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三十四話 魔王と人間1

 今まで人間は、非力でひ弱で、力の三分の一も出せば退けられる存在だと思っていた。

 だから、本気を出してはいけない。大半の人間は自分達に良い感情を持っていないかもしれないが、そうでない者もいる。


『わしのように』


 ソフォスに、そう教えてもらった。

 育ての親でもある彼は、異種族に対して知識があり、且つそれぞれを尊重する稀有な魔族だった。


『アグノス様、人間というのは特にか弱き者です。我らが相手をするほどの存在ではありません。肉体も然ることながら、彼らが心と呼ぶものも、何かしらに常に負けているそうです。しかし、彼らは、唯一他者を思いやることができるのです。そういった存在が、天地と争いの絶えぬこの世界には必要ということなのでしょう。我らにないその行動が、わしには羨ましく思えてなりませんのじゃ』


 好々爺が目を細めて話す姿が思い出された。

 それから、アグノスも人間について調べるようになった。

 山から下りることは許されなかったが、閉鎖された城の中には大量の書物と長く退屈な時間があった。

 兄のアリスィアも、人間について興味があったようで、よく一緒に人間の書いた物語というのを読んだ。読み書きの覚えが少し遅かったアグノスの代わりに、アリスィアが丁寧に読み聞かせしてくれた。

 その時も、お腹を空かせた少年が、自分よりも小さくボロボロの少女に林檎にあげる話を聴いていた。


『兄ちゃん、この子はどうして自分の食べ物がなくなるって分かってるのに、この女の子に林檎をあげたの?』

『さあ……? 俺もよく分かんない』


 物語の途中でも質問するアグノスに、アリスィアは正直に答えた。


『あげなきゃいいのにな。でもさ、そっちの方が、なんか良いよな』

『なんで?』

『だって、女の子、嬉しそうだもん』


 女の子のように可愛い顔立ちの兄(と、当時兄に言えばぶっ飛ばされていた)が、まるで林檎をもらった子のように嬉しそうだった。

 今では偏屈になってしまった兄だが、ソフォスに言わせれば、人間の書物を読み過ぎたからだそうだ。

 人間は弱い。人間はとても臆病で、しかしすごく勇気を出す時がある。その加減を理解するのが、魔王や魔族には難しい。

 だから、さらに人間に興味が湧いた。

 彼らはなぜそんなにも他者と関わるのだろう。自身の心というものを相手に傾けるのだろう。

 いつしかそれが憧れとなった。

 人間に会ってみたい。

 そして、ついに出会えたのだ。ディミトリオス・メルクーリに。

 アグノスは、これで何かが変わると思った。

 魔族と、人間。


 交わることのない種族同士が、相手を知り、良い関係となる切欠に――


 だが、どうだ。


 今、目の前に人間の内部は、自身の欲のために犠牲を厭わない。

 魔族と変わらないではないか。

 いや、魔族よりも相手を貶め、辱め、自身の弱さを醜く偽っている。


(俺はどうして……こんなにも……)


 抑えられない怒り。

 襲ってくる失望と絶望。

 アグノスの全身から噴き出す炎が見る見る赤く、大きくなっていく。


「ギッ……!」


 熱から逃れようとするメルクーリの腕を、今度はアグノスが掴んだ。

 メルクーリの仕掛けてきた術は、封じが切れたアグノスの魔力でもう破られている。


「逃がすかよ? おまえが始めたことだ」

「グガアァ……!」


 ギタの町長を、この町を、ただ自身の強大な力を発しているだけの魔王から守る術はない。

 獣のようなメルクーリの断末魔と肉が焼ける異臭が、町民達はさらに恐怖し、我先に逃げようと弱い者を押し退けていく。


 人間は弱い者。


(これが人間……これが、俺の本当の、姿?)


 自身の口端が上がっているのを、アグノスは虚ろなメルクーリの漆黒の瞳に見ていた。

 押し寄せる高揚感と優越感。そして、湧き上がる殺戮への渇望。

 同時にアグノスは、恐れた。

 暴走している自身の中の魔王を止めることができない。


 人間は、すぐに殺せる。


 耳奥でそう聞こえている気がした。

 整った顔立ちだったメルクーリのそれは、原型がないほど爛れ、溶けた唇が微かに動く。


 わ……し……ねが、い……ち、を……


 アグノスはゾッとした。

 こと切れそうなその時まで、メルクーリはアグノスに自身の欲を重ねている。

 クレメントの言葉が、脳裏を過る。


『人間は、欲望のためならそんなこともできるのさ』


 そして、それがリリィの瞳に重なった。


『殺されたの……遺体は、まるで……獣にでも引き裂かれたみたいだったわ……』


「そんな目で見んな……!」


 激高と共に、魔力が爆発する。


「見んなぁ!」

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