1−10 工場を出る
宿を出る。その私の後を男が一人付いて来る。とりあえず港の倉庫街の方に歩いて行く事にする。角を曲がって、男が追いつく前に通りを高速で進み、更に角を曲がる。そいつが追いつく前に翼を作り低空飛行で倉庫街の各ブロックをジグザグに進んでいく。もう見えない程距離が開いたところで屋根の上に出て、林をぐるりと回ってから上空へ上がって大岩に進む。
蝙蝠達は大岩の近くの枝にぶら下がっていた。大岩に着地し、蝙蝠に話かける。
「明日、あいつらが私を連れ出すってさ。もうここには来れないかもしれない」
枝にぶら下がったままの蝙蝠は二匹とも口を開いた。まるで笑うかの様に。祝福してくれるというのか?とりあえず、これで上司に黙って逃げた等と言いがかりをつけられて天罰が落ちる事はないだろう。そもそも、上司が神なら宿のやり取りくらい見えていただろうし。
二匹の蝙蝠はふらふらと飛んで行った。私も寮に帰ろう。
とりあえず眠る前に服と外套、それに毎日支給されるがほとんど使っていないロウソクを百本あまり、一纏めにしておいた。
翌朝起きて、朝食をケイと一緒に食べる…私はここから逃げ出す。その先が何か酷い仕事をさせられて野垂れ死ぬ未来かもしれなくても、とりあえず目先の餓死も凍死も知らずに出て行く。身元が何とかなったら、ケイを呼べないだろうか…こんなこじんまりと生きている娘が、あんな廃屋でやせ細って死ぬのは可哀相だ。何も悪いことなどしていないのに。自分が迎える最期よりも、この娘を一日でも長く生かしてあげたかった。それなのに…
ケイが心配そうな顔で私を見る。
「どうしたの?体調が悪い?」
愛想笑いをしようとするが、悲しい笑いになったと思う。
「ううん、夢見が悪かったんだ」
ケイがまだ心配そうに見ている。ごめん。私はあなたを置いて逃げてしまうんだ。ケイとはとりあえず食堂で一度別れた。職場で合流するのがいつもの事だったんだ。
部屋に戻る途中で、寮母に呼ばれた。
「お客さんが来ているの、少しでも外見を整えて応接室に来なさい」
「はい。分かりました」
外見を整えろって言っても、良い服など持っていない。髪を手櫛で整えて、荷物を持って応接室に向かった。
応接室には例の調査チームと、副工場長と事務長が座っていた。その調査チームの女性が口を開いた。
「工場労働の実態について、この娘に証言して貰う為、王都に来て貰います。その後に王都での就職は斡旋する予定ですので、ここで退職と言う事にして頂きます」
副工場長はもっともな質問を返した。
「何故、この娘なんです?」
「二年だと何らかのしがらみで証言を忖度してしまう可能性があります。まだ一年目の方が良いし、農村出身で班長をしているという比較的真面目な娘の証言が欲しいという事もあります」
副工場長は私を見て、意見を問うた。
「そういう話が出ているが、君の意思を聞きたい」
いつもなら経営陣は労働者を『お前』呼ばわりしているが、王都から来た人間の前で恰好をつけた様だ。そして、こう来たなら私としては返し方は一つしかない。如何にも心細そうに聞こえる言い方をしてみる。
「その…王都の人がそう言うなら従うしかないのではないでしょうか。証言なら分かる範囲で出来ますし」
副工場長と事務長は顔を見合わせて言った。
「本人に異論は無い様ですので、王都での就職が斡旋された為に退職、と言う扱いになります。今月分の給金は後で事務所に寄ってくれれば渡しします」
女性が締めにかかった。
「では、キアラさん、事務所に寄ってから出ましょう」
「はい。分かりました。副工場長、事務長、短い間でしたがお世話になりました」
「王都でも真面目に働いてくれ」
「はい」
そうして調査チーム一行は裁縫工場の正門前に止めた馬車に向かった。裁縫工場の正門は経営陣、代官、その他の役人、貴族以外が使う事は無い。女性労働者がこちらを使う事は無い。
止まっていた二台の馬車の、先頭の騎士団の士官用らしき豪華な馬車に乗せられる。まあ、逃げ出さない様に扉がちゃんと閉まる馬車に乗せたのだろうが。これでも質素な方かもしれない。騎士団マークらしきものが付いた馬車なんだから、どちらかと言うと質実剛健な作りなのだろうが…ここに来る時に乗った馬車よりずっと豪華だ。
「宿の部屋を取ってあるから、今日明日は宿に止まってもらうわ。明後日にはこの都市を出て、王領で長距離の馬車に乗り換えて、王都に向かう事になるの」
明日は空きなのか?
「それなら、明日やりたい事があるの」
「…あなたの能力が分かると問題なので、部屋に籠っていて欲しいんだけど」
「明日は私がこの間の銀貨でやるけど、工場を解雇された女達が餓死寸前なの。3月まで週一で食料を渡して貰えない?」
流石に女性は言葉に詰まったが、正面に座る若い騎士が口を開いた。
「国内では冬季と夏季に千人を超える餓死者が出ている。ここで数人救ったところで意味は無い」
「一人も救う気が無かったら、永久に餓死者は無くならないよ!まず一人救うところから政治は始まるんじゃないのか!?王家は餓死から民衆を救う気が無いのか!?」
「働く気が無い奴を救っても意味が無い」
「働きたくても仕事が無いのに放り出すシステムを放置しといて、無責任じゃないか!王家は十年以上、見て見ぬフリをしてたのか!?そうして今も見て見ぬフリを続けるのかよ!?」
キアラの瞳に涙が浮かんだが、騎士の男はこめかみに青筋を浮かべて反論しようとした。しかし、女性が仲裁に入った。
「バート、知らなかったのは仕方ないわ。でも、知ってもまだ何もしないのでは、共犯と思われても仕方がないわ。あなた達は共犯なの?」
「もちろん、共犯じゃないさ」
騎士の男は一息吐いた。
「寒さが厳しいこれから8週間、週1回の炊き出ししか出来ない」
キアラの両目から涙が零れた。
「無いよりずっと良いよ。ありがとう」
嗚咽を続けるキアラの背中を女性が摩り続けた。
くどいから書かなかったけど、街道とは別にゆるいカーブを描いて傾斜がゆるい、工場と都市を結ぶ道路がある設定です。私でも読み飛ばす様などうでもいい設定ですからカットしましたが。
明日はクリスティンの更新です。オットセイの鳴き声は分かるんだけど、アザラシはどう鳴くのか明確じゃないです。困った。
こちらの更新は木曜になります。




