呪いでシマリスに変えられた聖女は、冷徹騎士の溺愛を知る
ここはオーロミー王国王都。この国が聖なる国と呼ばれる理由、それは──
(今日もあの冷徹な騎士様に会わなければならないのね。それにフロイデも……気が滅入るわ……)
そうトボトボと一人廊下を歩くのは、この館の主スクウェール伯爵の娘レティシア・スクウェールだ。
茶色の髪に目じりが下がったアーモンド色の瞳という、内気そうな少女はいつものように溜め息をつきながら歩いていた。
「……来たか。聖女殿」
「おはよう、ございます」
(どうしてこんな方がわたしの騎士に……聖女のスキルなんて授からなければよかったわ)
いつも通り見送りのない早朝の玄関ホール。今日も彼女は聖女の役割をこなしに大聖堂へと向かう。
今このホールの中にいるのはレティシアと彼女の護衛騎士の二人だけだ。これでも朝が弱い義妹がいないだけで……と聖女らしくもないことを考えてしまいそうになる。
騎士の名はヴィルヘルム・スニーヴァイス。スニーヴァイス公爵家の嫡男だ。夜闇を思わせる黒髪は短く整えられており、吊り上がったアッシュグレイの瞳は今日もどこか不機嫌な様子を醸し出していた。
ふつう、嫡男が騎士職に就くことはほぼない。しかし、聖女あるいは聖者の護衛騎士は一種の名誉職だ。彼もまたそうした理由から護衛騎士となっているのだとレティシアは思っている。
しかし嫌々やっているぐらいなら、他の方に護衛騎士の座を譲ってほしいものだ。そうレティシアが思ってしまうのも仕方のないことだろう。
週に一度ある安息日の前日と、翌安息日の午後だけが彼と顔を合わせなくてもよい──レティシアにとっては至福とは決して言えないまでもマシな時間だった。
洗礼を受けた十歳の誕生日から七年、嫌そうにしている彼とほとんど毎日を過ごしている。根が真面目なのか、不機嫌な顔をしながらも彼が休んだ覚えは一度もない。むしろレティシアが何度か体調不良で寝込んだ。
(ホント顔はいいし、仕事態度も真面目なのに。どうしてわたしにだけこう……嫌そうな顔をするのかな? そんなに嫌ならやめればいいと思うけれど)
無言で過ぎていく二人の日々。他の人に向かっては朗らかな笑顔を見せているのに、レティシアに向けるのはいつも冷たい視線だけ。
そもそも、なぜそんな彼がレティシアの護衛騎士をしているのか。聖女の護衛騎士が名誉職というのもあるだろうが、彼の病をレティシアが聖女のスキルで治したのも理由ではないかと思っている。それをどのような気持ちで受け取っているのかは、レティシアの知るところではない。
しかし、いずれにせよ嫌々やってもらう義理はないのだ。それとも楽だからとか自身の栄誉のためだとかいう理由で嫌々やっているのか。
レティシアがヴィルヘルムに尋ねないのは、かつて理由を聞き出そうとした時に一層冷たい視線を向けられたせいだ。だから、これは全部レティシアの推測にすぎない。
それでもなお、ヴィルヘルムが本心ではレティシアのことなど面倒くさいと思っているのだと、彼の態度はそうレティシアが信じるには十分だった。
──そう。今日この日までは。
レティシアはいつものように、大聖堂に次々とやって来る民のお願いごとに耳を傾ける。すべてのお願いで聖女のスキルが必要となるわけではないのだ。むしろ話を聞いてほしいとか、最近はそういった話が多い。いわゆる話し相手。
この日も一日の仕事を終え、ヴィルヘルムと向かい合って馬車に乗る。伯爵家の邸までつくと、彼はご丁寧にもいつも通り玄関の扉を開けてくれるのだが。
「お待ちしておりましたわ! ヴィルヘルムさま!」
「今日も君の義姉君はよく務めてくれていたぞ」
「そうなんですね! それじゃああたしがいっぱい褒めます! だから、ヴィルヘルムさまはあたしをいっぱい褒めてくださいね!」
「……ああ」
玄関ホールに二人が足を踏み入れて早々、ヴィルヘルムに猫なで声で話しかける少女。
彼女の名はフロイデ・スクウェール。父親譲りの金糸のように華やかな髪に、同じく父親譲りの青い瞳をしている。
レティシアとフロイデ。スクウェール伯爵家の二人の娘の関係は少々複雑だ。
かつて、現スクウェール伯爵——つまり二人の父親だ——のもとに、聖女と呼ばれたとある貴族令嬢が嫁いだ。二人の間に生まれた子がレティシアだ。
しかし、彼女の容姿は母親のそれにそっくりだった——そして、父親たる伯爵にはちっとも似ていなかった——ため、伯爵がレティシアの母の不貞を疑ったのだ。
結局、体力のなかった彼女は産後の肥立ちが悪く、衰弱して死んでいったらしい。
その後嫁いで来たのが伯爵の後妻だ。フロイデは伯爵と彼女の間に生まれた子で、伯爵は自身に似た娘が可愛くて仕方がなかったのだという。
彼女が現れたことで、レティシアはぞんざいに扱われるようになった、らしい。
「らしい」というのは、レティシア自身、幼すぎて事情をよくわかっていないのだ。洗礼を受けて聖女だとわかってからはだいぶマシになったことだけは覚えている。それでも優先されるのはフロイデ。いつも、いつも。
唯一フロイデが欲しがってもなお、レティシアのもとに残ったものといえば聖女の地位ぐらいだ。さすがの伯爵も明らかに社交界で後ろ指を指されることはしないらしい。
とにかく、レティシアとフロイデはそれぞれ母が違い、伯爵は自身によく似たフロイデをひいきしていたといえばよいだろうか。
そんなフロイデからの好意をまんざらでもなさそうに受けるヴィルヘルム。その様子をここ最近ほとんど毎日のように見せられるようになったが、苦痛でしかない。
実は彼が護衛騎士をしているのはフロイデと会うためではないか、とレティシアが自嘲してしまったのも仕方のないことだろう。
「それでは、フロイデ嬢」
「はい! またお話してくださいね!」
ニコニコと愛想よくするフロイデに微笑みかけ、その後レティシアを一瞥するとヴィルヘルムはスクウェール邸を後にした。
途端に可愛らしい笑みを浮かべていたフロイデは笑顔を消し、不機嫌な顔をレティシアに向ける。
「おねえさまったらホント悪女よね」
「えっ?」
「聖女だからという理由でヴィルヘルムさまを縛りつけておいて……あたしの婚約者にぴったりのお方なのに、おねえさまの護衛騎士をやっているせいで大好きなあたしと結婚できないんだもの。そんなの可哀そうじゃない」
「スニーヴァイス様はわたしのことなんか──」
「おねえさまのいじわる! 嘘つき! そう、それならあたしにも考えがあるわ!」
ウフフと満面の笑みでそう告げるフロイデ。彼女は鼻歌混じりに自室へと向かった。ホールに残されたのはレティシアただ一人だけだ。
(絶対、ろくでもない考えに違いないわ……)
もちろん、レティシアの嫌な予感は残念ながら的中することになるのである。
☆☆☆☆☆
その日の夜。レティシアはだらしなくも自室のソファに横たわりながら考えごとをしていた。
いつも不満ばかり言いながら自分とレティシアのおかずを勝手に交換していくフロイデが、やたら笑顔で「今日はおねえさまが好きなものを食べるといいわ! あたし我慢してあげるから」などとのたまった。
帰宅した時の様子といい、今日の彼女はどこかおかしくなってしまったのではないかと思うレティシア。少なくとも「いじわる」と言った後でその相手に善行をほどこすなど、怪しいことこの上ない。
レティシアがそう考えていると、部屋に響くのはノック音。フロイデの声が聞こえたので仕方なく扉を開けてみると。
「おねえさま、こんばんは!」
「その方は、どちらさま?」
「おねえさまはダメね! 挨拶をされたら挨拶を返さないといけないのよ!」
そう。そこに立っていたのは義妹のフロイデと、見ず知らずの薄汚れた服装の男だった。夜に来客があるなどとは聞いていなかったレティシアが疑問に思うのは当然だ。
「フロイデ様はまったく、闊達な方でいらっしゃる。それに対し……おっとこれは失礼。ご自身の悪い噂など、耳にしたくはありませんよね? レティシア嬢」
レティシアの脳内に警鐘が鳴り響く。しかし、もはやレティシアになす術などなかった。どうしようと思った次の瞬間には、足元に魔法陣が描かれていたからだ。
「フロイデ様からのご依頼です。貴女には消え去っていただきますよ……ハァ!」
「──!」
身体が焼けるように熱い。苦しい。レティシアの足元の魔法陣から立ち上がる紫色の炎が、彼女を少しずつ苦しめていく。
助けを呼ぶ声も出なかったが、出たところでどうせ誰も来ない。もしかしたら……と一瞬だけ自身の護衛騎士ヴィルヘルムのことが頭をよぎった。
しかし、彼は明らかにフロイデに傾倒している。男はレティシアに「消え去って」もらうと言った。どうせこのまま生きていても義妹にすべてを奪われるだけだ。どうせ、誰も──そう思いながらレティシアは意識を手放した。
最後に見えたのは、フロイデの薄気味悪い笑顔だった。
☆☆☆☆☆
(うーん……——ここは、どこ?)
外から聞こえてくるのは可愛らしい鳥の鳴き声。しかし、レティシアが目を開けるとそこに広がっていたのは──
(え!? 嘘、でしょ……?)
はたして、それはレティシアの寝室だった。しかし、それはレティシアが知っているものより広い。そう。レティシアは自身の寝室の一角に置かれた、鳥籠の中に囚われていたのだ。
家具の大きさといい、どうやら自分は小さくなってしまったらしい。そのことを確認するために籠の端に置かれた水入れらしきところに近づく。そこに映ったのは可愛らしい一匹のシマリスだ。
(……って、えぇ——っ!)
きっと、フロイデが連れて来たあの魔術師の仕業に違いない──とレティシアが記憶を辿っていると、廊下を走る何者かの足音がする。
足音はレティシアの現在いる寝室と繋ぎの部屋の前で止まったかと思うと、勢いよく扉を開く音が響く。やがて、寝室の扉も同様に開かれた。
そこに立っていたのはレティシアの義妹、フロイデだ。彼女は楽しそうにレティシアのいる鳥籠の方まで歩いてくる。そして、その中にリスの姿を見つけるや否や、レティシアに笑みを深めた。
「おはようおねえさま……じゃなくてリスさん! 本当はカエルとかもっと醜い動物に変えてもらおうかと思ったんだけど……死んだら呪いが解けて元の姿に戻ってしまうっていうから、そこそこ長生きしそうなリスにしてあげたのよ? あたしに感謝してね? あ、でももうおねえさまは人間じゃないから喋れないんだっけ? 使用人に鳥籠を買わせておいて正解だったわ!」
そのうちどこか遠くに逃がしてあげるからね、リスさん。シマリスに変えられたレティシアに向かって言い聞かせるように告げるフロイデ。
その時、いつものように馬車がやって来る音がした。
間違いない。この時間にやって来るのはレティシアの護衛騎士、ヴィルヘルムだけだ。
「あ! おねえさまがどこかに行っちゃったからあたしの婚約者になって、って言わなくちゃ。じゃあね!」
フロイデはレティシアにそれだけ言い残し、部屋を出ていった。
しばらくして、再び足音がレティシアの耳に届いた。一緒に、男女二人組が言い争う声も聞こえてくる。その声の主は間違いなくフロイデとヴィルヘルムだ。
「だから、おねえさまは家出中なんですって!」
「私が貴女の言葉を信じるなどとお思いですか?」
「だっておねえさまのこと、あんなにつまらなそうに見てて、あたしのことはあんなに……」
いよいよ二人がレティシアの部屋へと入ってくる。扉は先ほどフロイデに開け放たれたままだからノックはない。しかし。
「レティシア嬢? 入るぞ」
「だからおねえさまは!」
「君には言っていない」
ついに寝室までやってきた二人。昨日見た時にはあんなに仲のよさそうだった二人が喧嘩している。ヴィルヘルムがフロイデに向けている視線はレティシアに向けるそれと同様、いやそれ以上に冷たい雰囲気を放っていた。
「もう一度聞く。レティシア嬢はどこだ?」
「だから、わからないんですって! ほら、これがおねえさまが残していった置き手紙ですよ!」
フロイデが封のされていない手紙をヴィルヘルムに差し出す。もちろん、レティシアがそのような手紙を書いた覚えは一切ない。
ヴィルヘルムは中の便箋を一瞥すると、こう言い放った。
「──くだらん。他に何か変わったことは?」
「ないですよ。ですから、今日はあたしとデートに行きましょうよ」
「それこそありえない話だ──む?」
ヴィルヘルムは部屋の隅にいるシマリス——もちろんレティシアのことである——の存在に気づいたらしい。彼がツカツカと鳥籠の方まで歩いて来ると、フロイデも焦りながら同じくレティシアのもとへとやって来る。
「これは?」
「え……っと」
「レティシア嬢が飼っているのか?」
「そう、ですね……でも、おねえさまはいつもいないから可哀想な子ですよっ。あたしに言わせれば世にも素晴らしい聖女様なんて嘘っぱちです!」
「嘘っぱち、か……」
ヴィルヘルムは手を額に当てて思案し始めた。フロイデはひたすら「ヴィルヘルムさま~」などと甘ったるい声を出している。
やがて考えがまとまったのか、ヴィルヘルムがフロイデに向かって口を開いた。
「フロイデ嬢。この籠の鍵がどこにあるか知らないだろうか?」
「し、知らないですよ?」
「そうか……なら」
途中で言葉を切ったヴィルヘルムは鳥籠の鍵部分に手をかけ──力づくで破壊した。その様子にフロイデは驚きの色を隠せない。もちろんそれはレティシアも同様だ。
「大変可愛らしいお嬢さん。私と一緒に行きましょう」
「ヴィルヘルムさま……っ!」
「何度でも言う。君は関係ない」
フロイデに拒絶の言葉を告げるヴィルヘルム。彼の視線は今、真っ直ぐレティシアに向けられていた。
「彼女はレティシアが飼っていたのだろう? 彼女がいなくなった今、誰が世話をするというのだ?」
「あ、あたしがやりますよ!」
「信用できない」
レティシアは「ここにいてもろくな目に遭わないしスニーヴァイス様の所に行った方がいいのかも……」という思いのもと、彼の腕に飛び移った。
「いい子だ」
「──!」
そう言ってレティシアの頭を撫でるヴィルヘルム。彼の肩越しにレティシアが見たフロイデの顔は、驚きと憎しみに満ちた顔をしていた。
☆☆☆☆☆
レティシアはヴィルヘルムと共にいつものように馬車に乗る。いつもと違うのは、レティシアがシマリスの姿なのと、エスコートされるのではなく肩に乗せられて馬車に乗ったという二点であろうか。
ヴィルヘルムはいつもの席に座ると、レティシアが普段座っているところに彼女を降ろしてくれた。
「君のご主人がいつも座っている場所だ。どうだ? 気持ちいいか?」
そう告げるヴィルヘルムは、レティシアが聞いたこともないほど優しい声をしていた。どうして自分にこの姿を見せてくれなかったのだろう。
レティシアはシマリスになってしまった身体で一生懸命にコクコクと頷いてみせる。その様子に驚くヴィルヘルム。
「……賢いな、君は」
馬車が出発してからしばらくすると、ヴィルヘルムは独り言をこぼし始めた。
「レティシアがどこにいるのだろう? 元気にしているのだろうか。いや、彼女に限って無責任に逃げるわけがない。それに、あの手紙は彼女の筆跡ではなかった。フロイデ嬢が用意したのだろうか……会いたい。どうして私は彼女に『愛している』のひとことも伝えられなかったのだ? いや。今さら後悔してももう遅いな……」
突然の告白。もちろん、彼はシマリス以外誰も聞いていないと思っているのだろう。しかし、そのシマリスというのは彼のいうレティシア本人なわけで。
(スニーヴァイス様……どうしてわたしの前で言ってくれなかったんですか……っ)
もちろん、シマリスにされたレティシアはそんな思いを口にすることなどできない。かわりに彼女は馬車の座席にうつ伏せに寝そべり、頭を抱えた。
「君もレティシアの身を案じているのか?」
突然、ヴィルヘルムの注意がシマリスとなったレティシアに向く。彼女は立ち上がり、先ほど同様にコクコクと必死に頷いた。この際自分がレティシアなのだということは問題ではない。彼が自分の身を案じてくれていることが、嬉しかったのだ。
「そうか。私も同じだ」
そう告げてレティシアの頭を撫でるヴィルヘルム。その視線があまりに優しくて、このままリスでいた方がよいのでは……と思ってしまう。
(もとのわたしに戻ったら、きっとこんな眼差しを向けてはくれないだろうから……)
ヴィルヘルムの思いが本当だとしても。きっともとのレティシアに戻ってしまえば、彼の表情もまたもとに戻ってしまうだろうから。レティシアは心の中で静かにそう自嘲した。
馬車が止まると、レティシアの目の前にヴィルヘルムの手が伸ばされる。
レティシアはその腕をたどって再びヴィルヘルムの右肩に乗った。
馬車を降りたヴィルヘルムが一人で大聖堂に入っていくと、彼はたちまち大聖堂の皆に囲まれる。
「聖女様は?」
「リスちゃんかわいい~!」
「今日は一人なんだな」
「いなく、なってしまったのだ」
そう肩を落とすヴィルヘルム。当のレティシアは「ここにいるよ」と言いたくても言えないのをもどかしく思う一方、昨日の視線を思い出してやはりこのままでいたいとも思ってしまう。
昼食の時間。レティシアはヴィルヘルムの食事を少し分けてもらった。いつもと変わらない食事のはずなのに、おいしい。
「君は美味しそうに食べるな……」
そんな言葉と共にシマリスになったレティシアの頭を撫でるヴィルヘルム。このようなことを言われて忘れられるはずがあるだろうか。
レティシアにできることといえば、ひとり羞恥に悶えることだけだった。
☆☆☆☆☆
その日の夕方。レティシアがヴィルヘルムの馬車、もとい肩に乗せられて連れて来られたのはスニーヴァイス公爵邸だった。ヴィルヘルムの実家だ。
昨日からレティシアはヴィルヘルムの食事を分けてもらってばかりだ。
「ヴィルヘルム。そのリスはどうしたのだ?」
「彼女はレティシアが飼っているリスとのことでしたが……とても賢いのです」
そうヴィルヘルムに言われたレティシアは頬につめたグリーンピースを飲み込み、スニーヴァイス夫妻の方に目を向ける。続けて後ろ足で立ち、片足を下げながらお辞儀を披露する。シマリスになってしまってもなお、長年続けてきた挨拶はすっかり身体に染み付いてしまっているらしい。
「まあ本当……! まるで中に人が入っているかのようにお利口ね」
「──!」
スニーヴァイス夫人の言葉に、何かが落ちる音がする。レティシアが音の聞こえた方を向くと、その正体はカトラリーがヴィルヘルムの手から落ちる音だったらしい。
「そうだ。私はなぜ今まで気がつかなかったのだ。いくら今まで彼女と話していなかったとはいえ、彼女がリスを飼っているというなら私が知らないはずなどなかったのだ!」
「ヴィルヘルム? どうしたのだ。お前が敬愛している聖女様のことでも、きっと知らないことの一つや二つはあるはずだ。まだ婚約も申し込んでいないのだろう?」
「たしかに婚約を申し込めていませんが、私は別の理由から彼女がレティシアであると判断しました」
「ほう……」
「お二人のおっしゃる通り、この子はとても賢いのです。そう、人間と見紛うほどに」
たしかに、普通のリスはわざわざお辞儀したりしない。そうレティシアが納得していると、ヴィルヘルムは一人頭を抱え始めた。
「そうだ。つまり私は彼女の前で──」
途端、ヴィルヘルムの顔が赤く染まる。つられて、レティシアも恥ずかしくなる。先に落ち着きを取り戻したヴィルヘルムは目の前のシマリスに名を尋ねた。
「やはり、君はレティシア嬢なのだな?」
レティシアの動きが止まる。しばらくしてやっとのことで落ち着いた彼女は、身体を目いっぱいに使い頷く。
ヴィルヘルムはそんなレティシアの頭を優しく撫でる。彼の瞳からは涙がこぼれた。
その日の夜。二人はヴィルヘルムの寝室にいた。
「さて……これは黒魔術だろうな。ということは」
そこで一度言葉を切り上げたヴィルヘルム。レティシアが彼の方を見て続きを待っていると、やがて覚悟を決めたのか、レティシアの方を真っ直ぐ見つめて口を開く。
「レティシア嬢。キス、してもよいだろうか……?」
(き、キス……)
つまり、ヴィルヘルムは目の前にいるシマリスのことをレティシアだと理解した上で、キスしたいと求めているのだ。
動物と接吻するなど、レティシアが知る限りのこの国の常識から考えるとありえない。
それでもなお、キスしたいと言うのだから彼の覚悟──あるいは確信——は相当なのだろう。レティシアは今日何度目かの首肯を披露した。
「レティシア……好きだ──!」
この日のレティシアの記憶は、ヴィルヘルムのこの言葉を最後に途切れている。
☆☆☆☆☆
翌朝。レティシアが目を覚ますと目の前に広がっていたのは見知らぬ天井だ。大きなあくびをすると、レティシアの両手が壁に当たった。
(あれ? もしかして戻った……?)
自身の手を目の前に戻してみると、そこに映るのはまごうことなき人間の手。シンプルな夜着を着せられたらしい。
「目が覚めたようだな、聖女様。いや、レティシア」
「え?」
声の聞こえた方に目をやると、そこにいたのは。
「スニーヴァイス、様」
「ヴィルヘルムでいい」
「ヴィルヘルム様……?」
そうレティシアに名前を呼ばれたヴィルヘルムは微笑みを浮かべる。それはレティシアに向けられたことがない視線だ。
「私はずっと君が好きだったんだ。私と婚約してはくれないか」
「……どうして」
「?」
「どうして今まで優しくしてくれなかったんですか? わたし、ずっと寂しかったんですよ……っ!」
その言葉に、ヴィルヘルムはレティシアを包み込むように抱きしめた。最後にレティシアが誰かに優しく抱きしめられたのは、一体いつのことだっただろうか。
「すまなかった。私は君のスキルに命を救われたんだ。今の私があるのは君のおかげだ。その日からずっと君といたくて、護衛騎士になったんだが……」
「はい」
知っている。レティシアは高貴な服装をした黒髪の少年を覚えている。人違いではなかったらしい。
「君に『好きだ』と伝えるのが迷惑なのではないか、と思ってな……それに、きっと顔だってこわばっていただろう? 本当にすまなかった」
申し訳なさそうにするヴィルヘルム。しかし、レティシアの気持ちは収まらない。
「じゃあどうしてフロイデを……っ!」
「あれは別件だ。君について調べているうちに彼女が裏で有名な黒魔術師と関わりを持っていることがわかってな……その調査も頼まれてしまったんだ。彼女なら少しでも優しさを見せれば公爵家嫡男になんてコロリと転ぶだろうと予想していたが……これは手間が省けそうだ」
レティシアはそう口にするヴィルヘルムの顔が、とても悪い顔に見えた。
☆☆☆☆☆
いつも通り大聖堂にやって来たレティシア。ヴィルヘルムから昨日彼女が休んだ理由が大聖堂のみんなに知らされる。
「レティシア様。昨日はご無事で……」
「はい。昨日はヴィ、ヴィルヘルム様と──」
「皆。黒魔術師の尻尾を掴んだ。騎士団に連絡を」
レティシアがキスについてふれるか迷ったところで、ヴィルヘルムが口を開く。そのひと言で大聖堂内に緊張が走る。レティシアは彼に連れられてスクウェール邸へと戻ることになった。
ヴィルヘルムがスクウェール邸の扉を開く。すると、馬車が来たことに気づいていたのだろう。ホールには一人の使用人の姿があった。
「スニーヴァイス様……とレティシア様!?」
「今帰ったわ。何かあって?」
そう問われても、慌てふためく使用人。やがて、彼が廊下の方へと走っていったかと思えば、二階から誰かが降りてくる足音が聞こえてきた。
長年ここで暮らしているレティシアには、この足音に聞き覚えがあった。
「ヴィルヘルムさま! あたしに会いに来てくれたんですね!」
「ああ。君に会いに来たんだ──」
フロイデはまるで隣に立つレティシアの存在など忘れてしまったかのように、真っ直ぐと階段を降りてくる。彼女がヴィルヘルムにしがみつくと、ヴィルヘルムは口の端を上げてその腕を縛り上げた。
余計に慌てふためく使用人たち。ヴィルヘルムをとらえたはずの腕が逆に囚われたことに、フロイデは怒りを露にした。
「ちょっと、何するのよ!」
「君が黒魔術師に依頼したという話を聞いてな」
「ど、どうしてそのことを」
「彼女から聞いたのだ。なあ、レティシア」
「!」
フロイデのひゅっと息を飲む音が、レティシアの耳にも届く。口をパクパクさせているフロイデ。彼女が言いたいのは「どうして」ということだろう。
「黒魔術に手を、染めたのね?」
「え? シマリスに変える魔法なんて、黒魔術じゃないでしょ?」
「残念ながら黒魔術だ。口づけでもとの姿に戻るおとぎ話くらい、君でも知っているだろう? あの話で使われた黒魔術で、君は依頼した男にレティシアをシマリスに変えさせた。違うか?」
「そんな。なんで……」
ヴィルヘルムの答えに目を見開くフロイデ。彼女はどうせばれないと高を括っていたのだろう。
同時に、ぼろを着た一人の男が床に転がされる。その様子を見たフロイデの顔色が一気に悪くなる。
「どうやら私の予想通りだったらしい。──騎士団へ」
「はっ!」
黒魔術師と思わしき男が邸の外へと連れて行かれる。続いてフロイデもまた彼に続いて引きずられていく。
が、ヴィルヘルム「そういえば」という一言にフロイデを引っ張っていた騎士たちは足を止めた。
「聖女のスキルは清純な者にしか使えなくてな。このようなことになって非常に残念だが、君は聖女がスキルを失う原因となったのだ。君が呪いをかけたのだから仕方がない。そう軽い罰では済まないだろうな……話は以上だ」
ヴィルヘルムがそう言い終えると、フロイデは騎士達に再び連行されていく。後に玄関ホールに残ったのはレティシアとヴィルヘルムの二人だけだ。
静まり返ったホールで、ヴィルヘルムはレティシアにぽつりと呟いた。
「今日限りで君は聖女を罷免されるだろう。先ほどフロイデ嬢にはああ言ったが、君が聖女のスキルを失った最大の原因は私の勝手な行いのせいだ。私を恨んでもらって」
「──ヴィルヘルム様のバカ!」
「!?」
「どうして……どうしてそんなことを言うの!? あなたはわたしの護衛騎士じゃないの?」
レティシアのいつもより強い口調にはっとしたヴィルヘルム。彼は少し思案顔で何かを呟いた後、レティシアの方を向き直った。
「な、何ですか?」
「私に君を一生守る権利をくれ! ……結婚、してください──」
その言葉に、今度はレティシアが驚く番だ。しかし、彼女の答えは決まっている。
「はい。喜んで!」(あああ——! 恥ずかしい——!)
レティシアの答えに、ヴィルヘルムは笑顔で応じる。義妹のこと、伯爵家のこと。そして黒魔術師のこと……問題は山積みだが、二人なら問題なく超えていける。
レティシアはこれから訪れる彼との日々に思いをはせた。
そんな二人の名は社交界でも指折りのおしどり夫婦として、現在に伝わっている。
お読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ、感想、評価などいただけましたら幸いです。




