十六話 恐れを抱く者2
「誰よりも怖かったのは、兄貴だったんだよ、イェシカ」
アグノスは、普段は快活な表情を見せるその顔に苦笑を滲ませながら言った。
イェシカは、元々大きな目をさらに大きく見開いて、それからゆっくり目を瞑る。そこから、ぽろりと雫が零れた。それは幾度も白い頬を伝っていく。
イェシカから漏れる声はないが、涙が彼女の言葉を代弁していた。
「悪いって思ってんなら、もうしないでくれ……ほんと頼むから」
アリスィアにもイェシカの心が伝わったのか、彼女の頬を伝う涙を何度も拭った。
イェシカが何度も大きく頷いて、また泣いた。
「お前がいてくれないから、ハンカチも忘れちまった」
イェシカが泣きながら、声もなく笑った。
マリアは、やっと心から安心した。
そして、ほんの少しだけ嫉妬した。
「さっ、帰ろ」
今度こそアグノスの言葉に、皆の足が城へと向かう。
その間も、アリスィアはずっとイェシカの肩を抱き寄せていた。
マリアはそれを後ろから見詰めながら歩く。
「怪我はなかったか?」
隣を歩くアグノスが、心配そうに問いかけてきた。
「ええ」
マリアが答えると、アグノスは安心したように微笑む。
「よかった。イェシカを助けてくれて、ありがとな。兄貴、あんなんだけどイェシカのことを本当に大切に想ってるからさ」
お礼の後の言葉をマリアに耳打ちするように言う弟に、前を歩いていたアリスィアがじろっと見た。
それに、アグノスは「やべっ」と慌ててそっぽを向く。
マリアは苦笑した。普段の彼は、やはり末っ子で悪戯っ子の気質が目立つ。
「いいのよ。あたしも、先にアリスィアに伝えるべきだったわ」
結果的にイェシカを救えたから良かったものの、誰かを庇って戦うことに慣れていないマリアにとって、魔獣ガルムを相手に無傷とは絶対にいかなかった。
イェシカを死なせていたかもしれない。
それが今になって怖くなった。
(自分の力を……過信し過ぎていたわ……)
そして、ここ――魔王アグノスと彼の城の領土を甘く見ていた。
掌を見る。
マリア達を庇ったアグノスの広く、今目の前でイェシカの肩を抱き寄せているアリスィアの手は大きい。
自分はちっぽけな存在だ。この世界はいつだってマリアにそれを突き付ける。
マリアが、いやこの城に住む人間が生きているのは、魔王兄弟が魔族の中でもただただ変わり者だからだ。
そのことを忘れていた。
ガルムも言っていた。
『……何レ、後悔スルゾ』
朝陽が遮られた森の中に、四人の足音が吸い込まれていく。
平穏な時間が過ぎていると思っていたここは、人間の生活圏ではない。
人間が手に負える地では決していないのだ。
そのことを、メルクーリは本当に理解しているのだろうか。
「マリア?」
「えっ?」
「どうした? やっぱどっか怪我したのか?」
こんなに優しい魔王が統治する地だとしても――いや、この魔王が統治する地だからこそ、侵してはいけない気がする。人間だろうと、他の種族だろうとも。
(なんて顔してるのよ?)
オロオロしているアグノスにマリアはまた苦笑する。
「俺が背負っていこうか?」
「心配性。大丈夫よ」
「嘘じゃないよな?」
「本当だってば。あんまりしつこいとモテないわよ、アグノス」
「えっ⁉ あ、いやっ……別に俺はモテなくても……あっ、でも……ある人にはモテたいなぁ、なんて」
「は?」
「なっ、何でもない」
「もう何なのよ?」
「何でもないよ!」
「ある人って、リリィ以外に?」
「何でもないって! ほらっ、しつこい奴はモテなんだろ?」
「あたしは何しても勝手にモテるからいいのよ」
「それは困る!」
「何でよ?」
「何ででも!」
そんなマリアとアグノスに、イェシカが微笑みを向ける。
「元気な奴らだな」
アグノスの兄の青い瞳は、大切な者と同様に微笑みながらも、マリアの腰に携えている剣に向けられていた。
お読みいただき、ありがとうございます!
よかったらブックマークや評価、いいねをしていただけると励みになります(*^-^*)
よろしくお願いします!




