八ツ頭討ち
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ちょっと討伐されるモノが出てきます。
苦手な方は飛ばしてお読みください。
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夢の中にありて色彩を帯びたるものは予知夢なり──
遠い昔、兄に帝王哲学とかいうものを教えに来ていた導師が彼女に教えてくれた。あれはいつのことであったか。
ふと渇きをおぼえて目覚め、彼女はたったいままで見ていた夢に思いをはせる。
ひどく懐かしい感じのする美しい女。顔立ちははっきりと見えなかったが、絶世の美女であることを彼女は知っているのだ。
ぬけるように白い肌。対照的なのは夜の闇よりも色濃い丈なす黒髪とあざらかな紅の唇。涼やかな目元、その瞳は左が青で右が銀だ。
夢の中で彼女は彼女の名を呼んだ。
だが、何という名であったか、目覚めた後では思い出せなくなっている。彼女もまた彼女の名を呼んでいたが、それはいまの名前ではなかったということしかわからない。それでも、夢の中ではその名を自分のものとして受けていた。
このあたりから彼女は少し混乱してくる。
夢での自分は、名前ばかりではなくその姿も、いまとは違っているのだ。
顔かたちそのものは、もともとが夢だけにわかりかねるものではあるが、髪の色──そう、いまの彼女にとってその外観的特徴の最たるものとなっている髪の色が、異なっていたのだ。
彼女の髪は淡い青色をしている。水竜王族の血を引くがゆえの、まさに水色の髪。ところが、夢の中の彼女は、かの美女と同じく黒髪だった。
導師が教えてくれたように、あれが予知夢であるのならばそれは来世での姿なのかもしれない。しかし、と彼女は思う。
夢でのあの美女との語らい。そしてその後に何が起こったのか、すべて知っているような気がするのだ。いったい予知夢というものは、それほどまでに先を見通せてしまうものなのか? 来世というよりはむしろ前世、過去の出来事のように思えるのはなぜだろう。
「……埒もないことを」
思惟を押しやるようにつぶやくと彼女は再び目を閉じた。
「あいにくとねぇ」
しっかりと栄養分を蓄えこんだ体つきの宿のおかみは、ふたりを冷ややかに見下ろしながら言った。
「うちではお足がない人には食事させることはできないわねぇ。寝室にしても同じことよ。こちらも商売だから」
「だったら、お皿洗いでもお掃除でも何でもします、おかみさん。一晩だけでいいんです」
姉とおぼしき少女が懸命に頼みこむ。が、おかみは無情なものである。
「あらそう。でもこの水不足でねぇ。お皿を洗うにしても大事なお水なんだから無駄のないように使わなくちゃいけないのよ。となると、おいそれと手伝いは頼めないし」
「いいじゃねぇか、おかみ」
それまで一杯の酒をちびりちびりとやっていたあぶれ傭兵の群れから一匹、口をはさんだ。
「何でもするって言ってたぜ。そんなら若い娘っ子にゃあそれなりの稼ぎ口があるぜぇ」
「おれはそっちの弟のほうでもいいぜ。えらく可愛いじゃねぇかい」
すかさず仲間ものってくる。
「う、うちは健全な宿屋なのよ。ふしだらな真似をしてヘンな病気でもばらまかれちゃ、困りますよっ」
すぐにその意を聞きとがめ、おかみがいきりたつ。
「おやおや」
と。それまで何も言わなかった宿の主人がふたりに話しかけた。
「弟さんの持っているのは竪琴かい? 腕さえ良ければ、それで稼げるんじゃないかな」
妻に比べると貧相で迫力負けしてはいるが親切な男のようである。
「いいですか?」
おずおずと少女が尋ねると主人はうなずいた。
「シーヴィ」
おとなしそうな少年がゆっくりと楽器を構える。
やがて、彼の細い指先がしっかりと旋律を弾き出した。少女の澄んだ歌声が竪琴の音色に混ざって語りはじめる。
──── かの姫君の蒼き髪は水の色
白露の匂うがごとく
風のそよぎに揺れなびく
くれなゐの唇に浮かぶ微笑み
そは 誰がための微笑みか
愛しの君のためのもの
「“首斬りターラ”の歌だね」
歌が終わったときには、にこにこ笑いながら主人がシチュウとパンの皿を台の上に並べていた。
「ちょいとお前さん、お代がまだ」
猥雑な傭兵たちすら歌の余韻で黙りこんでしまった中でおかみが俗な話を蒸し返そうとすると、共通銅貨が一枚、飛んできてシチュウの鉢の横に落ちた。続いてさらに一枚。
「まあ、ふたり分の食代としては妥当だね。ハリエト、お客さんだよ」
あぜんとしたおかみをつついて主人は戸口の方を示した。
いつの間に入ってきたのか、土埃にまみれたマントに全身をすっぽりと包んだ小柄な人間が銅貨を支払ったようであった。
「ええ、ああ。お武家さま、こちらへどうぞ」
マントの裾にほの見える小さな軍装履きと細い身体の線から相手を年若い士族と見なしたらしいおかみは、いそいそとふたりの隣に席を設ける。
「ご注文は?」
ゆったりと席につくとにこやかにおかみが尋ねた。
「お酒は一杯で一銅と半貨、おつまみは半貨からいろいろとございますが」
「とりあえずは、水をくれ」
返ってきた声におかみは意外そうな顔をする。思っていたよりも若い……まだ少年なのだろうか。
「お水は、一杯で二銅貨いたしますが」
「高いな」
再び返ってきた応えにおかみは確信した。
「水不足の折ですのでねぇ」
さらに何か言うかと思った相手はそれきり沈黙し、主人が出した水を飲んでやっと口を開いた。
「宿を頼みたいが、部屋は空いているか?」
「ええ、まあ」
「では頼もう」
少年、というよりは少女のような声を意識しているのか、いやに言葉少なな若い士族風は放っておくことにしておかみは傍の姉弟に声をかける。
「食べ終わったらまた歌ってごらんなさいな。今晩の宿代にはなるかもしれないんじゃない」
「ありがとう、おかみさん」
少女が礼を言った。弟もにっこりと微笑む。何とも可愛らしい姉弟であった。
食事をすませるとふたりは再び歌い、奏でた。
伝説というには近すぎる過去、そう、一昔だにすら経てはいない、物語歌。“首斬りターラ”と呼ばれる水の国の王女のサーガを。
少年の指の動きにのって王女は遠い湿りの半球から中原を越えて渇きの半球の火の国へと嫁し、少女の歌う甘やかな調べのままに火の国の王子と恋に落ちた。
このあたりは、若い娘の好んで聴きたがるラヴロマンスである。
だが、やがて竪琴は激しく、厳しいいくさの場面を弾き出す。水の王女と火の王子の恋花は、渇きの半球で起こった戦乱に無残にも踏み散らされてしまったのだ。
少女は歌う。
それは甘く哀しく、激しい調べ。
愛する王子のために剣をとり、戦鬼さながらの死闘を繰り広げた王女。しかし、火の国は敗れ王子はいくさの庭に露と消え果てる。
ひとり生き残った王女は戦場をさすらい、いつしか誰言うともなく“首斬りターラ”の名が広まったのだ。
王女ターラはいまもなお戦場に姿を現し、その異名のままに情け容赦なくだんびらを振るっているという。
そして彼女がついた側が必ず勝利をおさめてしまうのだ……。
「す、すげぇな」
歌が終わると、宿屋の食堂はしんと静まり返っていた。
つい先刻までは、野卑な笑いを浮かべて姉弟を見ていたあのあぶれ者どもさえもが、酒をすすることすら忘れてじっと聴き入っていたのだ。
「まるで“首斬り”が俺たちの目の前にいるみたいだったぜ」
「ああ、さぞやキレイだろうなぁ」
「……オレは見たことがある」
何ともいいがたい溜息をつきながら男たちが言葉を交わす中で、ギムザと名告る彼らの親分格の男がぼそりと言った。
「ぞっとしたもんだぜオレ達ぁよお。あんときゃ、敵のほうにいたんだ。夢みたいにきれえな青い髪してよ、そこの娘っ子みてぇな抱いたら折れそうなやわな身体でだんびら振り回しやがるんだ。すごかったぜ! まさに“首斬りターラ”、一太刀で首すっとばしまくってた」
「あんた、よく生きてたなぁ」
仲間のひとりが感心すると、悪びれもせずにギムザは言った。
「オレは近寄らなかったんだ。いくら強いとはいえ女に殺られたんじゃ格好悪いからな」
ギムザの性格を知っていれば、彼の軽口にのって笑うことはなかったであろう。事実、彼の仲間たちは曖昧にうなずいただけだった。が、若い士族風は違った。
くすっとかすかに、だがあきらかに彼の一言で笑いをもらしたのだ。それがギムザの気に触らないはずなどない。
そも、彼らが姉弟の奏でる物語歌に酔いしれ、うっとりした心持ちでいるあいだにも、かれは平然と食事をとっていた。サーガを聴いてはいるがそれらに心を動かした様子は露ほども見せなかったのだ。
「てめぇ」
ギムザの胸にいいようのない反感が生じたのも無理からぬこと。元来が傭兵というものは士族とは折り合いが悪いように出来ているようなものなのだ。
「見たとこまだケツの青い若造のようだが、士族のお坊っちゃんは何がそんなにおかしかったのかな?」
さすがにカッとのぼせて席を立つことはしなかったが、トゲを含んだギムザの物言いに喧嘩かと仲間たちが固唾を飲んで見守っていると、かれはやおら立ち上がってひっそりと言った。
「失敬。思い出し笑いだ。気にしないでくれ」
「あンだとお」
「待ちなよルト」
血気にはやったルトが飛び出そうとしたのをギムザがとどめる。
「気にするな、と言ったな兄ちゃん。そうは言ってもなぁ、気になっちまうことがあるんだがよ」
すでに彼はにやにや笑いはじめていた。
「確か空いてた部屋は一つだったなぁおかみ」
「えっ、ああはい。そうですよ」
不意に話しかけられ、いぶかりながらもおかみが応えると、ギムザはますます笑いに顔を歪めた。
「その部屋は当然そこの、小娘と坊主のもんだな。そんだけの働きはしたはずだせ。宿代はオレが持つ」
「は、はぁどうも」
金勘定には賢しそうなおかみが面くらっていると、ギムザは矛先を若い士族に向けた。
「となると兄ちゃん、おめぇさん誰かと相部屋を頼まなくちゃなんねえぜ」
つまり、彼の因縁はその部屋の男が引き受ける、恐ければ出ていけということだ。
「ああ、そうだな」
事も無げに言うとかれは傍の姉弟に顔を向けた。
「それはこの子らに頼むとしよう。少なくとも、おまえたちよりは粗野でも臭くも危険でもないからな。どうだ?」
それはまぎれもなく、ふたりに向けられた確認だった。
少年が不安そうに少女の腕に手をかける。それをそっと押さえながら、少女は自分でも驚くほどにきっぱりと応えていた。
「はい。あなたさまさえよろしければ、あの、わたしたちはかまいませんわ」
「ほーお」
相も変わらず口元を歪めながらギムザがうなる。
「それじゃあ、部屋へご案内いたしますよ」
姉弟と士族をせっついてそそくさと主人が二階へと三人をいざなった。彼としては自分の店の中でのもめごとは、できれば避けたいところだ。
「すまんな」
二階の廊下を歩きながらかれがぽそりと言った。姉弟に対してか、それとも主人に対してか、はっきりしない言葉だが、主人はうなずく。
「わたしゃ別にかまやしませんですけどね、お若いうちから敵を作るにはあまり良い相手じゃありませんよ、あのギムザは」
「よく知ってるのか」
「かなり腕のたつ傭兵だってことはね。いまでこそ、この日照りの水不足でどこの軍も傭兵どころでなく、こんな村の宿屋でくすぶっていますがね」
「そうか」
かれはいっこう気にする様子もない。
「ともかく、一つ屋根の下に奴らがいることは忘れないほうがいいと思いますよ」
廊下のつきあたりの部屋へ三人を通すと、言いおいて主人は下へ降りていった。
「ま、えてして暇なときの傭兵は三度のメシより喧嘩を好むというからな」
足音が遠ざかるのを聞きながらかれは声高に言った。
「それにしても、都合よくも勝手にひとを坊や扱いしてくれちゃって」
先刻までの押し殺した声ではなく、よく通る澄んだ美しい響き。しかしそれは──ふたりはぎょっとしたようにかれを見つめる。
それと気づいたかれの声が笑いを帯びた。
それはあきらかに、やわらかな張りのある……女の声。
「ああ何だ。そなたたちも男だと思っていたのか」
言いながらゆっくりとマントをとる。
こぼれ出る長く美しい髪。その色は、鮮やかな水色!
「危険ではない、と言っただろう?」
白い面輪に浮かぶ微笑み。けぶるような紫の瞳が優しげに細められている。
「“首斬りターラ”!」
弟が小さく叫ぶ。とたんに彼女は眉をひそめた。
「その名で呼ばれるのは好きじゃないな。それはいくさのあいだの名だ。あたしの名前は」
「し、知っています」
少女の声にかれは言葉を切って彼女を見つめた。
「あなたはエリアス=ターラ=ミ・アルフォータさま。水の国の王女、でいらっしゃいます」
「元王女、だ」
自嘲気味に笑ってかれは言った。
「いまはただ、エリアスと呼んでくれ」
「エリアス、さま」
「そうだ。そなたたちは?」
「わたしはローゼリィ。今年十六になります。こちらは弟のシーヴィ、十四です」
「ローゼリィとシーヴィ。うん、いい名だな」
にこやかにうなずくとエリアスは静かに歩を運んで窓枠に軽く腰かけた。
「姉弟ふたりで旅をしているのか。どこまで行くつもりなんだい?」
「あの、中原のローストフトまで」
「ローストフト……聖堂へ行くのか」
ローゼリィのはにかんだ応えに感心したようにエリアスは瞳を輝かせた。ローストフト王国の聖堂といえば吟遊詩人や舞姫たちの最大の憧れ、技芸の聖地である。
「へーえ。そういや、迦陵頻伽みたいだなそなたの声は。おまけにシーヴィの指さばき、天上界の伶人にだってああいう音はそう出せないだろうね」
エリアスにしてみれば、心に思ったままに褒めただけなのだが、それは聞いていて何とも小気味好い褒め方だった。飾らぬ賛嘆の言葉は姉弟の内に彼女へのある種の信頼を抱かせるに充分たるものとなった。迦陵頻伽のよう、とローゼリィの声を喩えたエリアスの声音こそがふたりを優しく魅了した。
ローゼリィの求めるがままにエリアスは話して聞かせた。遠い国に伝わる美しい歌や哀しい恋の物語、神々のための歌の儀式。シーヴィにはさまざまな楽器の話。とりわけ、三本弦の弾き楽器にシーヴィは心ひかれた様子で詳しい話を聞きたがった。
夜が更けるにつれエリアスの話はどんどん面白くなっていくように思えた。
とりもなおさず、それはエリアスに対する信頼を深め、サーガの中の美しく強い伝説の姫君が実際にはひどく気さくで優しく、あたかも姉のようにふたりを守ってくれる、そんな安心感さえ姉弟に与えていた。
「本当に、そなたたちと話をしていると退屈せんな。よければローストフトまで一緒に行くか?」
エリアスにしても熱心な聞き手がいなければ話し込むこともなかったのだ。庇護欲からか、そんな言葉が出るのも当然のように感じていた。
「え、いいの? エリアスさま」
エリアスのすぐ傍らでローゼリィがうれしそうに笑顔をはじけさせた。
「いいも何も、どうせ中原へ行くところだったんだ。となれば、一度ローストフトへ行ってみるのも悪くない。ここまで来れば中原も目と鼻の先、そう水不足に悩まされることもなさそうだしな」
「そうはいかないんだよ、エリアスさま」
シーヴィが少女のようなまだ線の細さの目立つかあいらしい顔をくもらせた。
「ん? シーヴィ、それはどういうことだ?」
問いつめる言葉とは裏腹にエリアスの口調は優しい。見ればローゼリィも浮かない顔をしていた。
「この先の峠にね、八ツ頭が出るんだって。峠を越えようとするものはみな、人も馬も牛も、何だって食べてしまうんだって聞いたんだ」
「やつがしらぁ? それは何だ?」
「よくわからないけど、頭が八つある化け物よ。大人くらいある蛇みたいな?」
ローゼリィの後をシーヴィがついでさらに詳しく説明しようとする。
「そう。まるで八ツ頭の蛇みたいだから、天界から落ちてきた竜なんじゃないかって誰かが言ってました」
「りゅーうぅ?」
エリアスは不快気な声を出した。
「だとしたらけしからん話だ。竜なら竜で、天上界の生きもののくせに人間サマの平和な生活に害をなすなど、とんでもない奴だっ」
「中原からくるはずの隊商もほとんどたどり着けないから、この村では物が高いんだとも言っていたわよね。特に八ツ頭はお酒が好きで、荷にお酒がある隊商は必ず襲われるって」
「いくら渇きの半球とはいえ、こんなに中原に近いところで雨が降らず日照りが続くのもあながち八ツ頭のせいじゃないとは言えないかも」
どこでどう仕入れてきたのか、姉弟の話を聞きながらエリアスは身体の内に湧き上がるある感情を、意識せずにはいられなくなった。
「何か、腹が立ってきたぞ。それで、そなたたちはその八ツ頭が出るという峠を通らずに引き返し、違う道から中原へ行くつもりなのだな? しかしそうすると、経費が、かさむな。苦労してこの渇きの中をここまでやって来たのも無駄になる。うむ、だんだん、腹が立ってきた」
「エリアスさま?」
ローゼリィとシーヴィは同時にエリアスを見上げ、息をのんだ。そこにいるのはエリアスでありながらエリアスではないものだったからである。
そう、まさにその女性は、ターラと呼ばれてこそにつかわしいひとのようだった。
朝まだき──。
宿屋中の酒を買い占めてエリアス=ターラは峠に罠を仕掛けた。八ツ頭の化け物は酒に目がないと聞いたからだ。
酒甕は全部で五つあった。それらを拓けた岩棚に並べておいて蓋を開ける。
いかに八ツ頭が大きかろうと酒に酔ってぐでんぐでんの状態ならば仕留める機会はあるはずだ。古物語を思い出しながらエリアスはあくびを一つ。
ローゼリィたちは宿に置いてきていた。“首斬り”と呼ばれる身ではあるが、自衛手段のない少年少女を危険にさらすほど無情ではないつもりだ。化け物を退治してから、ふたりを連れて峠を越えることにしたのだ。
罠を仕掛けた岩棚にそそり立つ断崖の上でエリアスは待った。蓋を開けた酒甕から匂いたつ酒のにおいは強烈なものである。それを嗅ぐだけで目が回りそうだ。照りつける陽射しもまたすごい。マント一枚隔てていても肌が焼けそうだ。
いいかげん待ちくたびれたエリアスの耳が何か重いものを引きずるような不穏な物音を捉えた頃に、やにわに陽がかげりはじめた。
全天を覆うがごとく拡がってゆく黒雲、それこそは、雨雲ではあるまいか。
どんよりと陰気な曇り空の下に姿を表した怪物八ツ頭。一目見るなりエリアスは毒づいた。
「な~にが竜、だ。地虫のバケモノじゃないか」
確かに頭が八つあった。が、おおよそそれは竜でも蛇でもなく、まさに地虫としかいいようのないものだった。それが大人の男の胴ほどもある太い太い首についている。そして、その元である三かかえほどの胴体と先が二つに分かれた尾。そんな全体像だった。
何を喰ってここまででかくなったのか、立ちこめる血とも何ともいえぬ生ぐさい臭いに、エリアスは思わず吐き気をもよおした。
たまらず鼻をつまみ極力息をつめて見ていると、八ツ頭たちは先を争って酒甕に頭をつっこみはじめた。
酒甕が五つしかないところへ頭は八つ、いきおい、醜くも滑稽な早いもの勝ち式の奪い合いが生じる。
ほどなく甕が空になったところでエリアスは愕然としてしまった。
うまく酔いが回った頭は心地良さそうにどたりと地に伏し、どんよりと目を半ば閉ざしあまつさえよだれまでたらしているというのに!
酒甕にあぶれた頭が三つ、酔いきれぬままにいらいらとせわしなく動きまわっている。巨大な八ツ頭を酔い潰してしまうには酒の量が少なすぎたのだ。
「詰めが甘かったか」
エリアスが残念そうにつぶやくのとそれが聞こえてきたのとはほとんど同時だった。
──── かの姫君の蒼き髪は水の色
かすかに震えているものの、甘く透き通る声音はローゼリィのものであり、妙なる琴を弾じるのはシーヴィである。
「たまげたガキどもだぜ」
眼下の有様に驚きながらもふと気配を感じて振り返ると、そこにはあのあぶれ傭兵どもが来ていた。
「おまえたち……?」
ふたりの身を案じながらも警戒の色を隠そうともしないエリアスが傭兵たちを見回すと、にひゃりとギムザが相好をくずす。
「ゆうべは悪かった。あんたが女で、しかも“首斬りターラ”だなんて、知らなかったんだ」
「ここへ何しに来た?」
エリアスはもう気が気ではなかった。そうこうするうちにも、あの子たちはじりじりと八ツ頭に近づいていってるではないか!
「ガキどもに頼まれてな、あんたの加勢に来た」
「何っ?」
はねつけるようにエリアスが睨みつけると、それを気にするふうもなくギムザがにじり寄って下をのぞきこんだ。
「へえ、やるなあいつら。あのバケモンども、もう寝ちまうぜぇ」
ギムザの言うとおりだった。姉弟の奏でる調べに酔いしれ、残る三つの頭も鈍重に地に伏していた。だらしなくまぶたが閉ざされる。
と──シーヴィの竪琴の弦が一本切れてしまった。
和音が乱れる。
いぎたなく眠りを貪っていた頭たちが飛び出す勢いで浮き上がった。
「シーヴィ」
いつもならば姉に抱きついて震えているだけの弟が、初めて姉を抱きしめた。
「大丈夫だよ、姉さん」
青ざめた顔にこわばった笑みを浮かべながら、他の弦を調整する。
「歌って、ローゼリィ」
前奏を聴けば何の歌を歌えばよいのか、ローゼリィにはわかった。
──── 巡る輪廻の輪を負いて
時を止めたる乙女あり……
「シーヴィ、ローゼリィ!」
崖上では、それと見てとると同時に飛び降りてふたりを助けに行こうとしたエリアスを傭兵たちが取り押さえていた。
「待てって。いま行っても無駄に怪我するだけだって」
「いかなあんたが“首斬り”だろうとも、あんたの細腰
二つ合わせたよりぶってぇあの首一つ落としただけで、おそらく血糊でだんびらはナマクラにならあ。おとなしくガキどもが化け物抑えるの待ちなって」
「離せ、ふたりがやられちまうじゃないかっ」
「やられてねえって。歌ってる、聴いてみな」
軽々とかつがれてふたりが再びもとのように頭を鎮めつつあるところを見せられてやっとエリアスはおとなしくなった。
「な、大丈夫だろうが」
ふとその歌詞に耳を傾けエリアスは情景を見る。
想いの沈む淵のごと
青き瞳は銀と輝く
しなり流るる黒髪は
永きひとの世うつろいぬ
「ちいとばかり、頭を使おうぜ、頭をよ」
ギムザの言葉にうなずきながら、エリアスの意識は歌を拾い集めるのに集中していた。
「油を少しばかりいただいてきた。これを、奴の周りにたらして丸焼きにしてやろうぜ」
長い黒髪をなびかせる青と銀の瞳の乙女──これは、エリアスの夢に出てきた、かの絶世の美女のことではないのか?
サーガとして歌われているということは、過去に生きた人物のはずだ。名は何というのだろう。
エリアスは夢中で聴いていた。
歌うローゼリィも奏でるシーヴィもまた、夢中だった。
そして、最後の一音のくゆりが静寂に消えてふたりがそろそろと八ツ頭から離れようとしたとき、見るはずのない夢の中へとおちゆく八ツ頭の尾が何気なく向きを変え、シーヴィの手から竪琴を叩き落とした。
「──ユガ!」
弾き手のない竪琴がたてた不協和音があたかも鍵であったかのように、その名がエリアスの内に顕れた。
「やばいぞ」
耳のすぐ近くで聞こえたギムザの声にエリアスは再び愕然とする。
いまの不協和音だ。よりにもよって、眠っていた八ツ頭全部を起こしてしまうとは!
無言のままに剣を抜きざま、エリアスは崖を飛び降りた。そのままの勢いを利用してふたりのいちばん近くまで迫っていた頭を斬りおとす。
「おい、矢だっ。援護しろ!」
度肝を抜かれつつもギムザの指揮が下り傭兵たちが矢の雨を降らせる。
「ふたりともお逃げっ」
噴き出した血と体液にまみれ、すでに鈍ら同然の剣の腹で襲ってくる頭たちを殴りながらエリアスは叫んだ。もはや前以上に強烈になってしまった生ぐささに閉口している場合ではない。
「ギムザ!」
それはやや甲高いもののよく通る、命令する者の声。
「剣をっ、剣をちょうだい」
姉弟の後を追わせまいと残る七つの頭を引きつけ跳びまわる。剣は腹しか使えない。下手に斬りつけてひっかかると命とりだからだ。
「投げるぜえっ」
ギムザの声に気をとられたのはほんの一瞬のこと。だが、その隙をついて七つの頭は攻撃してきた。生ぐさい首がエリアスの花のかんばせをきわどいところでかすめる。
「おのれえぇっっ」
風もないのにエリアスの青髪が舞い上がった。
あたかも髪そのものが意志を持って動いたかのように彼女の安全圏いっぱいに拡がる。
青白い稲光が走ったときには八ツ頭は六ツ頭になっていた。
「たかだか地虫の分際で竜王の末裔にたてつきおるか!」
血刀をつきつけて叫んだところへ雷が落ちてきた。
崖上の傭兵たちでもなく、ましてや剣を振りかざしたエリアスでもなく、八ツ頭の上に。
天も張り裂けんばかりの音がしたかと思うと同時に地に重い衝撃が走った。
そして、大粒の雨が、滝のように降ってきた。
しばらくは誰もがただ雨にうたれながら動こうとしなかった。かすかに煙をあげながら絶命している八ツ頭のお焦げと、傍に立ちつくす無傷のエリアスとを、見つめていた。
やおらエリアスが踵を返し、歩きはじめる。呆然としているローゼリィとシーヴィに向かって。その顔には満足気な笑みが浮かべられている。
「怪我はないか?」
口調はあくまでもぶっきらぼうでやさしい、元のままのエリアスだ。しかし以前の彼女にはなかった何かがその微笑みに新たな何かを与えていた。
「ええ」
ローゼリィはうなずく。エリアスの中で変わってしまった何かに敬意を払いながら。
「シーヴィ?」
彼は黙ってうなずいただけであった。応えてうなずきながらとまどい気味にエリアスは切り出す。
「その、だ。すまぬがローストフトへは行けなくなった。人を捜さねばならないようなのだ」
「なんというおかたを?」
「ユガというひとだ」
「ユガさま、ですか」
ローゼリィがそっと目を伏せる。シーヴィが物言いたげにエリアスを見上げた。
「何だ?」
「言伝を……聞いています。中原の沙漠で、満月の夜の砂嵐を捉えよ、と」
「誰からの言伝だそれは」
言いながらエリアスは気づいた。
「ユガからの、か?」
シーヴィは応えなかった。ローゼリィが震える声で言った。
「あのかたの御名を識っている方々を、捜しておいででした。あの歌を聴いてその名を言えるおかたを」
「そう、か……」
「エリアスさま」
そのまま考えに沈み込もうとしたエリアスはローゼリィの有無をいわせぬ声にはっとする。
「わたし、もうローストフトへは行きたくありません。どうか一緒にお連れくださいませ」
「な、しかしローゼリィ、シーヴィはどうなる。ふたりで聖堂へ行くのが夢だったのではないのか」
いささか狼狽えてエリアスがシーヴィを見ると、シーヴィは彼女をじっと見つめた。
「確かにそうです。ですが、ローストフトへはいつだって行けます。いま、ぼくは姉と同じようにあなたと行きたい。どうかお傍においてください」
「シーヴィ?」
「こいつぁいいこと聞いちまったぜ」
さらに狼狽えるエリアスの耳にギムザの声が遠慮もなく割り込んでくる。
「オレたちぁいまの一戦で姐さんの勇姿に惚れましたっ。これからどっかへ出かけるってんでしたら、たとえ火の中水の中。地の果てまでだってお供しますんでどうか一緒に連れてってやっておくんなせぇ」
「だ、誰が姐さんだっ」
怒る気力さえなくした呆れ声で言うとエリアスはぷいと歩きだした。
「あたしは自分自身のためにユガを捜しにいくんだ。勝手についてきたところで面倒なんざみちゃやんねえよ。それでもいいってんなら……ついといで」
「「エリアスさまっ」」
振り向きざまの笑顔にローゼリィとシーヴィは駆けていってエリアスに抱きついた。
「「「姐さ〜ん!」」」
つられて傭兵たちが走りだす。
「わ、よせ。おまえたちは抱きつかんでもよいわっ」
エリアスの笑顔がひきつった。
半球に“八ツ頭討ち”の英雄譚が広まったのは、それからもっとずっと後の世になってからのことである。
『八ツ頭討ち』
FIGHT OFF
── 了 ──
八頭はイカと煮ると美味しいですよね♪
生まれ変わった五人の夜摩天女の話を書く予定だったのですが、まだ三人しか書いていません。
なので第一部終了といたしました。