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九話 困惑と美しさ

 何故、自分はこの部屋の前に来てしまったのだろう。

 アグノスは、親友からもらった上等なワインボトルとグラスを二つ手に持って、昼間自分を殺しに来た女――マリア・オルティースの部屋の前にいた。

 そもそも、何故彼女がここに残ると言った時、嬉しかったのだろう。

 ギタのメルクーリに、雇われた女なのに。

 いつまた狙われてもおかしくない。

 マリアの強さは、剣を交える前から分かった。

 彼女は普通の人間のように振舞っているが、実は違う。


 彼女は、マリア・オルティースは――美しい。


 金糸にも似た長い髪はサラサラと音を立て、兄とはまた違う青い瞳は、見たことのない景色をアグノスに想像させ、胸を高鳴らせた。

 触れたい。

 純粋にそう思った。


(あの時、勢いに任せて手を握っちゃったけど、……大丈夫だったかな……?)


 今さらになって、心配になる。

 でも。


(小さくて柔らかくて、あったかい手だったなぁ)


 マリアの仄かな温もりを思い出していたアグノスに、扉の向こうから。


「入りたいなら、どうぞ」


 思わず、手に持っていたワインボトルとグラスを落としそうになった。

 慌てていると、中からクスクスと笑い声が聞こえる。

 彼女は面白がっている。

 格好悪さからなんとか平静を装うとしたら、さらに。


「まさか、寝込みを襲うつもりじゃないでしょうね」

「そっ、そんなことしねぇよ!」


 反射的に反論すれば、彼女はさらに大笑いした。

 アグノスも、釣られて笑ってしまった。


「……入っていい?」

「どうぞ」


 透き通る彼女の声に、アグノスはやっと肩の力を抜いた。

 ワインボトルを落とさないように小脇に挟み、扉を開ける――と。

 窓辺に腰掛けるマリア。


(綺麗だ)


 闇夜に浮かぶ月光を一身に受けたマリアは、今までアグノスが見てきた景色に色を添えたようだった。

 そして、その手には、彼女の得物。


「ッ⁉」

「あッ⁉」


 驚いて、またもワインボトルを落としそうになった。

 が、そこは魔王の反射神経でなんとかボトルを持ち直す。


「……ふぅ」


 二人の安堵が、息となり、重なった。

 また思わず笑った。


「よかったら飲まないか?」

「あら? 魔王でもワインの美味しさが分かるのね」


 マリアが微笑みながら、窓辺を離れた。手からも獲物が離れていく。


「いいのか?」

「え?」


 無意識だったのか、アグノスの問いにマリアは小首を傾げた。

 アグノスはあえて口端を上げた。


「俺は、あんたの敵だった存在だぞ?」


 心底驚いた顔をするマリアが月光に照らされた。その表情が、得物を見詰めながらも再び柔らかな笑みに変わる。


「あたしを殺すつもりなら、とっくにやってるでしょ? アグノスなら」

「えっ?」


 聞き間違いかと思った。


(今……俺のこと……)


 扉の前で硬直しているアグノスに、マリアは警戒心なく歩み寄ってくる。


「何突っ立ってんのよ? はやく飲みましょ」

「俺のこと、名前で呼んでくれた」


 言葉にすると、嬉しさが込み上げてくる。


「マリアが、俺の名前呼んでくれた!」

「え? 呼んでなかったっけ?」


 喜んでいるアグノスに不満げな顔を向け、マリアは続ける。


「それより、ワイン寄越しなさいよ」

「ちょっと、俺の感動よりワインの方が大事なのかよ⁉」

「当たり前でしょ?」


 クスっと笑うマリアは、妖艶でもあり、どこかまだ少女らしさが残っているようでもあった。

 仄かな温もりと微かな畏れの雫が、アグノスの心に波紋を描く。


(マリア・オルティース……最も強く、美しく、魔族にとって恐ろしい女傭兵か)


 アグノスは、グラスにワインを注いで、マリアに差し出す。


「この出会いに」


 アグノスが言えば、マリアは肩を竦めて「ええ」と返す。


「乾杯」


 チンッという澄んだ音が、月夜の照らされた二人の間に暫く留まった。

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