浮上
アズマがふいにソナーのヘッドフォンに耳を当てた。ナガトはそんなのを聞いて、素人が分かるのかと言いたくなったが、アズマがこちらを黙れと言わんばかりの力のこもった目で見てきたため、言葉を飲んだ。
「90m」
90mと言われて、ナガトはなんで自分はこんなとこにいるんだと初めて疑問に思った。振り返れば、この潜水艦の中に入ってから、自分がしていることは、すべて狂気の沙汰である。弾道ミサイル発射の指令に、素人の自分の命令に従い、しゃべることもできる潜水艦ーすべてが現実離れしている。いやAIが自分たちの日常に溶け込んできた今、そうでもないのかもしれない。次から次に疑問がわいては消えた。
「おいー」
70mを過ぎたあたりでアズマが険しい顔で自分にヘッドフォンをよこした。アズマは特にクールというわけでも、とっつきにくいというわけでもない。言うならば、ごく普通の男であり、おそらく今後自分の人生を振り返ってみても、これほど親しくした友人はもういないのではないかーそう考えるくらいの男。その男が眉間にしわをよせ、およそ人に向けるべきでない目で自分を睨んでいることにナガトは恐怖した。
ナガトは自分に分かるわけないと思いつつ、黙ってヘッドフォンを耳にあてた。ヘッドフォンからは、プールに潜ったときに聞こえるあの静かな音が聞こえた。ヘッドフォン越しにここが海の中なのだと、理解した。
「なんだー」と言おうとした瞬間、聞いたこともない海を裂くような音が聞こえた。ナガトがその音をスクリュー音であることを認識するのにそう時間はかからなかった。同時にクジラが腹の中にいる9人に言った。
「海上に複数のコンタクトあり 方位1-0ー 距離4000m」
高校生たちは外国語のようなクジラの言葉を正確には理解できなくても、何が言いたいのかくらいは理解できた。
「オレたちに気付いてるのか?」思わずホダカが言った。
「オレが知ってるわけないだろ?」
「50mーまもなく潜望鏡深度です」
アズマは鋭い口調でホダカに言い換えしたが、それでもヘッドフォンを耳にあて続け、分かるはずないのにモニターで海上にいるであろう船舶を監視し続けた。
ナガトも上にいる船が何なのか知りたかった。そして、本来この潜水艦なら、上にいるものが何なのか具体的にすぐ出せるはずだと思った。本当の潜水艦乗りなら、おそらくこんな浅いところで、上にいる船に気づかないはずない。しかし、自分たちは何も気付かなかった。というよりそんなことを知る術がなかった。今はただ浮上してみるしかない。浮上したら、どこの国の船であれ助けてもらおう。敵なら、自分のワイシャツを脱いで白旗にして助けてもらおう。そしてこの船を敵にあげてしまおう。そうすれば、敵も許してくれるはずだ。彼の頭の中で妄想は膨張を続け、それまで脳を支配していた弾道ミサイルの発射命令のことなど、とうに消えていた。助けてもらうーこのことに集中していた。
「識別確認ー 北西に4000m先にオーストラリア海軍、ホバート級駆逐艦ブリスベン。さらに北西2000m先にアーレイバーク級駆逐艦ラルフ・ジョンソン。その後方1000mにニミッツ級空母ジョージワシントン。さらに後方に複数の船舶を確認。現在識別中ー」
「軍艦だ」 ナガトがまた狂気じみた笑みをうかべた。
「やった!このまま浮上すればー」
そう言いかけるようとする前に、アズマがあっと声を上げ、手にしていたヘッドフォンを投げたした。
彼は、不意に耳元で大きな声をあげられた時の動作をした。いや、実際そうなのだ。アズマの表情を見て、ナガトは悪寒がした。そしてたった今少しばかり期待していたものが手からすり落ちる感覚がした。
「40mー」
「どうしたの?」 耳をふさぐアズマにコスモが尋ねたが、アズマは苦しそうにしたまま彼女を睨んで黙っていた。
コスモの質問にアズマが答えるまで、おそらく5秒もなかっただろうが、その場にいる全員がアズマの沈黙に無限に近い時間を感じた。
「30mー浮上に備えてください」
「なんかドーンって…」
全員が聞きたくない言葉を言った。
「20mー」
「浮上しないほうがいい」 ナガトの小さな一言に、メイがすぐさま食って掛かった。
「いやだ!外に出して!」
「いや、ダメだ。アズマ、外で味方がやられたんだろ?それって外で撃ち合ってるってことだよな?なら、浮上してはだめだ!」
ナガトの言葉に今度はコスモが食って掛かった。
「ちょっと、やられたってことはまだ分からないでしょ?アズマが聞いた音でなんで撃ち合ってるなんて分かるの?なんで簡単にそう決めつけるの?」
「10mー」
「なんでこの状況が分からない!?おまえはバカなのか?潜水艦がアメリカとオーストリアの軍艦を探知して、そのあと、爆発音がしたんだぞ?普通考えたら、味方が撃沈か攻撃されたかに決まっているだろ?」
「だからそれがおかしいんでしょ!?なんでこの潜水艦の言うことを簡単に鵜呑みにするの?あたしらさっきまで、大和ミュージアムに展示されてる潜水艦の中にいたんだよ?それがなんで今、いきなり海の中を潜ってるの?おかしいじゃん!ずっと!あんたさっきからずっとイカれてるのだよ!」
「だから、こうして発射命令を…」
コスモの真っ当すぎる反論にナガトは黙らざる負えなかった。この状況があまりにも非現実的であることは誰の目から見ても明らかだった。タイムパラドックスみたいなSFチックなことを考えるより、純粋に何かのドッキリと考えたほうが、よっぽど合点がいった。自分にとって都合のいい妄想に彼らを突き合わせているだけーこう認識せざる負えないことは、コスモに言われる前から理解していたが、それでも、ナガトは突然やってきたこの非現実的世界に何かしらの望みにかけていた。しかし今、彼女の言葉でその望みは再び沈黙した。
「浮上、浮上ー」
船体が上下左右に揺れ、班員たちもそれにつられて揺れた。しばらくの間、全員が黙っていた。ナガトはコスモに責められたことに恨みを抱きつつも、黙るしかなくその場から動かなかった。逆にコスモは自分が考えれる限りの正論で暴走する男を止めたという自負があったが、揺れる船内と同様にその自負もまた揺れていた。もしナガトの言う通りここが海ならーそう思わずにはいられなかった。
「アズマ、外に行ってみるか?」
全員が一歩踏み出すことをためらう中、やっと班長が動き出した。アズマはホダカに自分が呼ばれるとは思わなかったが、一言うなずくと彼についていった。これまで頭を抑えていたクニオもやっとまともに立ち上がり、ホダカの後についていった。本来なら、アズマやクニオのように友達がそっちに行けば、自分もそっちに行くーそんなタイプのナガトも今回ばかりはついていく気になれなかった。
少しして、メイにつられて女性陣がコントロールルームから出ていった。浮上して皆が外に出ようとする中、ナガトは揺れるクジラの腹で、いつまでもこうしていたいと思った。