二十九話 月光の向こうに
(魔王の城が恋しいと思う日が来るなんて)
マリアは、手首に嵌められた手枷を見詰め、深く息を吐いた。
鉄格子が嵌められた小窓から差し込む月光は、マリアの自由を奪うすべての悍ましさをただ弱々しく浮かび上がらせる。
牢の中は、湿った黴臭さと寝床代わりの藁の腐った臭いで淀み切っている。冷たい石壁と膿んだ傷が体力と精神力を奪っていった。
どんなに殺意を向けられても戦場では生き残ってきたというのに、メルクーリの悪意を前にして足が竦んでしまった。
(わたし……弱くなったのかしら……?)
鏡のないこの牢獄で、自身の顔が分からなくなった。
マリアは膝抱え、目を伏せる。
「諦めたら駄目……気持ちを強く持ってマリア」
言葉だけでも強く、と思い呟いたそれは、どこにも留まることなく石壁に吸われていった。
病み上がりに近い状態で山を下り、傷まで負っているのだから、反撃には厳しいことは自分自身が一番分かっている。
体温が下がっているのか、寒い。震えが止まらない。
膝を抱え直す。
『あなたは餌です、マリア様』
目を瞑った途端、それは呪いのように耳の奥で木霊する。
(来るはずない……!)
マリアはそれを頭の中で打ち消した。
膝を抱えたまま、目を瞑る。
夜の静けさが一層孤独を誘う。
疲れと出血で、意識遠退き始める。
「ッ……ダメ」
どんなに厳しい戦況でも、生き残るために考えてきた。
意識を保たなければ。
でも――
(会いたい)
来るはずのない彼を、心のどこかで待っている自分が嫌になる。
「アグノス……」
呼んでしまえば、さらに――
「マリア?」
一瞬、耳を疑った。
マリアは小窓の方へと目を向ける。月光が差す、そこに。
「マリア!」
「アグノス……?」
確かにそこに光る赤い瞳と、心配からか歪む整った顔立ち。
「アグノス……!」
マリアは脚に力を入れてどうにか立ち上がるも、足元が泥濘に取られたかのようにすぐに転んでしまった。
手を伸ばそうにも手枷が邪魔だった。
腕の力で、どうにかアグノスが見える小窓近くまで這って行った。
どんなに美しい肌が汚れ、裂けようと、金糸の髪が解れようと。
「アグノス……夢じゃないわよね?」
小窓は高く、この声が届くか分からなかった。
しかし、彼はしっかりと答える。
「ああ、夢じゃない」
鉄格子の間隔は狭く、アグノスの太く逞しい腕は入らないようだった。
「クソッ……!」
指先が遠い。
マリアはそれを見詰めることしかできなかった。
が、すぐに我に返る。
「アグノス、ここは危ないから、はやく逃げて」
か細く伝えたそれにも、アグノスは大きく首を横に振る。
「君と一緒に、だ」
「彼らの狙いはあなたよ……!」
「知ってる」
「えっ?」
アグノスからの思わぬ答えに、マリアは目を見開いた。
「じゃあ……なんでここに来たの?」
「言っただろ? 君と一緒に城に帰るためだ」
アグノスの顔が水面の向こう側にあるようだ。
「なんで……?」
「なんでって、マリアが好きだからだよ」
彼からの気持ちは分かっていたはずなのに。
真っ直ぐに告げられ、顔が赤くなるのをマリアは感じていた。
「馬鹿なの? ほんと……」
どうにか伝えたいと絞り出した声は震え、汚れた頬に温かなものが流れていくのをマリアは感じていた。
「こんな時に言う?」
「こっ……こんな時だからこそ……!」
慌てるアグノスの背後から黒い影が覗く。
マリアが彼の名前を言う前に。
「アグノス、告白中悪いが、誰かこっち来るぞ?」
「おまっ……! いつからいたんだよ⁉」
「再現しようか?」
「しなくていい!」
どうやら敵ではないようだが、呑気な会話だった。
「マリア、もうちょっと待っててくれ。必ず助けるから」
逃げて。
本当はそう伝えたい。
しかし、マリアの口から出た言葉は違った。
「アグノス、気を付けて」
「ああ」
勝気なアグノスの笑みに、マリアもやっと頬が緩んだ。
が、彼の気配が小窓から離れると、途端に心細くなった。
「お姫様」
「え?」
聞き覚えのない声に、マリアはまた小窓の方へと視線を戻した。
そこには、黒い影。
「ありがとな」
暗闇に慣れたはずの目でも、影の正体は分からない。
「……誰なの?」
「いずれ分かる」
黒い影はそれだけ言って、アグノスの後を追った。
(いずれ……?)
確かに聞き覚えのない声のはずなのに。
記憶の奥底が疼くような感覚がした。
「どこかで……会ってる?」
声の主の黒い影。
考えようとしても、体力を奪われているせいか、考えが纏まらない。
しかし、さっきよりも生きたいという気持ちは大きくなっていた。
(彼と……帰りたい)
月光と静けさが残る牢の中で、マリアの青い瞳は再び光を取り戻した。
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