第1話 AlvinFlann's daily
アルヴィン・フラン。それが青年の名前である。
ロンディニウムの生まれであり、現在はパン屋を営む家に下宿している。昼間は下宿先での仕事を手伝い、夜はたまに懸賞拳闘試合に出場したりしている。
彼は廃工場を後に、すぐさま下宿先へと帰り、屋根裏の自分の部屋で眠りについた。今回は殴られずに済んだため身体的疲労は激しい運動をした程度であり、熟睡することはできた。
「アルヴィン、起きて」
微睡みの中、アルヴィンを呼ぶ声がした。重い瞼を開け、身体を起こそうとすると、ガタン、とベッドが揺れた。
「ほら。早く。起きて」
ガタン、ガタン、ガタン。
と、ベッドが揺れる。
「ま、待て。起きてる、起きてる。だからやめて」
アルヴィンは揺れの中、身体を起こしてベッドを揺らす声の主を止める。
目の前には下宿先の一人娘であり、幼馴染のイヴ・ベイカーが立っていた。
「おはよう、アルヴィン」
「おはよう、イヴ。……なぁ、蹴り起こすのはやめてもらっていい?」
ベッドが揺れていたのはイヴが蹴っていたからであった。
それに対し、イヴはあっけからんと答える。
「だってあんた、こうした方が早く起きるじゃない」
このイヴ・ベイカーという少女、見た目は肩まで伸ばした濡烏色の髪、ぱっちりとした青い目、目鼻たちも良く整っており、近隣住民からも美人と評判の看板娘である。
しかし、如何せん実力行使が早いというか、手段が手荒いというか、攻撃的な一面があった。彼女の父親曰く「変なところが自分と似てしまった」とのこと。
「ほら、今からあたしは掃除するから――――」
イヴはそこまで言って、黙り込んだ。
アルヴィンを見ながら、どこか不機嫌そうな表情をしている。
「ん? 何だよ?」
「……別に。あたし、掃除するから。あんたも早く起きて、父さんの仕事手伝って」
イヴは不機嫌なまま屋根裏から下りていった。
「……あ」
何に怒っているのか、アルヴィンは分からなかったが、自分の手を見て気付いた。
手の甲には、昨夜の試合相手の血の跡がわずかに残っていた。
―――
アルヴィンが夜中に抜け出して、拳闘試合に出場するようになったのは二年前。彼とイヴが15歳の頃である。アルヴィンは個人的な理由から金が必要となり参加していた。イヴには隠し通しているつもりであったが、いつからかバレていた。というか察せられていた。
しかし、イヴから何か言ってくることはなく、先ほどのように不機嫌な態度をとるくらいであった。対してアルヴィンも向こうから何も言わないため、何か弁明したりということもしなかった。結局しばらくすれば、いつもと同じように接してくれていた。
そのため今朝の一件もいつものことであるため、アルヴィンは手をしっかり洗い血の跡を落としてから、仕事を始めた。
小麦、ライ麦の香りが満ちた厨房。釜戸の熱と焼ける生地の臭いが一日の始まりを感じさせてくれた。
「おい、アルヴィン」
アルヴィンは作業中、声をかけられた。声の主はイヴの父親であるクレス・ベイカー。職歴の長さを感じさせる慣れた手つきで生地をこねながら、目を向けずに話を続ける。
「お前、昨日も行ったのか?」
クレスにも拳闘試合のことはバレている。イヴと違うのはクレスはアルヴィンにその件について直接話をしてくる。
「えぇ、行きました」
「そうか。今回はどれほど稼いだ?」
「10シリング60ペンスでした」
「……前より安いな」
「まぁ、文句を言ってもしょうがないので」
アルヴィンがそう言うと、クレスが手を止めて目を向ける。
「おい、自分を安売りするな。そうやって安く見られて後悔することになるぞ」
「……そういう経験あるんですか?」
「あるさ。だからこうして、値段を妥協しないで自分の技術を売り物にしてる」
「そうですか……」
クレスは目を手元に向け直し、仕込みを続ける。
アルヴィンも作業を再開しようとするが、クレスの言葉に中断する。
「それと、パン焦げてるぞ」
「あ、やっべ!?」
その言葉に慌ててオーブンから焼いていたパンを取り出す。出てきたのは焦げたライ麦パン。黒パン、というよりは炭パンというような出来となってしまった。
「うわぁ……」
「それ、お前の今日のメシな」
クレスの言葉にげんなりとする。自分のミスなので仕方ないことである。
「二人ともー。朝食の準備できたわよー」
二階から二人を呼ぶイヴの声がした。
「アルヴィン。先上がれ。こっちはもう少し時間がかかる」
「あ、じゃあ、お言葉に甘えて」
アルヴィンは焼きたての焦げパンと最初に焼いたライ麦パンの塊をバスケットに入れ、二階に上がっていく。
二階のリビングでは掃除を終え、テーブルに三つの椅子が並べられていた。卓上にはティーポットとティーカップが置かれ、イヴは棚から皿を取り出し並べている。
「あ、アルヴィン……何それ?」
「俺のメシ」
焦げた黒パンを見てイヴは尋ねる。アルヴィンの答えに「何してんのよ」と呆れている。
「それ、半分ちょうだい」
「え。いや、いいよ」
「いいから。あたしの分と半分こ。ベーコン焼いてくるから、切り分けといて」
イヴはそう言って、一階へと下りていった。
アルヴィンは焦げパンは自分の皿に、焦げていないパンを切り分け二人の皿に盛る。カップに紅茶を注いで椅子に座る。
紅茶の香りを嗅いでいると、クレスが上がってきた。
「そうだ、アルヴィン。今日は配達も頼めるか?」
「郊外の教会ですか?」
「あぁ」
「えぇ~……」
「おい。何で嫌がる、下宿人」
「いや、あそこのシスターが、あんまり……」
「こっちだって苦手なんだ。やってくれたら、白パンの値段負けてやるから」
「え、いいんですか?」
「あぁ。今日も貧民街に行くんだろ?」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、配達行けよ?」
「……はは、わかりました」
クレスの提案に、アルヴィンは配達を了承した。
それからイヴが焼いたベーコンの入ったフライパンを手に、二階へと戻ってきた。
「焼けたわよー。二人で何話してたの?」
「教会の配達を頼んだだけだ」
「ふーん……。じゃ、アルヴィン、シスターによろしくね」
「はいはい」
「あとこれ、半分交換」
イヴは自分の皿にのせられたパンを半分切り分け、アルヴィンに渡す。
「いや、だからいいって」
「いいから、はい」
イヴはアルヴィンの皿に切り分けたパンを乗せ、焦げパンを取り自分の皿に切り分ける。
イヴはしてやったりといった表情で焦げパンの半分を返す。アルヴィンは得意げな彼女に呆れながら、パンを受け取った。クレスはその様子を頬杖をつきながら眺めている。
それから三人で朝食を摂って、朝の憩いの時間は過ぎていった。
―――――
工業都市ロンディニウム。この都市は灰色の空の下、霧と蒸気の漂い、その区域はほぼ工業地帯となっている。そこ以外の住居地帯にアルヴィンが下宿するベイカー家があり、表通りでパン屋として日々営業している。
そして都市に住む人間の大半は労働者階級、そのうちの二割は浮浪者や娼婦である。そんな者たちに加え、不良や掏摸といったコソ泥たちが集まっている一角が貧民街と言われ、経年劣化した家屋に崩れたレンガ、放棄されたゴミの山、下水道の悪臭が漂っている。
アルヴィンは教会への配達を終え、貧民街を訪れていた。手に提げた籠にはクレスから購入した白パンの塊、他の店で買ったドライジンにソーダ水、トマトに玉ねぎ、茹でたジャガイモが入っている。
荒れた通りに懐かしさを感じながら、目的地へと歩き続ける。足を進めていけば、河沿い付近へと到着した。排水溝付近であるため悪臭からここに人はあまり寄り付かない。そしてゴミにレンガが散らばり、草が生え散らかる一角に、ぽつん、と一軒の小屋があった。
馬小屋を歪ませ板を張り付けたような、隙間だらけの雑な造りの小屋であり、入り口には扉すらなく、中から塞ぐように板が立て掛けられている。
アルヴィンは小屋の入り口前に立ち、板を三回ノックした。
「エクトルさん、いるかー?」
ノックをして、声をかける。
すると板がずらされ、中から老人が現れた。禿げ上がった頭頂部に側頭部にはボサボサの白髪、口元と顎を覆う白髭もボサボサである。背が曲がり、裾が解れところどころ破れ汚れているよれたシャツとズボンに身を包み、履いている靴にもつま先が見えるほどボロボロであった。
一見すればただの浮浪者の老人だが、右足には木製の義足、左腕は錆びついた機巧義手が肩から先に着けられている。機巧義手自体は上流階級から上位中流階級の者で身に着けている者がいるため珍しいものではないが、老人はそのどちらにも見えず片足片腕という点から目を引いた。さらにその義手は表面の部品が剥がれ、内部構造の骨組みや歯車が見え、軋んだ音を立てている。
老人は額に着けた黒水晶のゴーグルを目元に合わせ、訪問者へと目を向ける。
「ああ、アル坊かい。どうした?」
「昼メシ、持ってきたよ」
アルヴィンは老人、エクトルに対し朗らかな笑みを浮かべながら手に持つ籠を見せた。
エクトルは呆れたように笑い、小屋の中へとアルヴィンを招き入れた。
アルヴィンにとって貧民街は生まれであり、招き入れられた小屋は実家であると言えた。そしてエクトルは育ての親である。物心ついた時には、この小屋で今と同じように一緒に食事を摂っていた。
二人は食事を摂りながら――テーブルなど無いため、籠を床に置き、布を敷いて座りながら会話をする。
「前にも言っただろう? 別に気にかけなくていいって」
「俺も言ったじゃん。別に気にしないでいいって」
「茶化さないで、ちゃんと聞きなさい。いいか、アル坊。お前はちゃんとした暮らしができるようになったんだから、私みたいなのに関わらず自分のことだけ考えなさい」
「そんな寂しいこと言わないでよ。それにそんなこと言いながら食べてるじゃん」
「殴り合いしてまで用意してくれたんだろう? だったら、受け取らない方がお前にとって骨折り損だろう」
エクトルの言葉にアルヴィンは喉を詰まらせる。まさか知っているとは思いもしなかった。
「ここ最近、拳闘試合で稼いでる若い男の噂を聞いたんだ。ここあたりはそういう話をよく聞くからね」
「そ、それが俺だって証拠は?」
「まぁ、勘だが。私の目を見て出場してないと本当に言えるか?」
「…………うん、まぁ、俺です」
親からの詰問に子は無力である。アルヴィンはエクトルの視線に顔をそらしながら答えた。
「アル坊、もっと自分のことを考えなさい。お前には危ないことをしてほしくないし、幸せになってほしいんだよ」
「でも、こうしてエクトルさんとメシ食うのは幸せだよ。だから、まぁ、金も要るから、また出るけど……」
「金は気にしなくていいぞ。いざとなったらこの銀歯売るから」
エクトルはそう言って、歯を見せる。加齢とともに変色したであろう歯並びの中、上下の犬歯のみ鈍く光る銀歯であった。
「売れるの? それ」
「純銀製だから使用済みでも価値はあるぞ」
そこまで言って、左の義手で茹でたジャガイモを布で包んで食べようとする。しかし、義手からジャガイモが滑り落ちる。アルヴィンはそれが床に落ちる前に掴み、エクトルへと返す。
「その義手も、何とかしないとね」
「まだ使えるからいいさ」
互いに笑い、ドライジンとソーダ水の入った瓶で乾杯をして食事を続けた。それから思い出話や近況報告を続けていった。
下宿先で仕事をして、育ての親と時間を過ごして、たまに拳闘試合で金を稼ぐ。
これがアルヴィン・フランにとっての日常であった。
―――――
拳闘試合場の廃工場にて。
再び試合が行われる真夜中、ブラックウッドと胴元が稼ぎの話をしている部屋に手下の二人がノックもせずに入ってきた。
一人は慌ただしく、目に見えて焦っている。もう一人は怯えている手下に肩を貸され、首元から血を流し、血色が悪く目に見えて死にかけている。
「ぶ、ブラックウッドさん! た、助けてくれ!」
肩を貸している手下が助けを求めた。ブラックウッドは葉巻を吸いながら、鬱陶しそうに眉を顰める。
「何だ? 何があった?」
「わ、わからねぇんだ! ただ路地裏で、いい、いきなり訳のわからねぇ奴に襲われて、こ、こいつ噛みつかれて」
手下の要領得ない説明にブラックウッドはイラつくが、噛みつかれた、という言葉に引っかかった。
すると死にかけている男の呼吸が止まった。そのことに気付いた手下が呼びかける。胴元は死んだな、と思いつまらなそうに見ているが、ブラックウッドは机の引き出しを開け、中のものを取り出す。
手下が呼びかけに応えない相手が死んだことを理解した時であった。
死んだ男が、肩を貸す手下へと噛みついた。
「え」
じゅるり、と音がした。
噛みついた先、手下の首筋から死んだ男が血を吸いあげる。
じゅるり、じゅるり、と吸い続けられる。
血を吸われる手下はもがき苦しむ。喉を喰い破られ、血が溜まり赤い泡が口から漏れていく。そしてその肉体は干上がるように、乾いていく。
ぶつり、と首筋の肉が切れた。手下の死体が床に崩れ落ちる。
血を吸った男は深く息を吐き、獣のような唸り声を上げながら、ブラックウッドと胴元の方へと振り向いた。
口元は血まみれ。その口には鋭く獣のような尖った牙。目は充血し、理性を感じさせない。
その姿はまるで――――
「っあああぁガァァッ!!」
「ひぃぃぃっ!?」
男が叫び、胴元へと飛び掛かろうとした。
しかし、銃声と共に足を打ち抜かれ、床に倒れる。男が銃を撃ったブラックウッドを睨みつける。しかし、その途端、苦しみだした。
ブラックウッドの手には右に銃、左には十字架が掲げられていた。十字架を向けられた男は、眩い光を浴びたかのように顔を覆い、のたうち回る。
胴元は苦しむ男から距離を取り、ブラックウッドの背後に逃げる。
「おい、逃げるな。縄でも鎖でもいいから、何か縛り付けるものを持ってこい」
「へぁっ!? し、しかし、ブラックウッドさん、こ、こいつは……?」
胴元は目の前で起こったことに恐怖を覚えていた。
今目の前にいるこれは、この怪物みたいになったこれは、何だ、と。
その疑問にブラックウッドは答えた。
「こいつか? こいつはな、吸血鬼さ」