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三十五話 恐怖

 恐怖はいつまで続くのか。

 つい先ほどまでは、平穏な日常だったではないか。

 ギタの町の人々は、広間の中央に佇む魔王アグノスと、瀕死の町長に覆い被さるように現れた見たこともない巨大な獣に悲鳴すら上げられずにいた。

 声を出したら、次に殺されるのは自分だ。

 誰もがそう恐れ、身動き一つできずにいる。

 恐らく、ここで動けるのは、恐怖を連れてきた存在である魔王だけ。


「ガルム、此処はおまえの住処ではないはず」

「ソレハオ前モダロウ、魔王アグノス」


 魔王の炎に包まれているメルクーリに鉛色の視線を向けたガルムは、フンッと鼻を鳴らす。


「人間ノ味方ゴッコハ終ワリカ?」

「あの時は、ちゃんと城の客人だと言ったはずだ」

「減ラズ口ハ相変ワラズダガ、魔力ハ如何シタ? マルデ弱イ人間ノヨウダァ」

「ッ!」


 アグノスは自身の右手首を見た。先ほどマリアに嵌めれた枷。


「ホォ、ソレノセイカ」


 アグノスが睨み付ければ、ガルムはガバッとその大きな口を開けた。


(今来ないでほしいんですけどッ!)


 魔力が抑えられている自分では、ガルムに対抗する術がない。腕の中で気を失っているマリアをぐっと抱き寄せて、アグノスは逃げるため脚に力を入れた。

 が、ガルムからの攻撃はなかった。


「マァ、ドウデモイイサ。用ガアルノハコッチダ」


 ガルムはアグノスを嗤い、未だに燃えているメルクーリの体を咥えた。


「なッ⁉」


 ガルムの言葉に、アグノスは瞠目する。


「そいつをどうする?」


 アグノスの問いは、空気の震えに遮られる。


「ッ……!」


 ギチギチと嫌な音を立て、再びそこが裂けたかと思えば、ガルムは踵を返す。

 その間も、ガルムの鈍く光る銀色の瞳は、アグノスを嘲笑っていた。

 そして、巨大な魔獣は裂けたそこへと姿を消した。

 そこはまたギチギチと音を立て、塞がっていく。それを、アグノスはただ睨むしかなかった。


(今の俺では、何もできない)


 無力に打ちひしがれるアグノスの体を、しとしとと降る雨が打った。


「アグノス!」


 背後から自身を呼ぶ声に、アグノスは安堵すると共に、声の主の行動に目を眇めた。


「クレメント、どこに行ってんだよ?」

「悪い。メルクーリの屋敷で調べものをしていて遅くなった」


 雨を気にすることもなく、クレメントはアグノスとマリアに駆け寄った。


「調べもの?」

「せっかく証拠が挙がっても、張本人は消えちまったみたいだがな……」


 クレメントは、先ほどまでギタの町長と得体の知れない獣が確かに存在していた広場の中央を眺めていた。

 その目には、やはり恐れが滲んでいる。


「あれは一体何だったんだ……?」


 魔王という友人がいようとも、魔物に慣れているわけではない。

 アグノスや、その城の中にいる魔族が特殊なだけで、別世界の存在であり、人間には脅威となる。

 いや、アグノス自身もここでは異質であり、異様な存在だ。


「城の付近の森に棲んでいた魔獣だ。いや、魔獣だった、が正解か」


 アグノスが言えば、クレメントは首を傾げた。


「魔獣、だった?」

「とりあえず、ここを離れよう」

「えっ? あ、ああ」


 アグノスの真剣な声音に、クレメントも頷く。

 そして、アグノスに抱えられたマリアを見て、ぐっと何かを堪えたような顔をした。

 アグノスは友人のそんな顔に気付きながらも、足早に広場を後にした。

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