日記もしくは制作白書のようなもの
(時系列がぐちゃぐちゃしていてややこしくなるけれども、これはかつて「遊園地」を書いて、かつその後に続くファンタジーを書いていた時に書いたものです。
この遊園地の続き物は「薄明の場所」よりも前に書いたもので、fという魔法使いの青年が登場していました。このfという魔法使いの魔法の原理は薄明の地でOが説明したのと同じです。つまり、「遊園地」と地続き(もしくは足掛かりにするかたち)で「薄明の場所」を書いていたわけです。それは魂胆があってそうしたわけではなく、作者が行き詰った時によくやる手段で、後々から話と話をドッキングさせてどうにかこうにか続きを書けやしまいかという、希望から出た結果です…。その点はひとまず置いておいて、今ここにあげる文章は、その「遊園地」の続き物で魔法の設定を考えた時につらつら考えていたことです。
…「薄明の場所」で“名前”や“魔法”といった話が出てきた時に、「ゲド戦記」を思い浮かべた方はいたのではないでしょうか。実際作者は大いにゲド戦記の設定を意識しています。これはその言い訳と言いましょうか、作者の経験と言いましょうか、そう言うことを雑然と書いたものです)
日記もしくは制作白書のようなもの
目次でいうと『幽霊』くらいのところまでの短編につもりで書いていた。遊園地で母と妹のトイレを待っている間に兄と乗り物に乗りに行って、母が大変不機嫌になった、というのは実体験。その後母もああまで強情にはならなかったし、私も逃げ出してはないけど。そんな実体験をもとに、なにか意味深なものでも書けないかなと書き始めたものだった。それが、『幽霊』以降ファンタジーに振り切ろうとしている。これをもとに、かつて考えた登場人物やら書ききれずにひっこめた物語やらを復活させられないか、という欲からである。トパスやゾムやジプサムやセラフィナやモリオンやネフやモルダなど。
でもそんなもとよりファンタジックな登場人物たちを登場させるには、ファンタジーの土台が必要である。つまり異次元世界の設定を考えなくっちゃいけない。そんなの無理。というわけで、“真の名前”など「ゲド戦記」を参考に・・・というかパクってしまった。参考にした、とも言いたいけれど・・・やっぱりパクっている。
しかし「魔法」なんてものをどう書いたらいいものか分からない。魔法使いじゃないもの。でもいっこ、物語の中にもそういう現象を存在させるなら、どうしてそれが存在させられるのか、それなりの定義がないと、胡散臭すぎて、力も力じゃなくなるだろう。故にむりくりにでも考えなくちゃいけない。さあ魔法ってなあに?
…でも力のあるものってなあに?ということはこの物語を発端にじゃないけれど考えたことはある。
前に暗闇の旅人というのを書いていて、女神様だの神獣のようなものなど書いていた。
例えば、暗闇の世界の西の果てに広い森があって、そこにネフという女神が棲んでおりまして、
「あれはこの闇の森を総べる女神ネフだ。ネフはこの世で最も古い神様の一人だと言われている。あれが本気を出したなら、この暗闇の世界に光を取り戻せることもできるといわれている」
とこれを紹介する人物が言う。するとこれを読んだひとは、ああネフとはとても力のある不思議な力を持った人物なのだな、と想像してくれるだろう。しかしなぜ、と書いた本人が根本的に思っている。なぜネフはそんな力があるのかと。つまりそれはどういう生まれで、どういう経緯でそんな力を手にしたのか、と。そもそも「神様」とか「神獣」とか、なぜ力があるのだろうか。「力がある」とはどういうことなのか。
不思議で超然的なものを書いておきながら、その根本的なところを確立させていない…そんな無責任な登場人物を書くのは、作り手としてちょっとしんどいものがあった。そこで力とは何か訥々考えたことがある。
結果、思い付いたのは「永遠」を持っているものは「力」があると言っていいんじゃないかということ。
例えば世に良品として出回っているもの――老舗の精密時計とか研究開発を何度も重ねて造られた繊維素材でできたスポーツウェアとか――を、素人が持ったとして、整備や手入れを怠ってもそれ自体が永く性能が損なわずに品質を保っているものは、一流の品の証しのはずだ。つまりそれが「力」じゃないかしらん、と。
完璧なものを作れば崩壊の始まりだ、と考える精神もある。では完璧なままそれを永く保ち続けるものは、神様といっていい、神秘の力を持ったものとして存在していいのではないかしらん。
それと魔法の原理とは話が違うけれども、根拠は大事だ、という意識で物を書いているつもりであります。
さて魔法の話に戻って、やっぱりもう少し自分で考えてみたいとも思う。
ところで「魔法使い」というのも不思議なものだ。テレビや漫画などで知る魔法使いは、いつも杖一つ振り回して超常的なことをやってのける。しかし、いざ現実の世界で棒切れを回してみるとどうだろう。何が起こる。何も起こるわけない。現実の世でそんな仕草しようものなら、周囲から狂人か変態だという目で見られておしまいだ。
では、狂人ではない魔法使いを造り出すにはどうしたらいいのかしらん。
ここで注目すべきは呪文なんだろう。杖や棒を振り回すと一緒に唱えられる言葉、もしくは陣。これに大きな要素が詰まっているんだろう。そういう点では、作者にとってゲド戦記の「真の名前」というのは分かりやすかった。
またちょっと話は逸れるけれども、自分が一番最初に長い文章で書いた物語は「もくもくの君へ」という物語だった。この物語は一切登場人物の名前が登場しない物語だった。この世は独りぼっちだ、すべてはあるように在るんだ、というぶっ飛んだ哲学を以って迷い込んだ、十代の偏屈少女のお話だった。ちなみに少女の視点、少女の一人称で語られていた。
話の筋はこうだ。ある少女が不思議な浜辺に迷い込み、「本当は魚に生まれるはずだったんだけど、神様が間違えて人間にしてしまったんだ」という不思議な青い目の少年に出会う。その浜はいつも無人で、背後は深い森に閉ざされて、その場所を出ようにも道がない。夜眠って目を覚ますと、毎日別の浜辺に場所を移動しているというラビリンス舞台。作者の大好き、飢えも渇きもない超然世界。このお話はつまるところ少女の精神世界のお話で、喋るサメや、宙に浮かぶ人形などが登場する。サメはいつも少女に付きまとって「こんな寂しいところにいつまでいるつもりだね」とじくじく責め立てる。地に足のつかない人形は現世を謳歌する人間の代表になってリア充ぶりを自慢してくる。また、時折浜辺に出現する一軒家の老婆というのと、もうひとりの私、というのがいて、こちらは少女に寛容な立場だったりする。
世の果てのような無人の浜辺に迷い込み、世離れした少年の夢をふわふわ応援して、毎日別の浜を旅しながら、のんびり過ごしていたいはずの少女は、しかしサメや人形の横槍につつかれて何時しか追い詰められていく。そうして終に少年は魚にかえると海に去って、少女はたった一人浜に取り残される。
ところで少年が魚にかえる条件は、少年曰く「海の声」がはっきりと聞こえた時。少年は海に潜ると、海の声が聞こえるという。海の声が何と言っているのかはっきり聞こえた暁には、自分は海に還れるという。そして海の声は日に日に大きくなっている。
少女は少年と別れた時、これがこの人物にとって一番の願いであり幸せなのだからと納得しようとしたが、どうにも取り返しのつかないことをしてしまったような悲しさが残る。そして少年が去った日から浜辺の夜が明けなくなる。
少女はこのまま暗い浜辺に永遠に独り取り残されるのかと怖くなって浜を彷徨うが、そこで一軒家の老婆に出会う。老婆はいつも優しく少女に味方する存在だったので、この老婆を見つけて安堵するが、ここで老婆の異変に気が付く。老婆は弱っていて今にも息絶えそうな状態で「自分のようになってはいけない」と少女に繰り返す。苦しむ姿と、異様な状況に心配して少女は駆け寄るが、そこで驚くべきことに気が付く。なんと老婆の足は、床から生えた一本の樹の幹で、浜で唯一飲み食いの姿を見せていた彼女が、樹に変容としているのであった。そして終に老婆も沈黙してしまう。
さてまた取り残された少女のもとに、もうひとりの私 が現れ「ここを出ろ」という。つまり道なき不気味な森を抜けていけと迫る。しかし、もうひとりの私 は、突然にあの不気味な森に入ってそこを歩き続けろというのは、さすがに酷であろうと、少女にもっと明確な使命を与える。
もうひとりの私 は老婆の家にあったランプを手に取り、その光源を見せる。それは青い光を放つ玉で、これと対になったものがもう一つあるから、それを探し出せという。そうして少年の名前を呼んでやれ、という。そうすれば少年は再び陸に帰って来る、と。
さて、最初に書いたようにこの物語には誰の名前も呼ばれない。サメは「サメさん」と呼ばれ、人形は「お人形」と呼ばれ、老婆は「おばあさん」で通した。一方が一方を呼び止める時は、ねえ、か、あなた、か、きみ、で押し切った。
この物語の中で名前を出さなかった理由には、名前を定めてしまうことで誰か特定の人物に限定されるような感覚が作者にあって、これが生理的に嫌だという感情が強く作用していた。匿名でありたかった。また誰にでも当てはまってくれるような、漠然とした物語であってほしいという希望もあった。作中の少年と少女は互いの素性など知りたくないという意思のもと、互いに決して名を尋ねなかった。
物語の筋に戻って…。
もうひとりの私からランプを受け取り、終に森に終に繰り出していく少女。しかしどれだけ行けども森から脱することもできない。青い珠の片割れも見つからない。途方に暮れ絶望する少女は諦めて森の中に倒れるが、それを責めんと再び現れるサメ。歩き続けろと叱咤しながらも先導を勤めるサメに励まされて再び歩き出す少女。終に森の一角で青い光源を発見し、言われた片割れだと悟る。安堵とくたびれで少女は眠りにおちる。
夢の中で少女は海を泳いでいる。深い海の深みを覗き込みながら、以前にもこうして泳いでいたことがあるようだと思う。そしてその耳に歌うような不思議な声が聞こえている。海の底からその声はいよいよ大きくなって、終にはっきり聞こえる。それは一言、少女の名前を呼ぶ。
少女は再び森に目を覚まし、そこに海に還ったはずの少年が立っている。「海の声を聞いたよ」と少年は言う。「それは君の声だった」と。と、そこへ もうひとりの私 が現れて、もう出口が近いからふたりで行きなさいと、さらに続く森を指さして告げる。ふたりは手を取り合って森の中へ再び歩きだす。もうひとりの私 は去っていく二人を見送っているが、そこへサメがどこからともなく現れる。サメは変わらぬ寸鉄を 私 に浴びせていく。「気を付けるがいい。わたしはわたしをも憎み否定する怒りに満ちた存在だ。君の知らない、君を評する怖ろしい言葉をいくらでも知っているのだから」と。そして少女と少年の後を追ってサメも消えていく。
サメをも見送り、もうひとりの私 は夜の明け始めた空に浮かぶ月を見上げて手をのばす。「きっと変わっていけるわ」…ジ・エンド…みたいなお話。
これは大分前に完全に消してしまった。原本のようなものもことごとくない。とうのは、先にもいったように匿名でいたかったのに、どうしても物語を完成させるうえで少女がなぜこの世界に迷い込んでしまったのかを書かなければならなかったからだ。
この物語の主人公は完全に学生時代の自分がモデルだった。つまり物語を完成させるために、自分が陥った青春の恥ずかしい葛藤を描き晒さなければならなかった。この部分を例えばそれらしい別な問題にすり替えられたらよかったが、そんな想像力は無かったし器用でもなかった。この世は独りぼっちだ!と思い悩んだ作者は、つまり他人の感情や経験なんて全く掌握しがたいことだった。そして経験のないことを書くのは苦しいことだった。だから自分の経験を書いた。見た目の美醜に囚われて惨めだったこと、摂食障害だったこと、両親の溜め息など。そういうものも書いて完結させたが、やはり恥ずかしくなって、もうええわい!と消してしまった。構成はよく覚えているけど、もう一度書ける気はしない。何よりあの時ほど海に傾倒した感覚を書けない。
世界はひとりきりのもの。
全てはあるように在る。
当時物語を書きながら、少女が振りかざした二つの哲学が根本的に別ものだということに気付いたように思う。
私の感情は私だけのものだ、私が苦しいと思ったからこの苦しみは正当なんだ。
でも、実際は誰も理解してくれないので、自分という存在はただあるように在るだけのものなんだ。
これが二つの言葉に当てはまる少女の気持ちで、かつ少女は思うのである。でもそれならそれで好ましいと。空に浮かぶ雲のように、道端の一本の樹のように、ただ黙然とあるとはなんと潔くて美しいことだろうと。しかしこれにサメが作中、以下のようなことを言ったのだ。
「世界が一人きりなら、誰が君の名前を呼ぶんだ。ただあるように在るとは存在しないも同然じゃないか」
みたいな。
いやもうよくわからないけれども。
…とにかく、拙く、こんがらがりつつ、このような自分の体験として「名前」というものにそれなりの意味を見出して呑み込んでいるつもりである作者である。だから、ゲド戦記の真の名前というのがとても胸に刺さった。今回、魔法の原理に使うならば、やはりこの「名前」という要素は私にとって扱いやすいと思い、取り入れた。
でもーーーゲド戦記の魔法の要領以外にどう使ったらいいのだろうとも思う。少しは独自路線の魔法も考えるべきであると。
作者は仕事の行き帰りなどふとするとそのことを考えているのである。
駅のホームで電車を待っている。冷たい春先の風が吹いている。ついと斜め下に視線を投げて、さてこの風を自由に操れるとしたら?指先をひゅいと動かして、自分の意思に従わせられるとしたら?どんなものが生まれるだろう。どんな力が必要だろう。
白昼の駅のホームでそんなことを、もっともらしい顔をして思案している人間がいるのである。世の中不可思議ですね。人の心はそりゃあわからんぜよ。
さてそうして想像し得る、自分が動かし得る風はごく一握りの囁かなかぜだろうということ。例えば向いのホームのおじさんの帽子を吹き飛ばしてイタズラできるくらいの可愛らしいもの。ではそれでいいとして、どうやったら風はこちらの意思に従ってくれるのだろう。
考える。
思いつく。
容の無い風に明確な容や意思を与えられることが出来たら、もしかしたら風自体もその変容を楽しんで、嬉々として働いてくれるやもしれない、と。ギブアンドテイクの考えは大事だと思う。
そうして、fがアパートの部屋の中で使った魔法が生まれるのだけれども。
真の名前を以ってそれらを組み合わせ、新しい精霊を創り出す。創造主になるということは、それ自体を従わせることも容易であろうと思う。超常的に何かを操る、魔法使いの立場に充分あてはまる存在になれるのではないかしらん。
ゲド戦記では(読んだのは六、七年前であまり細かな内容は覚えていないのでウィキる・・・)“この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島海で、(中略)主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「真の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。”という。
確かに「名前」というものが出てきた以上は必然名付け親の存在を考えなくちゃいけないと思う。作者はセゴイの代わりに、竜をその役に当てさせていただきました。
こういう構成がパクリなんだよな。あーどうかもうちょっと独自に考えられないか。息が詰まりそうだ。
さて竜といえば、今度は映画「ホビット」に出てくる、ドワーフのねぐらに棲みついたスマウグが頭に浮かぶわけで、「指輪物語」の中でガンダルフが言った「---しかしこの地上には、それだけの熱を持った古い火を体内に燃やしている竜は、もはや残っておらん」というセリフを思い出すわけで、この度はそれらを元に、手に余るような時代スケールで竜を生んで、森羅万象の名付け親にしてみた次第であります。
さてここまでつらつらと書いて、こういうふうにエッセイ?のような形でものを書くのは自分でもとても珍しいと思う。そういうことをさせたエネルギーは、他ならず、パクりすぎだろう、という恥ずかしさ、息苦しさ、不甲斐なさからだ。いつか、もうちょっと工夫を思いついたら、別なものに変身させたい。今は、書きたい登場人物を登場させる舞台を作るために、このまま様子を見ていただきたい。
(ここまで話が固まってきたら別なものに変身させられない、と開き直りつつある最近
です)
(「遊園地」の続き物ってなんだ、と思われるかもしれませんが、それについてはさらに書けるかどうかわからいものなので、そういう話があったんだな、くらいに思っていただければ幸いです。「薄明の場所」がもう少し進んで、やっぱりfやそれ以外に登場した人物が必要になったらまた触るかもしれません)
(当時のなんだかへべれけな感じの文章を少しばかり修正しました。実際当時、お酒でも飲んでふわふわした頭で書き出したかもしれません。そんな自分は充分想像がつく)
(ところで大概においてこのような独り言の文章はみっともないからやめておくべきなんだと、後々ひどい後悔に胸を捩られる作者です。いつかまた不意と消してしまうかもしれません。悪しからず)