無題1
『朧月夜』『物の怪』『エク』『春雨』
肌寒い夜のことだった。
ふと、普段家にあるはずの物が無いことに気が付いて僕は家を出た。
ポケットにはスマホ、財布、家の鍵。一人で暮らしているわけではないけれど、この時間、家にいるのは僕一人だけだった。最低限の戸締りをして、正面の道路に出る。
空を見上げる。
月が目に入った。
今宵の空は雲一つ無い。闇色の絵具を刷いたかのようなそこに、ぼんやりと光を放つ月が孤独に佇んでいる。やけに輪郭が曖昧だ──この時期に見られるこういった月を、確か朧月と呼ぶのだったか。
なにぶん乏しい知識だ。朧月という表現が正しいのか正しくないのか、それを判断することは今は難しいだろう。スマホで調べればすぐにわかることだが、それもなんだか手間のかかることだし──などと、そんなことを、僕を照らすこの月灯りのようにぼんやりと考えながら、僕はおもむろに足を動かし始めた。
街灯がアスファルトを薄く染めている。
家々は寝静まり、喧騒なんかも聞こえやしない。
自分だけがぽつんと世界に取り残されたような気分がして──少しだけ、胸が高鳴る。
交差点の信号で足を止めた。
青い軽自動車が一台、目の前を通り過ぎて行く。
その直後だっただろうか。特に意識していたわけではないからはっきりと判断することはできないが、でも、多分その車が通り過ぎてからだったと思う。
横断歩道の上に、一匹の黒猫が現れていた。
歩行者信号が青色を灯す。
僕はなんだか狐につままれたような気分だった──相手は猫だというのに。
しばらく立ち尽くしてその猫を見つめる。目線が逸れない。どうやら向こうもこちらを見つめているらしい。
目と目が合う瞬間好きだと云々、というどこかで聞いた曲の詞が、不意に脳裏を駆け抜ける。
歩行者信号が赤色に変化した。
目を逸らした方が負ける。何の勝負かはわからないが、互いがそう認識していることだけはなんとなく伝わった。
と、その時。
はた迷惑な轟音を伴い、目の前を大型バイクが通り過ぎて行った──そして。
黒猫の体をバイクが通り抜けるのを、僕は見た。
歩行者信号が再び青色を灯す。
僕は黒猫に釘付けになったまま、動くことができない。
黒猫が静かに、影に溶けそうな速度で近づいてくる。
足元まで来たところで、黒猫は僕を見上げるようにして立ち止まった。どことなく生気の感じられないその双眸は、なんとなく今宵の月のようだった。
黄色く輝き、輪郭がはっきりしない──
「お前、こんにゃ時間ににゃにをしておる?」
「……は?」
「だからこんにゃ時間ににゃにをしておるのか、と。そう聞いておる」
この猫が言葉を発しているのだと気が付くのに、随分時間を要した。
多分、五回は信号が変わっていたと思う。その事実を現実として受け入れるには、さらに三回分の時間が必要だった。
「えっ、と……ちょっと、コンビニまで、行こうとしてたのです、が」
「反応が遅いわ! 感心しにゃい。感心しにゃいぞ若人。夜更かしにゃらまだしも夜歩きとは。いかん。いかんにゃ~」
言いつつ僕の周りをとことこ回り出す黒猫。目の前を何回も黒猫に横切られるので縁起が悪いことこの上ない。そこでまた、気が付くことがあった。
尻尾が二股に割れている。
喋る猫、二股の尻尾──化け物、化け猫、物の怪、妖怪──
猫又。
という存在が、頭をよぎる。
「よいか若人。夜に出歩くことには様々にゃ危険がともにゃう。儂のようにゃ妖怪変化を恐れる者もまぁ多いが、そんにゃもんよりも単にゃる通り魔の方がよっぽど怖いと、そうは思わにゃいか?」
「はぁ、まぁ、そう、ですね」
「うむうむ」
立ち止まり、うんうん頷く黒猫。そろそろ目的が何なのか教えてほしい。
「儂はにゃ、若人。そういった者が増えることがかにゃしく、にゃげかわしいのだ。──というかお前ら今にゃん時だと思っておる! 草木も眠る丑三つ時ぞ! 妖怪様のはびこる時間にゃのにパンピーにゃんかがふらふらしているんじゃにゃーい!」
「は、はい! え、すいません」
叱られてしまった。
わけもわからぬまま、ちょっと、反省。
「というわけで今後こういうことはしにゃいように。よいか?」
「わ、わかりました。わかりましたよ」
「よろしい。物分かりがよいのはよいことだ、若人よ」
そう言い残し、黒猫は横断歩道へ駆け出して行った。
歩行者信号は赤色を灯している。黒い大型車が僕の前を横切って、気が付くと黒猫の姿は全く見えなくなってしまっていた。
なんだか、頭がぼんやりとする。今の出来事が本当に現実だったのかどうか、断定することができない。
ふと、空を見上げる。
朧気な月がぼんやりと、僕を照らしていた。
コンビニについた。あまり長居もできないだろうと、僕は目的の品を探す。
……が、見つからない。
仕方がないと、僕は店員に声をかけた。
「あの、すいません」
「はい」
見覚えのある人物だった。
が、だからといって面識があるわけではない。確か同じ学部の人で、演劇サークルに所属している姉属性好きだったと思う。学内で何回か見かけただけだろう。
「春雨スープってありますか?」
「あ~すいません。ちょうど売り切れちゃってるみたいです」
「……マジですか」
ここまできてまさか売り切れているとは。
急にどっと疲れが押し寄せて来る。
失意のままに店から出ると、遠くの方で猫の鳴く声が聞こえた──ような、気がした。
黒猫に横切られたがゆえの不運だと。僕はぼんやりと、そんなことを思った。