君と共にいきたかった
「そよくん、起きて! いつまで寝てるの」
「んっ……」
微睡の中、心地の良い透き通った声がすっ、と流れ込んで来る。
寝ぼけ眼を擦り、重い瞼をゆっくりと開けば太陽の様な眩しい笑顔が目覚めを迎えてくれた。
「ようやく起きた。そよくん、君は相変わらずお寝坊さんだね」
どうやら俺は膝枕をされているらしい。
布越しに女の子特有の包み込まれるような柔肌の感触がする。
「おはよう、美穂」
「おはよう、そよ君」
俺が起き上がると、美穂は少し残念そうな顔をした。
それでも頭を撫でれば直ぐにパッ、と明るい表情に戻った。
俺を覗き込んで、屈託のない笑顔を浮かべる彼女。
腰まで伸びた長い艶のある黒髪。
汚れの無い澄んだブロンズの大きな瞳。
雪の様に白い肌に、やんわりとたわむ桜色の唇。
お気に入りの真っ白なワンピースの右胸に付けているのは、俺が去年の誕生日に贈った花形のブローチだ。
「それ、まだ付けてくれてたんだ」
「もちろん。そよ君から貰った大切なプレゼントだもん。一年間ずっと肌身離さず持ち歩いているよ」
「……嬉しいな。俺もこれ、持って来たんだ」
「うわっ、何か懐かしいねそれ。クリスマスの時に渡した手作りマフラーでしょ? 今見てもやっぱり酷い出来だ」
「そんなこと無いよ。世界で一番のマフラーだ」
俺がお世辞などではなく心の底から言うと、美穂はほんのりと顔を紅潮させた。
えへへ、と照れ笑いをしながら、気恥ずかしそうに両手を赤らんだ頬に当てる。
「……本当に美穂なんだな」
目の前に美穂がいる。
その当たり前で、当たり前じゃない事実がどうしようもなく俺の胸を締め付けた。
「もうっ、そんなに泣かないで。顔がくしゃくしゃになってるよ」
俺の瞳から勝手に溢れ出る涙を困ったような顔で優しく拭ってくれる彼女は、間違いなく鈴本美穂その人だ。
鈴を転がすような聞き心地のいい声。
コロコロと豊かに表情を変える可愛らしい小さな顔。
照れると頬を両手で覆う癖。
一年前と何も変わっていない。
美穂は、俺の大好きな鈴本美穂はずっとそのまま変わらず俺の大好きな人だった。
大好きな人だったんだ。
もちろん今だって一番愛している。
それでも、だった、と過去形を使わざるを得ない。
そして俺はその現実を受け止めきれなかった。
だからここにいる。
「ずっと謝りたかったんだ……。あの日のこと、俺が美穂を最後まで送っていれば……」
一度、口にしてしまえば溢れ出す言葉を塞き止めることはもう出来ない。
目から涙を、口から後悔を吐き出す俺の姿はとても醜かっただろう。
それでも美穂は優しく微笑んで俺を包み込んでくれた。
懐かしい香りがする。
お日様の様なポカポカする甘い匂いだ。
ふんわりと暖かい、目に見えない温もりが俺の凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。
美穂はいつだってそうだった。
俺の全てをその小さな、華奢な身体で受け止めてくれる。
大好きな、世界で一番大好きな最愛の人だった。
「君が交通事故にあったって聞いた時、どんなに後悔したことか……。冷たくなって動かない君を見たとき、どんなに世界を呪ったか……。この一年間、俺は生きている気がしなかった。何をしても俺は……」
「本当にそよ君は私のこと好きだねえ。まあ私のそよ君大好き度の方が凄いけどさ」
「……何だよそれ」
「私がそよ君のこと大好きだって事」
「……知ってる」
「ふふふ、バレバレだったかな?」
下に垂れた髪を耳の後ろに掛ける仕草、俺の頭をゆっくりと撫でる優しく温かい小さな手、世界一かわいく愛らしい微笑み。
止まらない涙を自分で拭って一年ぶりに会う美穂をじっくりと見ると様々な思い出が蘇る。
美穂も同じ気持ちなのだろうか、慈愛に満ちた表情で俺を抱きしめて少し笑った。
そしてやがて、美穂は俺に語り掛けるように二人で歩んだ物語を紡いだ。
「鈴本さん、三年間貴方のことがずっと好きでした。よければ俺と付き合ってください、だっけ? あの時のそよ君の顔、真っ赤っかだったね」
中学校一年生の時に一目惚れをしてから、三年間精いっぱいアピールを続けた。
そして卒業式に告白をし、彼女は顔を赤らめながら頷いてくれた。
「初デートはドキドキ凄かったんだよ? どんな服を着ていけばいいか凄く迷ったし、メイクも頑張らなくちゃって色々考え込んじゃって、結局夜眠れなかったんだから!」
初めてのデートの時、俺たちは初めて手を繋いだ。
後から聞いた話だと、俺は緊張しすぎて会話がぎこちなかったらしい。
かなり疲れていたのか、帰りの電車で俺の肩に寄りかかって寝てしまった美穂は天使のようだった。
「それでさ、三回目のデートの後! 別れ際にそよ君が言った言葉覚えてる?」
覚えている。
もちろん覚えている。
「キスがしたいです、って! 告白の時みたいに顔を赤くしてさ。私思わず笑っちゃったよ。していい? っていう質問じゃなくて宣言なところがそよ君らしいよね」
お洒落なレストランを予約して、帰り道に綺麗な夜景と共に自然と二人の唇が触れ合う。
計画は完璧だったはずなのだが、いざ本番になると何も考えられなくなり、思わず謎の宣言をしてしまった。
あれは間違いなく俺の黒歴史だ。
涙が出るほど笑っていた美穂の楽しそうな姿と、初めて触れ合った柔らかい唇の感触は今でも鮮明に思い出せる。
「そよ君と過ごした日々はいくらでも語れるね。楽しかったり、嬉しかったり。時には悲しかったり、傷ついたり。でも全部纏めて幸せだったって心から言える」
「俺も美穂と一緒に生きたあの日々が、何よりも大切なものだった。……だから、君を失ってたあの日から。あの日から俺の時は止まってしまったんだ。何度も前を向こうとした、一年間頑張ったよ。けどダメなんだ。君がいない世界はこれ以上耐えられない。だからここに来たんだ。そしてこうして美穂とまた会えた。これからはずっと一緒に――」
「だめだよ。そよ君は戻らなきゃ」
すっと一緒に、その先の言葉は様々なものによって遮られてしまった。
分かっていた。
美穂が許してくれないことは。
分かっていたらこそ。
枯れ果てたはずの涙がまた止め処なく溢れ出してきた。
「私もそよ君と一緒にいたい。ずっと二人でいたい。でもね、あっちにはそよ君を待っている人が沢山いるでしょ? そよくんのお父さんとお母さん。妹のヒナちゃんに親戚の人だって。親友の久保君もいるし、後輩の加奈ちゃんも。クラスもみんなもそうだし、君の帰りを待つ人は沢山いる」
「でも、俺は君がいないと……」
「大丈夫。私は何年、何十年、何百年でもそよ君を待っているから。そよ君は私がいない世界で、新しい幸せ見つけて欲しい。それが私の幸せだから。その代わり……次も私を見つけてね」
美穂は少し俯いて言い淀んだ後、優しい笑みを浮かべた。
彼女はどこまでも嘘が下手だ。
「大丈夫」は大丈夫じゃないことが多いし、「何にもないよ」は何かあることが多い。
今だって偽りの笑顔を浮かべている。
顔は引きつっているし、声は掠れていて、潤んだ瞳から零れ落ちる透明な涙は何度目を擦っても止まる気配が無い。
一度、短期留学で俺が海外に飛び立つ前も美穂はこんな感じだった。
それでも、美穂は真っ直ぐに俺を見据えて言葉を紡いだ。
「もうこんなことしちゃだめだよ。私との約束。わかった?」
「……わかった。直ぐには難しいかもしれないけど、頑張ってみるよ。どうにか君のいない世界で生きていこうと思う。そして、もう一つの約束も必ず守る。絶対に美穂を見つける。その時が来たら、二人でずっと一緒にいよう」
俺の言葉に美穂が頷く。
「待ってるから。ずっと、ここで待ってる。……そよ君、大好きだよ」
「ああ、俺も美穂のことが大好きだ」
ゆっくりと自然に手が重なり、唇が触れ合った。
俺も美穂も最後は笑顔を浮かべていた。
「誕生日、おめでとう美穂」
「んっ……」
「先生! 相沢君の意識が戻りました!」「そよ、よく戻ってきた!」「良かった……生きててよかった……」「マジでお前、心配かけやがって! この野郎、何で俺に……」
何やら周りが騒がしい。
目を半分開けると、白い天井が見えなくなるくらい多くの人が俺の顔を上から覗き込んでいる。
どうやら寝ている間に涙を流していたようで、頬にしっとりと濡れた感触がする。
潤んだ瞳から流れ落ちる涙を拭おうとして、俺は初めて腕に力が入らない事に気づいた。
正確には、腕を動かそうとしても動かせない。
何かで固定されているようだった。
ようやくピントが合い始め、周りを見渡すと、両親を始め多くの知り合いがいることがわかる。
自分の身体をよく見ると、いくつもの管が繋がれていて、近くには白衣を着た医者やナースさんもいる。
そしてようやく自分が病室に居て、ベッドに寝かされている状況を理解した。
腕が固定されていると思ったのは点滴を繋ぐ管の事の様で、ゆっくりと慎重にすれば腕は普通に動かせた。
胸に手を当てると、確かな心臓の鼓動が聞こえる。
どうやら俺は生きているらしい。
馬鹿なことをしたと今では思える。
美穂がいない世界に何の意味も見いだせなかったけど。
生きることを一度は放棄しようとしたけど。
俺を取り囲む皆の顔を見て、それが間違いだったとようやく気付くことができた。
俺の目覚めを待ってくれている人がこんなにも沢山いることに俺は気づけなかった。
「みんな、ごめん……。俺、生きようと思う」
これでいいんだよな。
まだ君がいない世界を受け入れることは出来ないけれど。
ゆっくりと一歩ずつ前に進もうと思う。
胸を張ってまた君に会えるように。
枕元に置かれたマフラーを抱きしめて、俺は約束を果たすことを誓った。