四十三話 激闘から
世界を手に入れるよりも、愛する人の心に寄り添う方が余程難しい。
アグノスは息を吐く。
溜まっていた王としての仕事(取引や契約等の書類へのサイン、他の国との文書のやり取りはほぼアグノスがやっている)から解放された頃には、夜も遅い時間になっていた。
「兄貴め……ちょっとはやっといてくれよ……」
ある部屋へ向かいながら、アグノスは溜息を吐く。
難しい文章の理解も、商談の判断も、兄の方が早い。
だが、兄は商売や他との交流は苦手だと言い、一切関わらない。
今回のようにアグノスが不在の際には、顔馴染の他種族の長への文書だけはやってくれるが、後は放置に等しかった。
だから、アグノスは少し心配していた。
自分がこの城をしばらく空けると言えば、兄が反対しないか、と。
しかし。
『……分かった。おまえの好きにすればいい』
朝食の時に、渋々だったが兄からはどうにかイエスを勝ち取った。
クレメントには分かっていたようだ。自室で黙々と仕事をしていたアグノスに、友は言った。
『アリスィアはアグノスに甘いからねぇ』
兄がノーを言ったのは、マリアとのことだけだ。
アグノスには、その気持ちが分かっていた。
マリア・オルティースは、美しく強く、そして恐ろしい女性だから。
アグノスは、蝋燭の灯に照らされる彼女の部屋のドアの前にいた。
ワインのボトルと、二つのグラスを持って――
「入りたいなら、どうぞ」
あの時と同じ。
しかし前よりも優しい声音に、アグノスは深呼吸をし、ゆっくりとそのドアを開けた。
窓辺佇むマリアは、剣は持たずして、誰も近寄らせない雰囲気を醸し出している。休める場所だというのに、防具を外しただけの恰好だ。
それが、彼女の護身術の一つだということを知った。
そして、それが美しいともアグノスは思っていた。
「一緒に飲もうと思って」
「ありがと」
マリアの根底にあるのは、他人を信用しない、ということ。
ソフォスの教育の賜物か、はたまた砂糖菓子よりも弟に甘い兄のおかげか。魔族で魔王だが、純粋に誰かを信じてしまうアグノス。
二人は、まるで月と太陽だった。
「何突っ立ってんのよ? はやく飲みましょ?」
「名前」
「へ?」
アグノスが言えば、マリアは小首を傾げた。
「呼んでよ、俺の名前」
「な、何よ? 急に」
アグノスが持っているグラスにマリアが手を伸ばす。が、それをアグノスはひらりとかわした。
「ちょっと!」
「呼んでくれないなら、あげないもん」
「もんって……はあ、分かった」
ワインが飲みたいからなのか。
素直なマリアに、アグノスは少しだけワインに嫉妬した。
「アグノス」
それから、グラスに伸ばしていた手を、マリアはアグノスの頬に当てた。
「あなたの名前。ずっと、呼んでた」
「え? どこで?」
「地下牢で」
マリアの青い瞳が、アグノスの赤い双眸を近付いて、ゆっくり重なる唇。
「ッ……」
視界が一瞬マリアの綺麗な顔でいっぱいになる。
(睫毛長ッ)
ずっと見詰めていたいけど、エチケットとして瞼を下ろして、でも、触れた個所からマリアを感じられ、アグノスは彼女を抱き締めようと腕を回す。
が、それはマリアがすっと離れて、唐突に終わった。
「ワイン飲ませてくれないと、嫌だもん」
クスクスと悪戯っ子のように笑うマリアに、アグノスは両腕を中途半端に広げた格好で固まった。手にはしっかりワインボトルとグラスを握り締めていた。
「変な銅像みたい」
マリアはまた笑った。
無邪気な彼女に、アグノスも自然と頬が緩んだ。
ワインを二人で、とグラスを部屋の中央の小さな丸テーブルに置いた。
でも、酔う前に。
「マリア、好きだよ。君がここに、俺を倒しに来た時から」
「倒しに来た女を好きになるって……どんな神経の持ち主なのよ、あなたは」
そんな彼女の腕を、今度こそ空いた手で引き寄せ、両腕でしっかりと抱き締める。
ワインを飲ませてくれとせがんでいた割には、アグノスのがっしりとした肩に額をくっ付けるマリア。
そんな彼女の頭をゆっくりと撫でた。
「こんな神経」
「もう」
「ねぇ、マリア。返事は?」
アグノスが心配そうに問えば、マリアはまた「もう」と言って顔を上げた。
「好きでもないひととこんなことしないわよ、あたし」
「俺、人じゃねぇし……」
「もう!」
マリアはアグノスの胸を小突きながらも、また肩に額を預ける。
「どんなに長生きしようとしても、あたしはあなたより先に逝くけどいいの?」
「また君がこの世界に戻ってくるのを待つだけだ」
「あ、その前に、あたしはおばあちゃんになるのよ?」
「可愛いだろうなぁ、おばあちゃんになったマリア」
「ほんと……バカね」
時が続く限り愛する存在――
「今も、これからも、例え生まれ変わっても、あたしはアグノスと一緒にいる」
マリアの言葉を受け取るように、アグノスは彼女の唇に自分のそれを重ねた。
敵として出会った二人――
しかし、魔王は、戦いを恐れながらも人のために剣を振るう美しき女性に恋をした。
唇が離れた瞬間、彼女は。
「ワイン」
「はいはい」
マリアのおねだりに、アグノスが二人分のグラスに赤いワインをグラスに注ぐ。
月光が、揺れるワインを照らし出し、キラキラと光っていた。
「乾杯」
その恋はどうにか実を結び、二人で一歩を踏み出したのだった。
第一章~了~
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