳴らすと、一瞬で豪邸が復活した。
販売数が動かない寂しさから、玲は頭の中の第一号さんに話しかけてみた。
「どうして僕の本を買ってくれたの?」
すると、薔薇男が優雅に微笑んだ。
『表紙が目に入ったからだ』
「…………今、喋った?」
『君が頭の中で喋らせたんだろう。作者は君だ』
とうとう妄想が会話を始めた。玲は作家としてのロマンを求める。
「いや、そこは『タイトルを見た瞬間、運命を感じて――』とか言ってよ!」
『試し読みして、暇つぶしに良さそうだっただけでは?』
「もっとロマンのある理由を考えてよ!」
『君の妄想だろう』
「そうだけど!」
ある日、販売ページを確認した玲は我が目を疑った。
【日間ランキング:1位】
「一位ぃぃぃぃっ!?」
歓喜して詳細データを開く。
【販売数:1】
ランキングを見る。
【1位】
「……販売数一冊で一位になれるの?」
玲はもう一度、販売数を確認した。
【1】
「…………どういう世界なんだ、ここは」
玲は「一位」と「一冊」を交互に見つめた。喜んでいいのか、よく分からなくなってきた。
そして、この妙な興奮に呼応するように、脳内の第一号さんにも異変が起こる。
昨日までの第一号さんは、大樹の下で薔薇をくわえているだけだった。
ところが、玲が「日間1位」を手にした瞬間――脳内の第一号さんが、見たこともない笑顔を浮かべた。
しかも、背景がまばゆく輝き始める。虹色のプリズム。大量のスポットライト。舞い散る花びら。
玲は真顔で見つめた。
「…………待って。なんで急に満面の笑みになってるの?」
第一号さんは自信に満ちたロイヤルな微笑みを崩さない。
「しかも、なんでそんなに発光してるの。まぶしいよ」
現実の販売数は「1」のままだ。
「販売数は増えてないのに、そっちのレア度だけ上がってない?」
玲は目を細めた。
「……なんで光ってるの。これ、完全にSSRの演出じゃないか……」
最高レアになった第一号さんは何も答えず、ただ物理的に「レア」に進化していた。
気分転換に、玲は以前立ち寄った『ひより食堂』へと向かった。店の近くには、見事な枝ぶりの大きな木がある。
玲には見えていないが、店先では小さな精霊・カツ葉がいつものようにふわふわと漂っていた。
玲は大樹を眺めながら、また頭の中の最高レア第一号さんを考えていた。
大樹、薔薇、笑顔、プリズムのキラキラ。
――その瞬間。
現実の大樹の葉が、ふわりと大きく揺れた。
「…………っ!?」
ひより食堂の店先で、カツ葉がガタガタと震えながら大樹の根元を指差した。
「な、なんでござるか、あの歌舞伎のような男は……っ!?」
「え?」
看板娘のみそらと店主のひよりには、カツ葉が何に驚いているのか分からない。もちろん、玲にはその声すら聞こえない。
玲が歩き去ると同時に、大樹の根元に一瞬だけ揺らめいた虹色の幻影は消え、ただ風に揺れる葉の音だけが残った。
帰宅後。玲は脳内で発光している最高レア第一号さんを眺めながら、ふと気づいた。
「…………待てよ」
薔薇男がこちらを見る。
「第一号さんが男だと、誰が決めた?」
しん、と静寂が訪れた。
次の瞬間、薔薇男の背後から、もう一人の人影が現れた。
長い髪。豪華なドレス。宝石。金の装飾。虹色の光。
そして当然のように、その美女も真紅の薔薇をくわえている。
男と女。背中合わせ。薔薇が二本。
玲は頭を抱えた。
「……なんで人数と豪華さまで増えるの?」
玲はしばらく二人を眺めた。
「というか……なんで二人とも薔薇くわえてるの?」
男性かもしれない。女性かもしれない。若いかもしれないし、年配かもしれない。
自分は、第一号さんについて何一つ知らないのだ。
数日後。販売数は――まだ「1」。レビューも感想もない。最後まで読んでもらえたのかさえ分からない。
玲は再び、頭の中の第一号さんを呼び出した。いつもの大樹、夕焼け、風、薔薇。
「どこに住んでいる?」
『知らない』
「何歳?」
『知らない』
「男? 女?」
『それも君には分からない』
玲は自嘲気味に笑った。当然だ。全部、自分が作った幻なのだから。
そして最後に、一番大切な質問を投げかけた。
「…………僕の本、面白かった?」
第一号さんは――初めて、何も答えなかった。ただ静かに玲を見つめている。
風だけが吹き抜け、薔薇の花びらがハラリと一枚落ちた。
ここだけは。この答えだけは、作者である自分が勝手に作ってはいけない領域だ。
本当に読んだ人がどう感じたかは、その人だけのものだから。
「……ありがとう、付き合ってくれて」
玲が呟くと、第一号さんの姿が満足そうに薄れていく。大樹も、夕焼けも、プリズムの輝きも、すべてが溶けるように消えていく。
視界に残ったのは、見慣れた四畳半の静かな自室だけ。
一冊だけ売れた。
そして――僕の頭の中からは、誰もいなくなった。
その夜。どこかにある、ごく普通の静かな部屋。
そこに、スマートフォンを手にした誰かがいた。
顔も、性別も、名前も分からない。
画面には、玲の紡いだ物語の最終ページが表示されていた。
『世界が終わる夜に、もう一度君の名前を呼ぶ』──世界は終わる。光は消える。けれど、もしも。もしもまだ、どこかに君がいてくれるなら。どうか僕の、この声を、名前を、見つけておくれ。(完)
画面が優しくタップされ、物語は幕を閉じる。その人はしばらく、暗転した画面をじっと見つめていた。
物語の余韻を胸に染み込ませるように。やがて、その人は愛おしそうにスマートフォンをそっと胸に抱きしめ、
小さな声を落とした。
「……ちゃんと、いるよ。」
それは、作中作の問いかけに対する、世界でたった一つの優しいアンサーだった。
翌朝、目を覚ました玲がスマートフォンを開く。販売数は――やはり「1」のまま。
けれど、玲の胸に寂しさはなかった。
ゼロと一の間には、自分が思っていたよりも、
ずっと広くて温かい海が広がっていることを、
今の玲は知っているから。




