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一冊だけ売れた。そして誰もいなくなった。

作者: 桜井芳乃
掲載日:2026/10/07

午前0時。新人作家・玲(れい)は、自室でノートPCの画面を凝視していた。

心血を注いだ初めての電子書籍『世界が終わる夜に、もう一度君の名前を呼ぶ』の発売時刻だ。

更新ボタンを押す。


【本日付の販売数:0】


「……まあ、そんなすぐ売れるわけないよな」


強がりつつも、指は止まらない。更新。更新。更新。画面の時計が午前0時7分を指したとき、

最後に一度だけ、と更新ボタンを押す。


【本日付の販売数:1】


玲の動きが完全に止まった。


「…………売れた」


数秒後、脳内にアドレナリンが噴き出す。


「売れたあああああっ!!」


深夜のアパートであることを思い出し、慌てて両手で口を押さえる。たった一冊。

けれど、昨日まで世界になかった自分の本を、知らない誰かがお金を払って選んでくれた。

胸を熱くしながら、玲はポツリと呟いた。


「…………誰?」


購入者の名前も顔も分からない。玲は勝手にその人物を「第一号さん」と呼び始めた。


「きっと本好きの、落ち着いた人なんだろうな」


目を閉じると、脳内にうっすらと人影が現れる。黒髪、長身、知的な顔立ち。


「もうちょっと雰囲気が欲しいな」


玲の注文通り、男は豪華な貴族風の衣装に変わり、背景には夕暮れの大樹が現れた。

風が吹き、長い髪がなびく。玲は腕を組み、真剣に考えた。


「…………薔薇(バラ)は必要か?」


少し考え、パチンと指を鳴らす。


「……必要だ」


唇に真紅の薔薇をくわえた【第一号さん(通常版)】の完成である。


もちろん、本当の購入者がこんな人物だという根拠は一ミリもない。


翌朝。【販売数:1】


「まあ、朝だしな」


昼。【販売数:1】


「みんな仕事中だしな」


夜。【販売数:1】


それなのに玲の頭の中では、第一号さんの生活だけがどんどん豪華になっていく。

大書斎、アンティークの机、高級な紅茶、白猫、神秘的な月明かり。


「――いや待て。普通に実家の布団の中で、スマホ読んでた可能性もあるぞ」


セルフツッコミを入れた瞬間、脳内の豪邸が一瞬で消え去り、煎餅布団に寝転がってスマホを見る薔薇男が現れた。玲は激しく首を振る。


「…………夢がない。戻そう」


指を鳴らすと、一瞬で豪邸が復活した。


販売数が動かない寂しさから、玲は頭の中の第一号さんに話しかけてみた。


「どうして僕の本を買ってくれたの?」


すると、薔薇男が優雅に微笑んだ。


『表紙が目に入ったからだ』


「…………今、喋った?」


『君が頭の中で喋らせたんだろう。作者は君だ』


とうとう妄想が会話を始めた。玲は作家としてのロマンを求める。


「いや、そこは『タイトルを見た瞬間、運命を感じて――』とか言ってよ!」


『試し読みして、暇つぶしに良さそうだっただけでは?』


「もっとロマンのある理由を考えてよ!」


『君の妄想だろう』


「そうだけど!」


ある日、販売ページを確認した玲は我が目を疑った。


【日間ランキング:1位】


「一位ぃぃぃぃっ!?」


歓喜して詳細データを開く。


【販売数:1】


ランキングを見る。


【1位】


「……販売数一冊で一位になれるの?」


玲はもう一度、販売数を確認した。


【1】


「…………どういう世界なんだ、ここは」


玲は「一位」と「一冊」を交互に見つめた。喜んでいいのか、よく分からなくなってきた。

そして、この妙な興奮に呼応するように、脳内の第一号さんにも異変が起こる。


昨日までの第一号さんは、大樹の下で薔薇をくわえているだけだった。

ところが、玲が「日間1位」を手にした瞬間――脳内の第一号さんが、見たこともない笑顔を浮かべた。

しかも、背景がまばゆく輝き始める。虹色のプリズム。大量のスポットライト。舞い散る花びら。

玲は真顔で見つめた。


「…………待って。なんで急に満面の笑みになってるの?」


第一号さんは自信に満ちたロイヤルな微笑みを崩さない。


「しかも、なんでそんなに発光してるの。まぶしいよ」


現実の販売数は「1」のままだ。


「販売数は増えてないのに、そっちのレア度だけ上がってない?」


玲は目を細めた。


「……なんで光ってるの。これ、完全にSSRの演出じゃないか……」


最高レアになった第一号さんは何も答えず、ただ物理的に「レア」に進化していた。


気分転換に、玲は以前立ち寄った『ひより食堂』へと向かった。店の近くには、見事な枝ぶりの大きな木がある。

玲には見えていないが、店先では小さな精霊・カツ葉がいつものようにふわふわと漂っていた。

玲は大樹を眺めながら、また頭の中の最高レア第一号さんを考えていた。


大樹、薔薇、笑顔、プリズムのキラキラ。


――その瞬間。


現実の大樹の葉が、ふわりと大きく揺れた。


「…………っ!?」


ひより食堂の店先で、カツ葉がガタガタと震えながら大樹の根元を指差した。


「な、なんでござるか、あの歌舞伎のような男は……っ!?」


「え?」


看板娘のみそらと店主のひよりには、カツ葉が何に驚いているのか分からない。もちろん、玲にはその声すら聞こえない。


玲が歩き去ると同時に、大樹の根元に一瞬だけ揺らめいた虹色の幻影は消え、ただ風に揺れる葉の音だけが残った。


帰宅後。玲は脳内で発光している最高レア第一号さんを眺めながら、ふと気づいた。


「…………待てよ」


薔薇男がこちらを見る。


「第一号さんが男だと、誰が決めた?」


しん、と静寂が訪れた。


次の瞬間、薔薇男の背後から、もう一人の人影が現れた。


長い髪。豪華なドレス。宝石。金の装飾。虹色の光。

そして当然のように、その美女も真紅の薔薇をくわえている。

男と女。背中合わせ。薔薇が二本。


玲は頭を抱えた。


「……なんで人数と豪華さまで増えるの?」


玲はしばらく二人を眺めた。


「というか……なんで二人とも薔薇くわえてるの?」


男性かもしれない。女性かもしれない。若いかもしれないし、年配かもしれない。

自分は、第一号さんについて何一つ知らないのだ。


数日後。販売数は――まだ「1」。レビューも感想もない。最後まで読んでもらえたのかさえ分からない。

玲は再び、頭の中の第一号さんを呼び出した。いつもの大樹、夕焼け、風、薔薇。


「どこに住んでいる?」


『知らない』


「何歳?」


『知らない』


「男? 女?」


『それも君には分からない』


玲は自嘲気味に笑った。当然だ。全部、自分が作った幻なのだから。

そして最後に、一番大切な質問を投げかけた。


「…………僕の本、面白かった?」


第一号さんは――初めて、何も答えなかった。ただ静かに玲を見つめている。

風だけが吹き抜け、薔薇の花びらがハラリと一枚落ちた。

ここだけは。この答えだけは、作者である自分が勝手に作ってはいけない領域だ。

本当に読んだ人がどう感じたかは、その人だけのものだから。


「……ありがとう、付き合ってくれて」


玲が呟くと、第一号さんの姿が満足そうに薄れていく。大樹も、夕焼けも、プリズムの輝きも、すべてが溶けるように消えていく。


視界に残ったのは、見慣れた四畳半の静かな自室だけ。


一冊だけ売れた。


そして――僕の頭の中からは、誰もいなくなった。


その夜。どこかにある、ごく普通の静かな部屋。

そこに、スマートフォンを手にした誰かがいた。

顔も、性別も、名前も分からない。

画面には、玲の紡いだ物語の最終ページが表示されていた。


『世界が終わる夜に、もう一度君の名前を呼ぶ』──世界は終わる。光は消える。けれど、もしも。もしもまだ、どこかに君がいてくれるなら。どうか僕の、この声を、名前を、見つけておくれ。(完)


画面が優しくタップされ、物語は幕を閉じる。その人はしばらく、暗転した画面をじっと見つめていた。

物語の余韻を胸に染み込ませるように。やがて、その人は愛おしそうにスマートフォンをそっと胸に抱きしめ、

小さな声を落とした。


「……ちゃんと、いるよ。」


それは、作中作の問いかけに対する、世界でたった一つの優しいアンサーだった。

翌朝、目を覚ました玲がスマートフォンを開く。販売数は――やはり「1」のまま。

けれど、玲の胸に寂しさはなかった。

ゼロと一の間には、自分が思っていたよりも、

ずっと広くて温かい海が広がっていることを、

今の玲は知っているから。


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