まぁだぁだよ
「──ふ、ふふ……ふふふっ……ふふふふふ……」
目が覚めた時、俺は笑っていた。さも幸せそうに顔を綻ばせ、喉の奥を痙攣させるように、声を漏らして……。
しかし、瞼を開くと同時に、それはピタリと止んだ。何がそこまで可笑しかったのか、その時にはもう、わからなかった。
俺は奇妙に思いながら、ひとまず枕元に置いていたスマートフォンを取り寄せる。が、しかし、何度ボタンを押せども、画面は暗く沈黙したまま、無精髭を生やした冴えない男の顔を、反射するばかりだった。
仕方なく充電し損ねたそれを戻し、俺はやっと体を起き上がらせた。服は身に付けておらず下着を一枚履いているのみであったが、この時期はだいたいこんな格好で寝ているので、さほど気にならなかった。
それよりも、今は何時なのだろう? カーテンを透過する陽射しからして、早朝と言うことはないだろう。もう昼近いか、もしかしたら、すでに午後を回っているのかも知れない。
ところで、昨晩は何をしていて、いつ床に就いたのだったか……どうしても、思い出すことができなかった。まだ寝ぼけているのか、頭のエンジンのかかりが悪い。
全身が汗でベタ付いており、この上なく不快だ。すぐにでもシャワーを浴びたいところだったが、ひとまず喉の渇きを潤すことにする。
カーテンを閉めきった暗ぼったい部屋の中で、使い古した扇風機が、ガタガタと音を立てながら、首を振っていた。生温いシケた空気が、ただただ循環し続ける──
部屋を出てすぐの場所にある冷蔵庫へ向かう間際、不意に叫ぶような子供の声が、外から聞こえて来た。
──もういーかい?
最近の子供も、かくれんぼをして遊ぶのか。やはり動きの鈍い脳で、そんなことを考える。
冷蔵庫の扉を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、直接口を付けて飲んだ──途端に、妙な味が口の中で広がった。
思わず顔をしかめつつ、なんとか呑み下した俺は、口元を拭いながら、ペットボトルに目を向ける。透明なはずの水の色は、どことなく黄ばんでいるように見えた。
まさか、たった一晩のうちに、腐っちまったのたろうか?
あるいは、寝起きであるが為に、空目したのかも知れない。
俺は訝りつつも、ひとまずペットボトルを冷蔵庫に戻した──すると、突然ゲキレツな臭気がどこかから漂って来て、反射的に鼻を摘む。まるで、麻痺していた五感を一つずつ順番に取り戻しているかのようだった。
その腐敗臭の出所は、すぐに見当が付いた。冷蔵庫の置かれた壁と、申し訳程度の台所に挟まれた、短い廊下の右手──浴室の方から、それは流れ出ている。
いったい、何の匂いなのか。普段からゴミを溜めてしまいがちではあるが、しかし、風呂場に生ゴミを置いた記憶はない。
一度そうと意識すると匂いの強さは増して行く一方で、俺は口ごと手で抑えながら、浴室を確かめに向かった。
少しだけ恐々としながら、折り畳み式の扉を開く。
「ワッ⁉︎」
直後、肥えた蝿が一匹、顔めがけて飛来し、思わず声を上げてしまった。すぐ真横の壁に空いている手を突いて、再び浴室の中を覗き込む。うちの浴室はよくある三点ユニットで、トイレと洗面台のある側と浴槽の間は、カーテンによって仕切ることができるようになっていた。
どうやら蝿は、そのカーテンの向こうにある何かに、たかっているらしい。何匹も数えきれぬほどの嫌な虫が、太々しく羽音を鳴らし、我が物顔で飛び回っている。
──いったい、何があるんだ……?
俺は左手で蝿を追い払いながら──猛悪な臭いはいっそう強まり、鼻と口から右手を離せば、そのまま嘔吐しかねなかった──、そちらへ近付いていく。
そして、覚悟を決めて、カビで黒く変色したカーテンを一気に開けた──
俺は、今度こそ叫んだ。それほどまでにオゾマシイ物体が、浴槽の中に押し込まれていたからだ。
俺の悲鳴に驚いたのか、蝿たちは群がっていた場所から、一斉に飛び上がった。
そして露わになったのは、人間の形をした腐肉の塊。黒ずんだ肌は半ばほど溶けた肉を辛うじて包み込んでおり、手足は崩れ、関節は機能を失っていた。糸の切れたマリオネットのようだ。
死んで腐っているのは女であるらしく、剥き出しの乳房と乱れた長い髪が、申し訳程度きそれを証明している──が、生前の面影を推し量ることは、不可能と言ってよかった。
両の瞳はすでに眼孔から失せていたし、顔は浮腫んで、不出来な粘土細工のように見えた。それから、顔にある穴の全てには蛆が沸いており──すでに定員オーバーなのか、白い幼虫は、絶えず押し出され、落ちた先で苦しげに蠕動している。
俺はその場で吐いた。先ほどの黄ばんだ水が、胃液と共に体を汚した。なんだこれは。いったい、何故、うちの風呂に女の死体が転がっている?
わけがわからなかった。わからないことだらけだ。
汚れた便器にもたれかかり、俺は両手で頭を抱えた。臭いのことなど、この際どうでもよかった。ただ、この受け入れ難い現実を、どのように処理すればよいのか。それだけが、今の俺にとっては問題だった。
「糞……なんだよ、これ……」
涙声で呟く俺を嘲弄するかの如く、無数の蝿がブウ──ンブウ──ンと、羽を鳴らした。
※
シャワーの音がした。いや、先ほどからずっと聞こえていたはずだ。
壁に備えられたシャワーから絶えず水が吐き出され、浴槽に注いでいるのが、見なくてもわかった。
俺は浴室の床にへたり込み、便器に背を持たれるようにして、頭を抱えていた。いったい何故、こんなことになってしまったのか。俺は、どこで何を間違えた……?
わからなかった。わけのわからないことばかりだ。
ただ、一つだけハッキリとしているのは──どうやら俺は、この手で人を殺めてしまったらしい。
俺はそこでふと顔を上げ、這うようにして浴槽へ近付いた。そして両手でヘリを掴むと、恐る恐るその中を覗き込む。
そこには、女の骸が一つ、無理矢理押し込まれていた。
濡れた白い肌からはすでに生気と言うものが微塵も感じられず、薄く開いた瞳は、早くも膜の張ったように淀んでいた。絶えず降り注ぐ水に濡れた黒い髪と、なおやかな乳房は、生前であればどれほど魅力的であっただろうか。その女の肉体は、今はただ朽ちるのを待つばかりとなった。
──誰だ。この女は、いったい誰なんだ。
思い出せなかった。遥か遠い昔にどこかで会ったような気もするし、たった今初めて見た顔にも思える。
女は、比較的均整の取れた顔立ちをしていた。瞼も唇もだらしなく半開きとなったまま閉じようとしないが、それでもさほど酷い形相でないことが、唯一の救いであろうか。
ただ、浴槽の形に沿って畳まれたその白い首筋には、誰かの指が恐ろしい力で食い込んだ形跡が、惨たらしいほど克明に刻まれていた。
そこまで死体を眺めたところで、俺は改めて、自らの両手を見下ろす。十本の指の先は血で赤く染まり、爪の間に千切れた皮膚編が挟まっていた。
俺だ。
やはり、俺が殺したのだ。
疑いようがなかった。恐怖だか腹立たしさだかわからぬ感情が、足元から這い上がって来る。
俺は、再び床に腰を落とした。
水の注ぐ不快な音は、まだ聞こえていた。死体に当たって弾けた水滴が、肌に触れた。
死んだ女は誰なのか。そして、俺は何故彼女を縊り殺してしまったのか。
考えなくては……どうしてこうなってしまったのか、を。
俺はひとまず立ち上がると、何の意味があるのかもわからぬまま、シャワーを止めた。
※
熱を感じた。体の奥底が焼けるように熱く、脳はビリビリと痺れ、此岸との接続性が瞬く間に失われていく。
俺は、それから、どうしただろう? わからなかったし、考えられる余裕もなかった。
爆ぜるように、真っ赤な花が、目玉の裏側で咲き乱れた。
雲の流れがやけに早い。
遠くの工場から響く、小気味好い金槌の音……。
トンカントンカントンカントカトントン──
水を張った田んぼの傍らの道を、幼い頃の俺は、自転車に乗って駆けていた。
土と草と、水の香り。
焼けた鉄塔。ボンボン時計。
画面イッパイに拡大された形のよい赤い唇が、何かを言っている。
「エエエエす、びーいィって言うのよ。今はニンカガガガてないだけ──いずれ世界中で──当たり前niあルルルルォオ」
俺は矢鱈滅多らペダルを漕いで、懐かしい風に吹かれていた。心地がいい。蝉の音と陽炎。
鮮やかな午後の記憶映像。
──うふふふふふ。自然と笑みが溢れた。現実の軛から解かれた脳が、超幻想を生み出し、よく晴れた夏の日に、俺は自転車、工場から、焼けた鉄の塔が、アイスキャンデー色の水溜り……。
俺は、心地よい風の中にいた。極楽の余り風とは、こう言うことを言うのか。
ペダルを漕ぐ足を早める。うふふふふ。どうしようもないほどの全能感はついに頂点へと達し、俺の体は空へ溶けて、大袈裟に言えばこの星と一体化したような、銀河との境目を失うような、とにかく、俺は子であり、父であり──夏であった。
しかし。
その無上の快感は、そう長くは保たなかった。
次第に鼓動が早くなるにつれ、心地よさは何か別種の感覚へと変貌する。焦燥、と言えば、最も近いであろうか。
自転車を駆る幼き日の俺は──いつの間にか、必死の体で何者かから逃げる、矮小な存在へと変わっていた。
あれは、いつのことか。確か、小学校高学年の頃であったか。
祖母が亡くなった。老衰であったか、それとも病魔に殺されたのか、今となってはよく覚えていない。が、とにかく、死んだのだ。
そして、通夜の日。
俺は母に促されるまま、祭壇に近付き、柩の中を覗き込んだ。
花で満たされた匣の中で、祖母は横たわっていた。死化粧の施された顔は生前よりも血色がよく思われたほどで、それがその時の俺にとっては、何よりも恐ろしく感ぜられた。
今にも目を見開き、ムクリと起き上がるのではあるまいか、と。
そして、蘇ると同時に、俺に飛びかかり、首を絞めて来るのではないか、と……。俺は、祖母に嫌われていたし、俺の方でも、狭量で古臭い人間である彼女のことを、厭うていた。
俺の不吉な妄想は、現実のものとなった。
カッと目を瞠った祖母は、こちらが驚愕している隙に上体を起こし、かと思う間もなく、痩せた手を伸ばして、幼い俺の首を締め上げたのだ!
それは老人どころか、並みの人間の力とは思えず、子供の俺は祖母の手首を掴みはしたものの、引き剥がすことは叶わなかった。まるで鬼だ。祖母は俺を殺す為に、鬼となって蘇ったのだ。
すぐに息が詰まり、俺は抗うことすらできなくなった。脳天に鋼鉄の棒を突き刺されたように、思考が鈍り、端的な感覚だけが、頭の中を駆け巡る。
痛い、苦しい、死ぬ──助けて!
俺は、母に助けを求めようとした。が、しかし、母は遥か遠い場所に佇んでおり、俯きながら目元をハンカチで抑えている姿が、ボンヤリと見える程度だった。
家の仏間はあり得ないほどの広さに膨張し、畳の敷かれた床が地平線の彼方まで続いている。
このままでは、俺は鬼婆に縊り殺されてしまう。そんなのは御免だった。
ボ──ンン、ボ──ンン……実家の廊下にかけられていたボンボン時計の音が聞こえた。
ボ──ンン、ボ──ンン……。
意識が再び現実と接続した時、俺は浴室にいた。いつの間に移動したのか、思い出せなかったし、その時は、そんなことを考えている場合ではなかった。
とにかく、今は、この鬼を斃さなくては。
俺は、その白い喉に指が食い込み、血が滲むほど強く、女の首を絞め上げる。必死だった。殺さなければ、こちらが反対に殺されてしまう。
ウゥゥと、獣唸るような声を漏らし、鬼女は浴槽の中でもがき苦しんでいた。鬱血した顔と、見開かれた瞳。唇の隙間から、血の混じった涎がゴボリと溢れた。
暴れる鬼の手が、シャワーのハンドルにぶつかったらしい。突如、頭上から冷水が降り注ぎ、驚いた俺は、一瞬手に込めた力を緩めかけた。
しかし、その時にはすでに、彼女の命は風前の灯であり、俺の二の腕を掴んだその手には、肌を傷める余力さえも、残ってはいないらしい。
女の体に馬乗りになった俺は、トドメとばかり両腕に体重を乗せ──
ほどなく、それは完全に、動かなくなった。
※
何かあったのか。何故そうなったのか。俺は、懸命に記憶を辿り続けた……。
※
水滴が一つ、グラスの曲面を滑るように伝い流れた。俺は片膝を立てて座ったまま、濃い緋色を湛えたワイングラスを、眺めていたような気がする。
蒸し暑い部屋の片隅では、古い扇風機がガタガタと音を立てながら、ギコチなく首を回していた。
「──ねえ。どうして冷房点けないの?」
すぐ背後のベッドから、女が言って寄越した。彼女は、まるで自分の家であるかのようにくつろいでおり、ベッドボードに体をもたれさせながら、ワイングラスを口元に運ぶ。
「節約してるだけだよ」
「せっかくあるんだから、使えばいいのに。熱中症になっちゃうよ?」
「大丈夫だよ。俺、慣れてるから」
「なら、せめて窓開けたら?」
「それは……昔、死んだばあちゃんに言われたんだよ。夜に窓を開けてると、よくないものが入って来るって」
「ただの迷信じゃない」
女はクスクスと笑った。馬鹿にされているのだろうか? 親に揶揄われる子供のようで、あまりいい気はしなかった。
「ねえ」やはり、笑みを含んだ声を発する。「私今日、いいもの持ってるんだけど、試してみる?」
「いいもの?」
何のことを言っているのか、本当にわからなかった。思わず首を巡らせて振り返ると、女は「そっ」と短く答え、片腕を伸ばして、小さなポシェットを手繰り寄せた。
「持ってて」
自分のグラスを俺に渡すと、女はポシェットを漁り、中から白い錠剤の詰まった小さな瓶を取り出した。
「な、なんだよ、それ」
正直に白状すれば、俺は少し怖くなっていた。いや、ついこの間知り合ったばかりの女が「いいもの」と称し大量の錠剤を取り出したのだ。恐怖を感じて然るべきである。
「“嫌なことを忘れさせてくれる薬”、かな」
意味ありげな笑みと共に、意味ありげなフレーズを口にした。ますます胡乱であり、俺は当然のこと警戒心を強めた。
だいたい、この女の素性にしたって、ほとんど何も知らないに等しい。今日で会うのは、まだ二度目なのだ。
女と知り合ったのは先週の金曜のことで、飲み屋で声をかけられたのだった。俺はあまり社交的なたちではないのだが、不思議なことに、彼女には、包み隠さずに本心を語ることができた。酔っていたのもかるのかも知れない。
とにかく気をよくした俺は、女の連絡先を教えてもらおうとしたのだが、それは叶わず、女は代わりに、「来週もまたこのお店で呑みましょう」と言って、愛らしいえくぼを浮かべた。
そして、俺は言われたとおり、同じ店で女と会い、酒杯を傾けたわけだが、今夜はそれだけでは終わらなかった。どちらから提案したのだったか、俺の家で飲み直そうと言うことになり、会計を済ませたあと、二人でタクシーに乗り、コンビニで酒とツマミを買って帰宅したのである。
「さっき、あのお店でま言っていたでしょ? 最近嫌なことばかりで、いつも憂鬱だって。私、あなたの気持ちわかるよ。何やってもうまくいかない時期って、誰にでもあるもん。だから、ね? そう言う時は、何もかも忘れて、楽しいことだけ考えたらいいんだわ。──この薬は、その手助けをしてくれるの」
女の瞳には、異常な光が灯って見えた。確かにこのところ俺は慢性的な鬱状態にあり、仕事でも趣味でもロクなことがなかった。呑みの席でぐちぐちと管を巻いたことも覚えているが、しかし、だからと言ってそんな怪しげな薬に頼るだなんて……。
「ど、どうして、そんな物を持ち歩いているんだ?」
「だから、みんな同じなんだって。あなたみたいな悩みを抱えている人はたくさんいるのよ。私、そう言う人を見ると放っておけなくて、話を聴いてあげて、必要だと感じたらこれを渡すようにしているの。この薬──ASBEって言うのよ。確かに、今は認可の下りていない薬とだけれど、いずれ世界中で流通するようになるわ。そうしたら、嫌なことを『我慢する』のではなく『忘れる』のが当たり前になる。もう暗い気分でいる必要はなくなるの」
女は、まるで自らの言葉に酔いしれているかのようだった。俺はと言うと、自分の迂闊さを悔いていた。どうしてこんな狂人を、家にまで上げたのか……少し顔がいい女に優しくされたからと言って、あまりにも無警戒すぎたのではないか、と……。
しかし、後悔するには、すでに遅すぎた。
女は瓶の蓋を開け、錠剤を一粒取り出して呑み下した。まるで、その薬の安全性を、自ら証明するかのように。
彼女はすぐに恍惚とした表情を浮かべ、俺が何かを言う間もなく、さらに一粒、唇で軽く咥えてみせた。そして、しなやかな両腕を伸ばし、こちらの首に手を回して来る。
「ほら……口開けて……」
女の顔が──錠剤を咥えた瑞々しい唇が──、甘ったるい香水か何かの芳香と共に、迫って来た。俺は──蛇に睨まれた蛙のように、それを拒むことができなかった……。
※
汚れた便器にもたれかかっていた俺は、ズキズキと痛む頭を抑えつつ、腰を上げた。どうしてうちの風呂に腐った女の亡骸が転がっているのか……脳の処理が追い付かず、頭蓋の中で膨張するかのようだ。
──こんなのは、嘘だ。おれはきっとまだ、夢を見ているのだ。それも、とびきりの悪夢を……。
ヨロヨロと立ち上がった俺は、飛び回る蝿を黙殺し、カーテンを閉めた。
そして、ふら付く足取りで浴室を出ると、折り畳み式の扉を閉ざす──文字通り、臭いものに蓋をしたわけだ。
部屋に戻った俺は、埃の積もったテーブルの上に、あるものを見付ける。二つのグラスと、赤ワインのボトルに紛れ、蓋の開けられた小さな瓶が、そこに置かれていた。
俺は半ばほど空となったその瓶を取り上げると、数など考えもせずに、手に出した錠剤を口に含む。ゴリゴリと噛み砕いたそれを、苦い味になった唾と共に、呑み下した。
──もう、嫌だ。ただでさえこのところロクな目に遭わないと言うのに、こんな意味不明な悪夢に、煩わされて堪るか。俺は、何も悪くないのだ。俺は、ただまじめに生きているだけなんだ。
嫌なことは、全部忘れてしまえばいい。いつのことだったか、誰かが口にした言葉を、思い出す。
瓶を戻した俺は、胃液で汚れた体を拭きもせずに、ベッドに倒れ込んだ。
蒸し暑い部屋の隅では、使い古した扇風機が、ガタガタと音を立てながら、首を振っていた。
ありがたいことに、眠気はすぐにやって来て、閉じた瞼に堅固な鍵をかけてくれる。
そして、深い夢寐の底へと落ち込む間際、叫ぶような子供の声が、外から聞こえた。
──モウイーカイ?
鬼が、問いかけ来た。
今まさに眠りの中に隠れようとしていた俺は、微睡みつつも、どうにかそれに答える。
「……マァダァダヨ」
殺人だけに……。
実に下らない洒落であるが、何故だろうか。その時は、妙に笑えた。