1−1 風の翼
本作は拙作「蝙蝠の翼」の続編ですが、違うテーマの作品なので独立してお読み頂きたく。興味があったら前作もお読みいただければ幸いです。
大きな内海に面した港湾都市の外れにある高台に、キアラの働く繊維工場はあった。そこには紡績工場、機織り工場、裁縫工場が併設され、国策で安価な繊維製品を生産し、南の国に輸出していた。裁縫工場の一年目の学生労働者であるキアラは複数あるシャツ班の班長の一人で、同じ班のケイと昼休みのお茶を飲んでいた。通常は昼食としてビスケットが出ていたが、繊維工場に回すビスケットは船乗り向けに販売しているビスケットの二級品であるから、船乗り向けの生産が減る冬季には充分な数が確保出来なかった。
「お昼に摘まむものが無いとお腹が寂しいねぇ…」
キアラがそう言っても、北部の農村出身のケイは同意しなかった。
「お昼に食べ物が出る方が贅沢なんだよ」
「そりゃあ、家だって昼は出なかったけどさ。あるのに慣れちゃったからね…」
「贅沢」
農村出身のケイは我慢強い娘で、少し口の重い娘だった。そう言うキアラも東の農村出身だから、地味に真面目に働く以外に取柄はなかった…ある時期は異能を持っていたが、もう手放した。能力を媒介した蝙蝠達は、今度は異能を有効に使ってくれる強い心を持つ人物と出会えただろうか。
午後の業務を終えて、キアラとケイは一緒に夕飯を食べた。以前はのんびり屋のケイは後で食べていたが、キアラが強く誘って一緒に食べる様にしたんだ。
「人が多い」
「その代わり、早くに食事を終えられるから早くに水浴び出来るでしょ」
キアラはこの工場で働く女性労働者の末路を知っていた。異能で夜を駆ける間に色々と知ってしまったんだ。
この工場では輸出用の安い衣服を量産している。安くても数を売る事で、高額商品の輸入で海外に流出する貨幣を無くす様につり合いを取っているんだ。そういう訳で繊維工場の労働者は薄給で、その薄給でも働く労働力として国中の寒村から女性労働者を集めていた。毎年二百人程度、二年間労働の合間に教育を与える学生労働者として女性が集められた。二年後には商家への労働が決まった者と能力・勤務態度などで継続雇用に耐えない者など半数が工場から出された。つまり、百人程度が毎年工場から放出された。しかし、港湾都市には繊維工場以外の仕事はほぼ無く、商家への労働が決まった十人程度以外は皆、街娼になるしかなかった。そして、春夏秋には船員相手に仕事があっても、冬には売りの仕事は無い。冬には過酷な長距離航海を止めるからだ。そうして街娼達は冬季に凍死するか餓死する。春には工場に残った女性労働者が少しずつ解雇されて、また街娼になる。そうして工場は若い労働者を娼婦として定期的に提供する供給元であり、その為に毎年二百人もの女性労働者を新規雇用するのだ。つまり、キアラとケイも工場を解雇されたら街娼になるしかなく、殆どの街娼は冬を越せないで死ぬ。
二人の人生は後十年無いんだ。それを知っているキアラは、せめてケイと一緒に一年でも長生きしたいと思っていたから、この大人しい友人と親交を深めておきたかったんだ。
夕食は暖かい煮物とパンが与えられた。経営者達は労働者達に、少なくとも工場で働いている内は労働に耐えるだけの健康状態を維持させる必要があることを理解していた。
「暖かい煮物にパンを浸けて食べれば、柔らかくなるしあったかく食べられるよね」
「夏場は熱いけど」
同じ理由で水浴びは桶一杯の湯は渡された。普通の貧乏人は水で体を拭くだけだが、衣服を扱う労働者であるから、衛生面は気を使って貰えたんだ。
そうして寮母室で燭台につけてもらったロウソクを持ちながら寮の自分の部屋に入ったキアラは、寝巻に着替えてベッドに入った。体を壊して解雇されたらあと数年生きる事すら出来ない。だからキアラは夜の睡眠だけは気を使っていた。
1月の夜、布団だけは厚めのものが与えられていた。もちろん、薄給の工場労働者向けの寮の部屋に暖炉など無い。布団から出なければ問題はないし、一日働けば朝までぐっすり眠れるキアラだが、最近は労働時間が少なかった。だから珍しくキアラは夢を見た。
騎士らしき服を着た男や、フードを被った数人に追いかけられる夢だ。もう異能なんて無いんだから、危ない橋を渡る事も無いし、騎士に追いかけられる事などある筈無いのに。代官の屋敷での手練れの騎士達に対する恐怖、矢傷に対する心の傷、聖堂の周囲に待ち受けるマフィア、騎士達に対する恐れが消えないのだろうか。飢える程ではないとは言え、栄養状態が良いとは言えない女性労働者の体力ではすぐに息が上がる。何とか角を曲がって隠れる場所や分岐点を探すキアラに、空から近づくものがあった。
今更、蝙蝠か…
キアラはかつての仲間達である蝙蝠達とは今は疎遠になっているから、彼等が何かしてくれるとは期待していなかった。彼らの上司とはもう手を切ったのだから。それでも蝙蝠は近づき、キアラの右手を足で掴んだ。
(痛い!)
爪を立てて掴むから、痛みを感じるし、キアラにはもう傷を治す異能も無いんだ。勘弁して欲しい。それでもキアラの右手の甲を掴んで前に飛んで行こうとする蝙蝠に手の皮膚を引きちぎられない様に走って付いて行くしかなかった。今更蝙蝠に手伝いなど期待していない。彼等は上司の指示が無ければ私に何もしてくれないんだから。
そうして飛んで行く蝙蝠の先には、柵が一部壊れた何らかの境界線があった。
その向こうには遠くの景色しか見えない。嫌な予感がする。蝙蝠は壊れた柵を通って飛んで行き、その下には地面が無かった。崖だ。
(無理ーっ!!!)
キアラはせめて大きくジャンプして…
そこで目が覚めた。起き上がるキアラの背中に懐かしい感触があった。動かせば背中に備えた物体が動く。キアラは風の魔法で空気の翼を作って飛ぼうとしたんだ。
(やっちまった…つまり、異能は失ったのでは無くて、私が心の中で封印していただけだったんだ…)
明日も更新します。