修羅
初めに映ったのは、ゆらゆらと輪郭を揺らす、蝋燭の火だった。私は、その光を見つめながら、ぼやける頭で、あの夜のことを、夢見るように思い出す。肌を切るように雨が降り注ぎ、風が轟轟と怒り狂う夜。私はその中を必死で草木を掻き分け駆けた。木の枝が肌を切り裂き、血を流しても一心不乱に駆けた。立ち止まれば、迫るケダモノ共に死よりも恐ろしい結末を与えられてしまう。私は夜を駆けながら、ケダモノの血と私の血で濡れた刀を爪が食い込む程に強く握った。月もない深く危険な闇の奥で頼りになるのは、一本の刀だけだった。
「目覚めたようだな」
聞こえた声が、意識をぼやけた場所から現実へと引き上げた。蝋燭の火の輪郭が幾分かはっきりとした。私は、体を起こそうと身じろぎするも、強烈な痛みが雷の如く、身に走った。その痛みは喉から出るはずの声すらも相殺する。だから、ただ餌をせがむ鯉のように口を動かした。
「動かんでいい」
聞こえる声は、子供を窘めるようなものだった。私はどうにか目だけを彷徨わせ、声の主を追う。
「体中傷だらけだ、しかし、まさかこれは…」
干からびた枯れ木を連想させる低いその声がより近くで響いた。
「遊びの傷…」
視線の先にあった、蝋燭の光を大きな影が遮った。影はゆっくりと私の前に腰を下ろす。
「軟膏を塗り包帯を巻いた、今は動かず傷を癒せ」
声の主はたった一つ蝋燭が灯る暗い部屋の中では影そのものだった。しかし、所作と声から察するに年老いた老人であろうことは間違いなかった。私はどうにか、意思を伝えようと、空気を喘ぐように吸い、口を動かす。だが、案の定出てくるのは死者の雑音だけだった。そこで、意識がまた、遠のいた。
産まれたその瞬間から、不幸だったわけではない。私にも父や母、兄弟との平穏な日々があった。だけれど、砂の上に描いた絵を撫で消す、そんな他愛もない力でそれらは奪われた。愛していた家族は鉄の刃で捻じ切り、貫かれ、いとも簡単に命を失くした。私はまだ若くケダモノ達にとっては多くの利用価値が在ったのだろう。だから、生き永らえた。
「調子はどうだ」
次の目覚めの声は、はっきりと頭に響いた。私ははっと、目を開く。と、目の前にはまたもや、黒い影があった。私は口を動かす。痛みがじりじりと、体に流れたが、雷が走る程ではない。
「…はい、な、ん、とか」
かすれた、喉はどうにか小さく音を発っすることができた。
「そうか」
影は頷く。
「あの、、」
私は影の中に在るはずの顔に向けて、
「座らせて、いただけますか?」
言った。ちぐはぐにならないように力を込めて言葉を放った。けれど、それが余計に負荷をかけ、痛みがずきりと刺さり、声音が狂う。影は言葉を返さず、沈黙した。私の傷の具合を案じているのだろうか。だが、数秒後、沈黙したまま、静かに私の肩を掴む。影は出来る限り私の体に触れぬように、注意を払いながら、体を起こすのを手伝う。だが、起き上がろうと上半身に力を入れた瞬間、落雷が全身に落ち、木端微塵に身体が弾けた。刹那、私は言葉にならない悲鳴を上げた。目の前が真っ赤で染まる感覚。それは血が全身から爆発し噴き出たと一瞬錯覚するほどだった。それでも歯をぎちぎちと噛み締めながら、悲鳴を押し殺し、影の手に体を委ねる。全身の傷という傷が脈打ち、心臓をけたたましく震わせた。上半身を起こし、肩で息をする。汗と涙がだらだらと情けなく頬を伝って、流れた。
「痛むだろうな」
汗を薄い掛布団に落としながらも、私は顔を動かし傍らの影を見る。けれど、彼はもう影ではなかった。弱弱しく蝋燭の火が彼の横顔を照らしていた。見えたのは死人を思わせる、皺が刻まれたくたびれた表情。瞳はとても深く黒く、まるで、井戸底の暗闇を宿しているようだった。そして、何より、火が現した彼にはそこに在るはずの右の耳が欠けていた。
「まず、呼吸を整えろ」
私は言われた通り、冷たい空気を吸い、熱い息を吐く。溺れないように何度も海面から抜け出そうと試みる。けれど、焦れば焦る程、呼吸は荒くなり、海の底へと沈んでいく。
「落ち着け」
低く小さな声で老人は言った。私はただ、彼の言葉に闇雲に頷き返し、呼吸を安定させようと目を閉じる。落ち着いて呼吸を、声に出さず呟く。そうすると、少しづつ海面が近づいてくるように、呼吸の間隔が一定の物になっていく。
「大丈夫です…大丈夫…」
両手を握りしめ、自分に言い聞かせるように言った。老人はじっと私の様子を窺うように押し黙った。私は目を開け、ゆっくりと老人へと向く。
「どうも、ありがとう。助かりました」
自分なりに精一杯誠意を込めて、感謝の言葉を発した。老人の目には変わらず、暗闇が宿っていて、表情もこれと言って動く気配はない。私はもう彼は何も言わずに部屋から立ち去ると思っていた。だけれど、意外にも老人は口を開く。
「おまえさん、なんでこんなに傷だらけなんだ」
その時、そう訊ねた老人の瞳の中に何かが走った。まるで、やせ細った毒蛇が巣穴から外を警戒する動作を思わせた。それはあのケダモノ達が常に開き見せていた、吐き気のする狡猾な蛇と似ていた。ただの直感ではあった。気のせいかもしれない。だが、私は嫌と言うほどあの瞳を見せられてきたのだ。だから、そう簡単には間違えない。私は私を助けた、右耳のない謎の老人に私が疑念を抱いたことを悟られぬよう、変わらない声と表情で質問に答える。
「…捕まって、斬られたのです」
傷が疼き、血管内を百足が這って蠢く。動けばまた、這う痛みは爆炎に変貌してしまう。
「野盗にか?」
「ええ、そうです」
老人の瞳の中にいる毒蛇を自分の目で探しながらも、弱く頷いた。
「…遊ばれたのだな」
問いかけに、私はただ目を伏せる。私にはそれを自分の口で認めるのはどうしても許せなかった。たとえ、喉元に刀を突き付けられても決して私は許せない。
「詮索が過ぎた」
そこで、初めて老人の声に変化が訪れた。顔を上げ彼を見ると、彼もまた目を伏せ、枯れた顔が一層、朽ちた印象をたたえていた。
「…いえ、大丈夫です」
巻かれた包帯に手を当てる。包帯越しに熱く脈打つ傷を指で感じる。ベトベトとした薬の薄緑と自身の血の赤が包帯の繊維を越えて所々、漏れていた。
「私はどれほど、眠っていたのでしょうか?」
「三日だ」
「三日…」
驚きはしなかった。体中に斬り傷があるのだ。むしろ助かったのは奇跡と言える。
「腹が減っただろう」
唐突に老人は静かに立ち上がった。
「少し待っていろ、柿を持ってくる」
彼は木の床を音を立てずに、すり足で蝋燭の灯が届かない闇の奥へと姿を消す。
私は闇に溶けていった、老人の背を見届けると、周りを見渡したが、あるのは物言わぬ暗闇のみ。私は視線を落とし、老人の瞳の中の蛇が私を襲うだろうかと考える。確かに私は彼の瞳に蛇が宿っているのをこの目で見た。彼が私をその牙で襲うつもりならば、今すぐにでもここから逃げ出さなくてはいけない。しかし、この傷ではこの闇深い部屋から出ることすらままならない。私は唇を強くかみ、思案した。どうしたらいいのか。私はどう行動したらいいのか。私は生きねばならないのだ、復讐を果たし、家族の元へと行かなければ。
「柿だ」
視線を上げると、老人が柿を私に差し出していた。だが、柿を受け取ろうと手を伸ばしたその時。彼のもう一方の手に、しっかりと青白い刃の刀が握られていることに気づいた。私は瞬間、伸ばしていた手を引っ込め、身を固め目を見開いた。抵抗する言葉を叫ぼうとしたが、唇はただ震え痙攣する。
「おまえさんのだろう?」
落ち着いた声音で老人は言った。私は彼が何を言っているのか理解できなかった。焦りと恐怖が言葉を理解することを阻んでいた。
「これはおまえさんが持っていた刀だ」
老人は刀を床に置き、先ほどと同じく音を出さず座った。
「私が持っていた刀…」
やっと出てきた言葉はその言葉だった。
「森で倒れていたおまえさんが持っていた」
「私が…」
そこでやっと頭が働き始める。
「あ、」
それは、あの夜を共にした刀だった。柄の赤と黒のまだらの模様に確かに見覚えがあった。
「見つけたとき、鞘もなく裸の刃をおまえさんは抱きしめていた」
白い鉄の刃は蝋燭の火と同じく淡く光る。私は手を伸ばし、その刀身に触れた。冷たい鉄は指先を少しだけ冷まし、動転した気持ちをなだらかに落ち着かせた。
「…いえ、」
首を横に振り、私は呟く。
「私の刀ではありません」
「違うのか?」
「ええ」
老人は柿をその血色の薄い手で、私に差し出す。私は柿の艶やかな色と彼の干からびた手に何故か見蕩れ、受け取るまでに数秒時間を要する。
「そうか」
彼は小さく首を縦に動かした。
「ならば、後でわしが何処かに放っておこう」
柿を口に運ぼうとした手を止め、下ろす。私は、老人の目を覗く。
「何故です?」
「刃は不要だからだ」
老人は私の目を見ずに、決然と呟いた。有無を言わせぬ声。だが、老人の声音がほんの少しばかり狂ったことに私は気づいた。
「私には必要です。少なくとも今はまだ」
柿を置き、刀の柄に手を伸ばす。彼がなんとい言おうと、私にはこの刀は必要だ。何処かに捨て置かれるわけにはいけない。
「ならぬ!」
彼は私の手首を咄嗟に掴んだ。彼の手には恐ろしく強い力が込められていて、手首がみしみしと悲鳴を上げた。
「痛い!」
私は顔をしかめ叫んだ。その叫びは体の傷にまで誘爆し、収まってきていた痛みがまた熱く加熱し始める。
老人は叫びに驚き、すぐに手を放す。
「すまない…」
彼は酷く動揺した声を出した。私は返事を返さず、痛む手首を抑え、じっと老人を見つめる。
「斬らねばならない者達がいるのです」
気づくと私は決意を込めて、呟いていた。言葉に呼応して、私の瞳の蛇が闇に目を光らせた。
「私から全てを奪ったあのケダモノ共を斬らなければいけない…」
刀の代わりに柿を取り、手で包み込む。すべすべとした柿の表面を撫でた。
「だから、その刀はまだ必要なのです」
「野盗をか」
「ええ」
老人は私の瞳を見つめた。お互いがお互いの瞳の中にある思いを読み取ろうとしていた。私はこれ以上の話合いは不要だと告げようと口を開きかけた。がそれを遮って、彼が先に言葉を発した。
「…人を殺せば、修羅となる。たとえどんな理由があろうとも」
彼は刀の柄を握り、引き寄せる。老人の目にまた、蛇の姿が走った。
「おまえさんはまだ若い…だから―――」
私はその言葉にくすくすと笑いだしてしまった。老人は刃から顔を上げ、一瞬なぜ私が笑い出したのかわからず呆けたような顔をした。しかし、数秒後、私が言う前に彼は目を見開き、苦悶の声を出した。
「おまえさんはもう人を斬ってしまったのか」
「はい」
あの夜、ケダモノは私を弄んだあと、私の存在など忘れて酒を飲み馬鹿な猿のように寝静まった。私は奴らにつけられた傷で意識が白濁し、凍った泥の中で、蹲っていた。そんな朦朧とする意識の中、目を半分だけ開けると、ケダモノが無造作に自らの刀を放っていることに気づいた。だから、私は痛む体を起こし、同時に徐々に興奮していく頭を携えて、ゆっくりと近づいていった。音を殺し、息を止めて。
「もう手遅れなのです」
私は苦しむ表情の老人に向かって微笑んだ。
「私は人を殺してしまいました。そして、これからもっと殺します。死んだ家族と、なにより自分自身のために」
ケダモノを斬り刻めるのならば喜んで私は修羅になろう。なぜなら、もうすでに私の未来は奴らに奪われ、汚されてしまったのだ。事実からはどうやっても逃れることは出来ず、結局は受け入れるしかない。
「…わしはかつて人斬りとして恐れられていた」
老人は顔を伏せ、苦しみに耐えるように呼吸をした。彼の周りの暗闇がより濃くなった。
「何よりも己が剣のために人を斬り続けた。最初は兄弟子達を、その次は師を。斬る相手が居なくなれば、町に出向きより強い者達を斬り続けた」
彼は手を組み、自らの過去の重さを確かめる。
「確かに、わしは斬り続けたことで、一国が恐れるほどの技を手に入れた。だが、その時わしは既に、技を磨くことよりも人を斬ることに魅了されていたのだ」
彼の瞳の中に居る蛇が爛々と暗い瞳孔を輝かせる。
「そして、気づけばわしは自らの母と父、村の者たちまで、斬っていた」
彼は刀を引き寄せ、蝋燭の光に刀身をあて、じっと眺める。
「全て斬った時わしはただ渇いていた。後悔など毛ほども沸かず、むしろより一層の死を求め彷徨い続けた。だがある時、一人の侍がわしの前に現れ、何も言わず刀を抜いた。そして、わしは耳を奪われた」
私は彼の欠けた右耳を目で追うと、
「…だからなんだと言うのです」
老人の言葉を止め、彼を睨んだ。
「私には関係ありません。あなたがかつて修羅だったとしても、私には何一つ関係ない。自らの為に復讐を果たし、修羅となるならばそれでいい、修羅でも鬼でも何にだってなります。奴らを斬ることが出来るのならば」
「誰も愛せなくなるのだぞ。誰一人も」
私は頷く。
「構いません。愛など私には不要です」
『出てこい!居るのは分かっているんだ!』
男の怒号が部屋の闇の向こうから聞こえた。その油を含んだ獣の声は忘れることなど出来ないケダモノの物だとすぐに気づいた。怒鳴り声に反応して、私の表情に恐れとそれを超える怒りが現れ、顔が引きつった。老人は私の表情を見て、察する。
「奴らだな」
心臓がバクバクとなり、傷がが興奮で熱くなる。咄嗟に私は刀に手を伸ばす。
「ならぬ」
老人は私の手を今度は諭すように掴んだ。
「やめてください!私が斬らなければ!」
「おまえさん、命を大切にするのだ。自分の命も、他人の命も」
彼はそう呟くと、刀を手に取り立ち上がる。
「おまえさんの代わりにわしが役目を果たそう」
「待って!」
私も立ち上がろうと力を込めたが、案の定体に痛みがほとばしり始める。
「…私が斬らなければ」
体の痛みで、床に倒れこむ。意識が衝撃でぼやけ始めた。
「達者でな」
老人は闇の中に姿を溶かした。その背を見届けたのを最後に目の前が真っ暗になった。
* *
初めに映ったのは一筋の光だった。光を手繰り寄せながら、扉へと向かう。扉を押し開けると、新緑の青さと太陽の陽光が瞳を指した。熱い光は瞳に痛かった。