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短編小説

毒姫の隠れ香

作者: おでこ
掲載日:2026/04/02

本作は、全六章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


━━━━━━━━━

第一章 毒姫と呼ばれた娘

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 フェリクス伯爵家の領地の最果てに、わたしの別邸はあった。


 正確には「別邸」と呼ぶのも憚られるような場所だ。深い霧の森に半ば飲み込まれた、石造りの古い館。かつては使用人が出入りしていたのかもしれないが、今は荒れた庭園と、薄暗い調香室と、侍女のマリアだけが残っている。王都からも、伯爵家の本邸からも遠い。誰も来ない。誰も来ようとしない。


 でも、ここが好きだった。


 誰も笑わない。誰も「毒姫」と囁かない。


「リリス様、またそちらに?」


 廊下の向こうからマリアが声をかけてくる。振り返らずに答えた。


「ええ。調合が終わらないの」


「……今日はお食事を召し上がっていないので、せめて」


「いつもありがとう。でも、今は結構よ」


 そう告げて、扉を閉める。


 調香台の前に座り、硝子瓶を並べる。月見草のエキス、眠り草の根、ほんの少しの毒茄子の花粉。どれも「毒草」と分類される植物たちだ。薬師ですら扱いを嫌がる。


 でも、わたしにはわかる。この子たちは、使い方さえ間違えなければ、誰よりも優しい。


 極微量。それがすべての鍵だ。毒になるか薬になるかは、量と調和だけが決める。


 わたしがそれを知ったのは、十一歳の冬だった。高熱が三日続いても、父は医師を呼ばなかった。「令嬢としての体裁を保て」と言い残して、それだけだった。マリアも困り果てて、気がつけばそばにいなくなっていた。


 夜中に、ひとりで庭園まで這い出た。熱で頭がぼんやりしていたのに、体はどこへ行けばいいか、知っていた。厳密には、香りに引き寄せられていた。白い花弁が月に光る、名も知らない植物。毒として知られているとは、そのときのわたしには知る由もなかった。


 ただ、その根を少量、煎じて飲んだ。量を間違えたら死ぬかもしれないと、頭の隅で思った。でも、誰にも顧みられないまま熱に侵されていく夜のほうが、もっと怖かった。


 翌朝、熱は引いていた。


 父にその話をした。正直に。熱が続いたこと、庭に出たこと、花の根を飲んだこと。


 父の顔が変わった。怒りではなかった。もっと冷たい、距離を置くような何かだった。


「毒を好む不気味な子だ」


 それだけ言って、父は踵を返した。


 それから一ヶ月も経たないうちに、わたしはこの古い別邸へ移された。表向きは「療養のため」だった。実際には、そのまま九年が過ぎた。


 世間が毒と呼ぶものでも、量と調和さえ正しければ、人を救う——その確信は、あの冬に骨の芯まで刻まれた。十年の研究は気まぐれでも趣味でもなかった。それだけが、わたしのよりどころだった。


 わたしと、よく似ていると思っていた。毒草たちと。ただそこに在り続けるだけで、誰かに怖がられる。悪意があるわけでも、誰かを傷つけたいわけでも、ない。


 社交界に出るたびに「毒姫」と呼ばれ、令嬢たちが扇を口元に当てて笑い、青年貴族たちが目を逸らす。


 フェリクス伯爵家の令嬢として、社交界には参加している。


 前回は、「毒姫が近くを歩いただけで具合が悪くなった」などと大声で話す令嬢まで現れた。


 婚約の話は、父経由で三度持ち上がったと聞いた。三度とも先方から断られたと。わたし自身は、一度も相手に会っていない。会わせてもらえなかった。


 諦めた、というよりは、父がわたしへの関心そのものを手放した、という言い方のほうが正しかった。十九歳になった今も、月に一度届く生活費の書状は、本邸の執事の筆跡で、父の署名だけが押してある。


 (仕方ないこと……)


  ◆


 薄暗い調香室で、わたしはひとつの瓶に香りを満たしていく。


 月夜に咲く毒花の香。これがわたしの最高傑作だと、自分でも思う。でも誰かに嗅がせたことはない。


 だって一般的には、これは「毒」だから。


 人の神経を弛緩させる成分が入っている。


 (だからわたしは、誰も近くに置けない)


 自分に言い聞かせるように、わたしは瓶に栓をした。


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第二章 狂犬の侵入

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 その男が来たのは、満月の夜だった。


 扉が、ノックもなく開いた。


 振り返って、固まった。


 扉口に立っていたのは、背の高い、鎧姿の男だった。騎士団の紋章。王城警備の正装。霧の森の奥深くに、場違いなほど鮮やかな、聖騎士の礼装だった。


 深く落ちくぼんだ、血走った目。充血した白目。目の下の濃い隈。精悍な顔立ちのあちこちに、疲弊の影が刻まれていた。まるで、終わりのない戦場を長い時間かけて歩いてきた人間のように。


 (……誰?)


「ここが、例の部屋か」


 しゃがれた、低い声だった。


 記憶の端を引っかく。聖騎士団長、カイル・ヴァルツ。「狂犬」と呼ばれる、この国最強の騎士。父が本邸に呼んだ夜会で、遠目に一度だけ見たことがある。近寄る者など誰もいなかった。魔力が強すぎて、何かの拍子に意図せず周囲を傷つけることがある、と聞いていた。その目は宴の間ですら絶えず揺れていて、まるで獣のように研ぎ澄まされていた。


 (なぜ、ここに)


 察しはついた。伯爵家の領地の端に、危険な毒物を溜め込む令嬢がいる——そういう報告が上がり、査察に来たのだろう。「例の部屋」という言い方が、その証拠だった。


 でも。査察ならば、衛兵を連れてくるはずだった。それなのに、ひとりで来た。夜中に。その顔は、職務で動いている人間のものではなかった。もっと切迫した、追い詰められたような——。


 (……なんだろう?)


 疑問が固まる前に、男は踏み込んできた。


「失礼ですが、ここは私の調香室です。部外者の立ち入りは——」


「報告があり、査察に来た。入らせてもらう」


 彼はわたしの言葉を遮って、一歩、踏み込んできた。わたしは反射的に後ずさる。机の端が腰に当たった。


 男の鼻が、かすかに動いた。


「……なんだ、この匂いは」


 低い呟き。命令でも疑問でもなく、ただ独り言のような声だった。


 (気づいた? 毒草の匂いに? まずい、どう説明すれば)


 でも、彼はそれ以上何も言わなかった。


 次の瞬間、膝が折れた。


 信じられないものを見た。

 あの「狂犬」が、音も立てずに床に膝をついて、そのままゆっくりと、前のめりに倒れていく。


「……っ、ちょっと」


 慌てて走り寄った。倒れる体を支えようとしたが、間に合わない。重い。鎧の男の体は、わたし一人ではとても支えきれなかった。


 どさり、と。


 カイル・ヴァルツが、床に倒れた。わたしの膝の上に、頭を預けるようにして。


「……は?」


 声が、出た。


 部屋の空気が静まり返る。遠くで、風が森を揺らす音がした。


 男の顔を、間近で見る。精悍な、整った顔立ちだ。でも今は、戦場を駆ける騎士団長の面影はどこにもなかった。


 眠っていた。


 深く、深く。子供のように、穏やかに。


 荒かった呼吸が、今は静かに整っている。ぎゅっと眉根を寄せていた表情が、すっかり解けていた。目の下の隈も、充血した目も、今この瞬間だけは見えなくなっていた。


 (まずは状況を整理しよう……)


 周囲を見回して、すぐに気づいた。さっき栓を開けかけた、月夜の毒花の香水瓶。瓶の口が、半分ほど開いていた。


 (この香りで、眠らせてしまった……)


 胸の中で何かがぐらりと揺れた。


 毒だ。


 (やっぱりわたしの調香は毒なんだ。国最強の騎士を、問答無用で眠らせてしまうような)


 でも、彼の顔を見ているうちに、その考えが少し、揺らいだ。


 穏やか、だった。


 眠っている今のカイルは、疲れ果てた子供のようだった。鬼気迫る「狂犬」の気配はどこにもない。ただ、人ひとりが、長い疲れの果てにようやく休んでいる。そういう静けさだけがあった。


 (苦しそうじゃ、ない……)


 わたしは自分の膝の上で眠る男を見下ろしながら、長い時間、動けなかった。動かすのが、なんとなく、憚られた。


 (この程度の量では、普通はここまでの効き目はないはずだけど……)


 ときどき、彼の眉がかすかに動いた。何かを夢で見ているのかもしれなかった。でもすぐにまた、穏やかな顔に戻った。


 (さすがに、役務中に眠らせたのは、まずいかも……)


 夜が明けるまで、ずっと、その場に座っていた。


━━━━━━━━━

第三章 父の宣告

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 翌朝、父が別邸に来た。


 フェリクス伯爵が直接足を運んでくることなど、九年で数えるほどしかない。その事実だけで、胃がきゅっと縮む感覚があった。


「リリス」


 父の声は、いつも通り、感情を削ぎ落とした平坦な声だった。


「昨夜、聖騎士団長殿がこの別邸に来たと聞いた。その後、お戻りになっていないとの事だが、どうなっている?」


「……はい」


「どういうことか、説明してもらおうか」


 (最悪だ……)


 正直に話した。

 突然入室してきたこと、香水の匂いを嗅いで倒れたこと、朝まで眠っていたこと。


 父は聞き終えて、しばらく黙った。そして、静かに言った。


「団長殿が帰ってこないことで、王都の貴族たちが騒いでいる。毒姫が騎士団長に毒を盛った、と」


「違います。あれは——」


「言い訳は聞かない」


 父の声に、初めて感情の色が乗った。怒りではなかった。それよりもずっと冷たい何か。


「フェリクス伯爵家は、これ以上お前の存在によって名声を傷つけられるわけにはいかない。一ヶ月以内に、ここを出てもらう。辺境の修道院に手配する。そこで静かにしていろ」


 部屋が、しんと静まり返った。


「……修道院?」


「抵抗するな。お前が素直に従えば、家は守られる」


 (家は守られる……)


 (わたしは?)


 喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。


 でも今度は、飲み込むのに少し、時間がかかった。


 胸の奥で何かがぎゅっと収縮した。怒りではなかった。それよりもずっと情けない、みっともない何か。これは——と思いかけて、やめた。名前をつけてしまったら、もっと手に負えなくなる気がした。


 父の目が、わたしを見ていた。説明を求めているわけでも、返答を待っているわけでもない目だった。ただ、この場を終わらせようとしている目だった。


 言っても無駄だと知っていた。


 八年前にも、父はわたしを呼びつけてこう言った。「毒を好む不気味な子だ」と。それだけだった。「心配した」でも「一緒に治そう」でもなかった。それがわたしの父だった。今更だった。


 扉が閉まる音がして、父は去った。


 わたしは動けなかった。


 しばらく、ただ調香台を眺めた。何も変わっていないのに、部屋の空気だけが少し、変質した気がした。


 手が、瓶のひとつに触れた。無意識に。指先が冷たかった。


 修道院。辺境の。静かにしていろ、という言葉が、頭の中でゆっくりと溶けていく。静かに、か。わたしはずっと静かにしてきた。この霧の森の中で、ひとりで毒草と向き合ってきた。それでも「問題」だった。静かにしていても、いなくなれ、と言われる。


 (……やっぱり、そうなるんだ)


 泣けなかった。泣き方を、とっくに忘れていた。


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第四章 砕けた香水瓶

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 その日の夕方、わたしは月夜の毒花の香水瓶を手に取った。


 この香りのせいで、騒ぎが起きた。この香りがなければ、父に宣告される口実も生まれなかった。


 (捨ててしまおう)


 そう思った。


 どうせ誰の役にも立たない。人を眠らせてしまう毒。わたしが十年かけて育てた草花たちも、結局は「害悪」と言われるだけだった。


 瓶を握る手に力を込めた。窓の外、石畳の上に叩きつければ、それで終わる。この古い別邸ごと、全部なくなってしまえばいい。


「やめろ」


 扉が開いた。


 カイルが、そこに立っていた。


 昨夜とは違う、私服姿。でも目の下の隈はまだ濃く、目には血が走っていた。それでも、昨夜よりは確かに、目が澄んでいる気がした。


「……昨日のことは、申し訳ありませんでした。あなたを眠らせてしまったことで、騒ぎになって——」


「謝るな」


 彼は部屋に入り、距離を縮めながら言った。


「俺が勝手に眠ったんだ。お前のせいじゃない」


「でも、あなたが私の部屋で倒れたせいで、みんなが——」


「分かっている」


 低い声が、静かに部屋を満たした。


「毒を盛ったと騒いでいるやつらの話は聞いた。それで、捨てようとしていたのか?」


 わたしは何も言えなかった。


 カイルはわたしの手から、そっと——でも迷いなく——香水瓶を取り上げた。


「返してください」


「嫌だ」


 即答だった。


「これを譲ってほしい」


「え?」


「三年だ……」


 低い声が、また部屋を震わせた。


「三年間、俺は一度も眠れていなかった。力を得てから、ずっとだ。癒し魔法も、薬も、何も効かなかった。昨夜、初めて眠れた」


 わたしは、息を呑んだ。


(……三年、眠れていなかった?)


「そんなに、長い期間……」


「ああ。だから俺は狂犬と呼ばれるようになった。誰かに触れると魔力が暴走する。力を使わないと頭が割れるように痛い。それが睡眠ができず三年だ」


 彼の声に、初めて、怒りでも命令でもない何かが混じった。疲弊と、ほんの少しの切実さ。それがわかったから、なんとも言えない感覚がわたしの胸に落ちた。


「お前の香りだけが、俺を眠らせてくれた。それを捨てないでほしい……俺には必要だ」


 (……毒じゃ、なかった?)


 胸の中で何かが音を立てた。ひびが入るような、あるいは解けていくような。


 でも、すぐに首を横に振った。


「眠れたのは偶然です。毒性の成分が、あなたの魔力に作用しただけで。また嗅いだら、今度は本当に危険かもしれない。わかっていますか、これは毒草から作った——」


「知ってる」


 カイルが、わたしの言葉を遮った。


「匂いを嗅いだとき、成分は全部わかった。俺には魔力がある。体内に入ったものを感知できる」


「……なら、なおさら危ない」


「危なくない」


「どうしてそう言い切れるんですか」


「お前が危なくないように作ったんだろう」


 ——その一言で、わたしは言葉を失った。


 彼はわたしをまっすぐ見ていた。血走った目で、目の下に濃い隈を持ったまま、それでも真剣に、揺るぎなく。


 (わかってる。この人は、わかってる)


 喉が、きゅっと詰まった。


 自分で「毒だ」と言い続けてきた。人を傷つける毒だと、だから人を遠ざけなければと。でも、ずっと心のどこかでわかっていた。


 量と、調和。傷つけるためではなく、"癒す"ために、配合してきた。眠れない夜の苦しさを、あの十一歳の冬から知っていた。だからこそ、それを和らげるものを作りたかった。それをこの男は、一晩眠っただけで見抜いた。


「……でも」


 声が、震えた。


「わたし、修道院に行くことになったので。この香水は、作ることができません」


 カイルは、少し間を置いた。


「誰が決めた」


「父です。フェリクス伯爵が——」


「わかった」


 それだけ言って、彼は香水瓶を胸元に収めた。


「今夜は眠れそうにない。また来る」


 扉のほうへ向いて、手をかけた。


 でも、すぐには出ていかなかった。


 一拍。二拍。


 彼はそのまま扉に手を置いたまま、動きを止めていた。

 何かを言いかけて、やめたような間だった。それとも、ただわたしが見ていた角度のせいで、そう見えただけだったのかもしれない。


 扉が閉まって、彼は去った。


 わたしはひとり、調香台の前に立って、しばらく動けなかった。


 (また来る、って)


 それよりも、あの一拍の間のほうが、なぜか長く残った。


 (……何を言おうとしてたんだろう)



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第五章 狂犬の裁き

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 事態が動いたのは、それから三日後の朝だった。


 父が、修道院への移送を一週間早める、という通達を寄越した。


 その知らせを受け取って間もなく、別邸の扉が、正式な訪問のようにノックされた。


 扉を開けると、カイルがいた。今日は正装だった。聖騎士団長の礼装、肩に紋章、腰に剣。いつも鋭い目が、今日は何か別の光を帯びていた。目の下の隈は、まだあった。でも三日前よりは薄くなっていた。


「着替えろ」


「……は?」


「俺と一緒に来い。王都まで馬車を用意してある」


 (王都?)


 理由を聞く間もなく、わたしは彼の後を追っていた。霧の森を抜けるのに、半日かかった。生まれてはじめて、この領地の外に出た。馬車の窓から見える景色が、ひとつひとつ、知らないものだった。


   ◆


 王都の王宮。

 その大広間に、わたしは通された。


 そこには、フェリクス伯爵がいた。宮廷貴族の何人かも、侍女も、廷臣も。そして、わたしのことを「毒を盛った」と言いふらしていた貴族令嬢たちも。


 全員の顔が、わたしたちを見て、一瞬で強張った。


「なんの——」


 父が言いかけた言葉は、カイルの声にかき消された。


「フェリクス伯爵」


 騎士団長の声は、広間全体に響いた。静かなのに、不思議と逃げ場がなかった。


「お前は、リリス・フェリクスを辺境の修道院に追いやろうとしているそうだな」


 父の顔色が、見る間に変わった。


「それは、家の事情であって、騎士団長殿には——」


「三日前、俺は三年ぶりに眠れた」


 カイルの言葉が、ざわめきを切り裂いた。


「三年間。どの癒し魔法も、どの薬師も、俺を眠らせることはできなかった。俺が眠れたのは、リリス・フェリクスの調香のおかげだ」


 広間が、しんと静まり返った。


 誰かが息を呑む音が聞こえた。


「騎士団長が三年間眠れなかった、などというのは——」


「信じられないか?」


 カイルが一人の貴族を見た。それだけで、その男は口をつぐんだ。


「魔力暴走による不眠。王宮の侍医も、大神殿の癒し師も、束になっても解決できなかった。それを、辺境の古い別邸に閉じ込められていた娘がひと晩で片付けた。お前たちが『毒姫』と嘲った娘がな。ここにいる全員が、ずっと間違えていた」


 誰も、何も言えなかった。


 令嬢のひとりが、持っていた扇を取り落とした。音が、広間に響いた。前回の宴で「毒姫が近くを歩いただけで具合が悪くなった」などと大声で言いふらしていた令嬢だった。拾う気力もないのか、その場に立ったまま、紙のように白い顔で床を見ていた。


 その隣の令嬢が、小さく後ずさった。あとひとつ下がれば廷臣にぶつかる位置だったが、気づいていないようだった。


 貴族の男のひとりは、視線の落とし場所が見つけられないのか、天井と床の間をしきりに彷徨わせていた。わたしの噂話を嬉々として広めていた男だった。今は、その場から逃げ出したくて堪らないようで、それでもカイルの視線が怖くて動けないでいた。


 カイルはゆっくりと一人ひとりを見渡した。それだけで、その場にいる全員が小さく固まった。言葉もなく、ただその視線だけで、広間の空気が凍る。「狂犬」の名は伊達ではなかった。でも今、彼が怒鳴ることはなかった。ただ静かに、揺るぎなく、立っていた。それがかえって、恐ろしかったのかもしれない。


 父は、口を開いたまま固まっていた。


 カイルはゆっくりと父に向き直った。


「リリス・フェリクスを修道院に追いやることは許可しない。彼女は聖騎士団の専属調香師として、王都に留まる。異論は認めない」


「し、しかし、聖騎士団に調香師など——」


「今、作った」


 父の言葉が完全に止まった。


 カイルの声が変わった。静かなまま、でも密度が増したような声だった。


「俺には魔力感知がある。あの調香の成分は全て把握している。毒草を極微量で配合し、神経を安定させる——既存の癒し魔法では説明がつかない技術だ。有用だが、管理なしでは危険でもある。だから聖騎士団が関与する。彼女には正当な研究の場を与え、俺が直接責任者となる。毒草使いの娘ではない。王国の研究資産だ」


 誰も、口を挟めなかった。


「……もし逆らうというなら」


 カイルの声が、低く、静かに、続いた。


「フェリクス家が、俺の調香師を八年間辺境に閉じ込め、さらに修道院に追い出そうとした、という話を、陛下に直接報告することになる。その意味はわかるか?」


 父の顔が、白くなった。


 沈黙の中で、父の肩がゆっくりと落ちていった。あれほど厳然と聳えていたはずの背中が、今は小さく見えた。


 父の口が、かすかに動いた。何か言おうとしたのだと思う。でも声が出なかった。代わりに出てきたのは、指先のかすかな震えだった。父がそれを隠すように手を衣の内側に引いたのを、わたしは見た。


 わたしの父が、震えている。


 一度も見たことがなかった。


「……騎士団長殿、どうか、それだけは」


 声が、かすれていた。


 いつも平坦で、感情を削ぎ落とした父の声が、今は微かに割れていた。威厳も格式も、その一瞬だけは、どこかへ行ってしまっていた。


「では、修道院の話は白紙に戻すことだ」


 父はそれ以上、何も言えなかった。


 令嬢たちも、貴族たちも、誰ひとり声を上げなかった。あれほど「毒姫」と嘲笑っていた彼女たちが、今は下を向いて、体を縮めていた。


 わたしはそのさまを見て、何も感じなかった。


 怒りでも、勝利でも、喜びでもなかった。


 ただ、少しだけ、何かが軽くなった気がした。今までの重さが全部消えたわけではない。でも、その一部が、ここに置いていけた気がした。


━━━━━━━━━

終章 毒の名前

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 その夜、カイルが来た。


 王宮に用意された部屋の扉が、ノックされた。今度はノックをして、だった。


「入るぞ」


「……一応ノックはするんですね」


「当然だ」


 椅子に座って、腕を組んで、彼はわたしの持ってきた調香瓶を眺めていた。


「名前をつけろ」


「……何に?」


「俺を眠らせた香水に。名前がないのか?」


 少し考えた。ずっと「月夜に咲く毒花の香」と呼んでいたが、それはまだ正式な名前ではなかった。


「……まだないです」


「じゃあ、今つけろ」


「そういう気分じゃ——」


「俺の専属調香師は、俺の専用香水に名前をつける義務がある」


「そんな義務、今聞きました」


「今作った」


 さっきと同じ言葉だった。思わず吹き出しそうになって、必死に堪えた。


 (この人は、ずるい)


 香水瓶を手に取る。


 月見草の淡い甘さ。眠り草の草の匂い。毒茄子の花粉の、ほんの少しの妖艶さ。それが混ざり合って、ひとつの香りになる。


 これは毒じゃない。


 ちゃんとわかっていた。ずっとわかっていた。あの冬の夜から、十年かけて辿り着いたものだった。ただ、誰かにそう言ってもらえるまで、信じ切れなかっただけ。


「……『月夜の安息』」


 わたしは言った。


「毒姫の調香としてではなく。ただ、眠れなかった人が、眠れるようになるための香り。それが名前です」


 カイルは少しの間、黙っていた。


「悪くない」


 低い声で言って、それから彼は椅子を引いて立ち上がった。


「リリス」


 名前を呼ばれた。


 それだけで、なぜか、少し緊張した。昨日も一昨日も、何度も名前を呼ばれた。それなのに今夜は、声の質が少しだけ違う気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいとも言い切れなかった。


「……はい」


「俺のそばにいろ」


 瓶を持ったまま、固まった。


「専属調香師として、ということですよね」


「そうだ」


「他の意味はないですよね」


 カイルは、答えるまでに間があった。


 視線が、わたしから逸れた。でもすぐに、また戻ってきた。


「……今は、そうだ」


 (今は……)


 でも、それ以上聞けなかった。聞いたらいけない気がした。それよりも、今この瞬間の「今は」という言葉の重さを、まだわたしは持て余していた。


 カイルは背を向けて扉に向かい、手をかけた。


 一度だけ振り返った。


「明日から、俺の執務室の匂いを改善しろ。要求どおりにしてやる」


「本当ですか」


「俺は嘘をつかない」


 扉が閉まった。


 わたしはひとり残されて、手の中の瓶をそっと持ち直した。


 月夜の安息。


 自分でつけた名前が、少しだけ、胸に染みた。


 毒じゃ、なかった。


 最初から、ずっと、そうだった。


 ただ誰かに——信じてもらえるのを——待っていただけだった。


 窓の外に、満月が出ていた。


 霧の森はもうここにはなかった。王都の夜空は広くて、見慣れない星が並んでいた。


 わたしはその光の中で、小さく息をついた。


 泣かなかった。


 泣かなくてもよかった。


 「毒姫」と呼ばれた八年が、全部消えたわけではない。八年間閉じ込めた父が、急に優しい人間になったわけでもない。令嬢たちが明日から友達になってくれるわけでも、なかった。


 でも、それでよかった。


 ここにいられる。調香台がある。そして、また来る、と言った人間が、本当に来た。それだけで、十分だった。それだけが、ずっと欲しかったものだったのかもしれない、とわたしは思った。


 月夜の安息、とわたしはもう一度、瓶に向かって呟いた。


 毒の名前を持った香りが、今夜は少しだけ違う色をしている気がした。


 「今は、そうだ」という声が、まだ耳の奥に残っていた。


 霧の森の外の世界で、わたしは今夜、久々に眠る。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「毒姫の隠れ香」、いかがでしたか?


面白かった!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!


また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)

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