京都夜話
京都の町に、どこかの寺がつく重々しい鐘が長い尾を曳いて鳴り響くと、賑わっていた通りも不思議に静寂が訪れる。
この古都の狭い路地にも這うように夕闇が降りて、家路に着く靴音が響く。
しかし、今日はいつもより無口な人が行き来し、皆、神妙な顔で会釈をしてすれ違った。その通りの中ほどに不祝儀の提灯がとろとろと明りを灯している。
真夏の澱んだ熱は日が暮れても去らず、黒い喪服の体にじっとりと纏わりつき、誰もが俯く額に白いハンカチを当て、流れる汗を拭う。熱をぶつけてきていた西陽は、やっと山陰に遮られた。
うなぎの寝床とよく言われる奥まったつくりの古い町屋は、今日は急な通夜でごった返している。路地に面した玄関のガラリ戸から、喪服に身を包んで沈鬱な顔で俯いて出てくる人々。
狭い玄関には、次々と数珠を手にした人々が訪れ、焼香待ちの列がうす暗い通りに長く続いていた。
「なんでやったんやろねえ」
「ほんまに、なんで死ななあかんかったんやろ」
木魚が打ち鳴らされ、鐘が夜の帳が降り始めた空気を震わせて、町内はいつになく陰鬱で寂幕とした時間が流れている。家の軒にぶら下げられた、家紋付の不祝儀の白い提灯の蝋燭の揺らいだ明かりが、玄関から漏れてくる読経に震えているように見えた。
真代は、もう直ぐ玄関という所で、流れてくる読経の平坦なリズムに畏まりながら両手でぎゅっと数珠を握り締めた。
足が家に近づくにつれて、何故か震えだし、まるで長く冷たい水に晒した時のようにしびれて感覚がない。いや、もしくは足首を何かでぐっと締められて血が通ってないような感覚……。
そっと視線を落とす。
「え!?」
目に映った自分の足に、まなこを見開いて息を止めた。彼女の両足首を真っ白な手首が手の甲に筋を立ててぐっと掴んでいる。
「ひっ!」
その時、かさかさと地を這う風が彼女の足元から白いビニール袋を取り去った……。
(なんや……。コンビニの袋が纏わり付いていたんや。あほやうちは。びくびくしてるから幻想を見るんや)
背中をじっとりと嫌な汗が流れた。この場から逃げ出したい衝動で、数珠を持つ手が震えている。
「そやけど、なんでお酒の中に毒を入れて自殺なんかしはったんやろなあ」
「ほんま、そやかてあと一週間で結婚式やいうて、喜んではったのに」
「婚約者の人、おなかに赤ちゃん出来てはったって」
立ち話が真代の後ろで盛んに交わされる。彼の死は誰の目にも不可解で、噂話には事欠かない。
正行が死んだのは紛れもなく自殺だった。
紛れもなくというのは、新婚用の新居の誰もいない部屋で、仕事から帰宅したあと、酒を飲みながら死んだからだ。マンションの玄関ドアにはチェーンロックがかかり、一人だったことが証明され、他殺の可能性なんて全くない状況だった。
正行の死体の傍のテーブルの上に、青酸カリの入った水割りのグラスがポツン置かれていた。グラスの指紋も彼のものだけで、自殺を疑う余地はない。
翌日、彼が無断欠勤をしたことで、母親が尋ねて行き、業者がチェーンロックを切断するまで彼は一人で、真新しい新居に転がっていたのだ。
「うちは信じてへん! 正行が死ぬはず無い。皆、勝手なこと言わんといて……」
真代は、死んだと聞いてからも泣けなかった。信じたくなかった。この目で彼を見ない事には信じる事が出来ないと、心の中で繰り返した。
よく遊びに来た彼の家の玄関が近づく。変わらないガラス格子の黒塗りの引き戸の中から柔らかい明かりが漏れている。
からからと音がして、いつも幼馴染だった正行が元気に飛び出してきた玄関……。もうあの姿を思い出しても、昔には返れない。 彼がずっと真代だけを見ていてくれた、あの胸がときめく狂おしいような幼い日々……。真代はぼんやりとその格子戸を見つめた。
彼だけを愛してきた。彼しか目に入らなかった。その愛しい人が死んだ……。もう会えない。気が狂いそうなほどの悲しみに現実を受け入れられない……。どうして、私は正行と生きられなかったのだろう。何がいけなくて、何がこんな結果をもたらしたのだろう――心も体も壊れてしまうくらいに、彼女は繰り返し考えた。
中学も高校も、一年年上の正行を追いかけて同じところへ通った。そして大学もこの京都の私立大学の経済学部。
二人はいつも一緒だったし、やさしい正行は真代を大切にしてくれた。その頃、二人は間違いなく恋人同士だったと真代は思っている。心を伝えなくても、二人の関係は永遠に続いてゆく。暗黙の了解のような関係を、真帆は、彼が自分を愛してくれていると頑なに信じていた。
でも、就職してからの正行は遠くなってしまった。
流石に同じ会社に就職は出来ず、何でも手に取るようにわかっていた彼の事が、さっぱりわからなくなった。気持ちをぶつけてしまえば、また以前のように心ときめく関係に戻れたかも知れない。でも、兄妹のような身近すぎる関係は、男と女の愛情を語るにはあまりに純粋すぎる。彼女はいつもいざとなると躊躇ってしまって、彼の横顔を眺めるだけだった。
そして、案の定、結婚の話が……。
「俺……、結婚する。同じ会社の同僚なんや。もう付き合うて1年になるし……もう、いいかなって」
「え? 結婚?……」
あの時、少し照れ臭そうに顔を赤らめ、正行は何の躊躇いもなく真代に告げた。
真代はあの時体中の全てが壊れたような痛みを感じた。それは生まれたときから同じ町内でまるで兄妹のように育ってきて、彼しか愛せなかった彼女の引き裂かれた心の痛み……。告げられないまま消される想いには、行き場所も用意されていない。
泣いてもがいても全てが後の祭りだった。
彼女の思いをよそに、正行はあと一週間で人のものになるはずだった。そして、きっと幸せになるはずだった。
玄関を入ると、読経は、夏の夜の蒸し暑い空気をうねらせるように続き、抑揚のない響きが家の中を充満している。
ふすまを取り去った三部屋の突き当たりに、白い花で覆われた彼のやさしい微笑の遺影が、焼香台へ向かう真代を迎えてくれた。
その遺影の下に、溢れんばかりの白菊のに飾られた白い棺が静かに置かれている。
脅えるようにして、震える唇に手をあてがい、そっと棺の小窓を覗き込む。
白い花に飾られた彼の亡骸はまるで作り物のように冷たい肌の色をして、見つめる彼女にも、その目を開けてはくれなかった。
やっと、頬をとめどなく涙が伝った。唯一彼女が幼い時から愛し続けた人は、堅く閉じた瞼を開けることはなく、モノと化した体を棺の中に横たえているだけだった。
やはり死んだのは事実……。
親族席から、彼の母が真代に深々と頭を下げ、憔悴しきった顔で見つめた。この若い死はどれだけの悲しみを置いて逝ったか……。凝視できずに俯いたまま、目頭を押さえた。
そして、微笑みかける遺影に向き直り、手を合わせた。
「うち……。ずっと好きやった。正行のこと……。かんにん、かんにんして……。どうしても我慢できへんかったんや」
呟きを読経にかき消される。焼香台の前に立ち、真代はこうべをたれ、ただ、肩を震わせた……。その場に崩れそうになる体を、かろうじて支えながら、逃げるように焼香を済ませた。
くるくると回って幽玄の青い光を放つ走馬灯が、この部屋を否応なしに怪異な空間に変えている。
真代は、どこかで正行が見つめているような錯覚に囚われた。一目散に逃げ出したいのに、絡み付いてくるような視線を感じて、身を小さくし、脅えながらあたりを見回した。
私のしたことを知っている人なんかいいひん。私の想いを知っている人かっておらへん――――真代は背筋を伸ばし、混んだ人の間をすり抜ける様に玄関へ向かう。
堂々としてるんや。私を忘れて、違う人と結婚しようとした正行が悪いんや――――玄関にいっぱいに並んだ靴のなかから自分のものを探し、慌てて履いた。
そして、ガラリと戸を開け出て行こうとすると、後ろから呼び止められた。
「真代さん」
驚いて振り返る真代の目に、上がり段で見下ろすように、髪を上げてほっそりとした体を喪服で包み、枯れ木かと思うほど力なく立つ若い女が映った。
「貴女は……」
「お久しぶりやね。山野京子です。一度お会いしましたね」
消えそうな微笑を憔悴した顔に無理やり作って、山野京子は静かな声で言った。真代は睨むように彼女を見つめた。
京子は正行の婚約者だ。一度だけ、結婚を決めてすぐに正行から紹介された。その時とは打ってかわって、暗い表情をしている。細面の顔にこじんまりしたつくりの目鼻立ちが、能面のように白く強張っている。
「あの、このたびは……」
と、見つめたままで真代が在り来たりな口上を述べようとすると、京子はそれを遮るように言った。
「話があります。宜しかったらちょっとだけ、外で……」
暗い顔に似合う声でぼそっと言うと、京子は靴を履き、真代の開けた玄関から先に外へ出た。
街頭もない真っ暗な通りを、家の玄関が見えなくなるまで歩き、路地が交差する角で、京子は立ち止まった。
「正行、死んでしまいました。でも、自殺やなんて思いとうないです」
俯いて目頭を押さえる悲しい姿の彼女を見ながら、真代は自分のもののように「正行」と呼び捨てにする京子に腹立たしさを覚えた。
「話って何ですか? 時間が無いのではよう言ってください」
「はい。では、単刀直入に言わせて貰いますけど、あんたは正行が好きやったでしょう?」
真代は驚いて、目を丸くしたままで京子を見た。
「何ですか? 突然」
京子は不機嫌そうな顔をした真代に一瞥して、話し続けた。
「今から話すことは、私の仕返しです。貴女も私と同じ様に彼の死を悲しんで、苦しんで欲しい思います」
「何言うたはんのか、うちにはわからへん」
京子は一つ深いため息を吐いた。そして、ポツリと独り言のように呟いた。
「正行は、あんたがずっと好きやったと思います」
「えっ?」
「私と付き合いだした頃は、彼も、気いついてへんかったと思います。私達も言うほど深い付き合いでもなかったですし。それが、私の妊娠がわかって、結婚する事になったんですが、その頃から彼はあんたへの気持ちに、気いつかはったようで」
「そんな冗談、よして下さい!」
「冗談なんかやあらへん。私ら、子供のことがなかったら、きっと別れていました。あの人はあんたを諦めるまで苦しんでいたし。だから自殺やといわれたら、違いますとははっきり言えへん」
「か、堪忍して下さい……。そんな事……。ありえへん……」
真代は京子を見つめたまま、蒼白で唇を振るわせた。
「もちろん、私は彼を愛してます。ただ、あんたの存在は私にとっては、ほんまに辛かった。だから、正行の本当の気持ちを知って、あんたにも多少なりとも苦しんで欲しかった」
「うそや……。うそや……うそや」
真代は、開いた大きな瞳に何も映していないように宙を見て、ただ呟き続けた」
「じゃあ、これで。もう、お会いする事もあらへんと思いますけど」
京子は、自分の腹にそっと手を置き、さすりながら真代の傍をすり抜け、帰って行った。
「嫌や――――っ!」
まだ、熱が冷めない舗装の上に崩れるように膝を突いた。
「正行死んだのに……。死んでしもうたのに……もう、どうする事もできへん」
人目も憚らずに泣き崩れる。まだ明るさの残っていた西の空の朱色が、次第に闇に飲まれてゆく。辺りは、古い町並みらしく、真っ暗に沈んできた。靴音が響くほど沈黙した町に、真代のすすり泣きが流れてゆく。
正行への想いが、また心いっぱいに広がった。
そこへ、男の二人連れが近づいてきた。
カツカツと響く革靴の音に、真代は泣き声を呑みこんで、顔をゆっくりと上げた。
二人は、へたり込んだままの真代の前に立ち止まり、見下ろした。真代は慌てて手の甲で涙を拭う。
「誰です? あんたら……」
一人のスーツ姿の男が、膝を折って、真代に顔を寄せた。そして、顔を確かめるように目を細めてじっと見つめて訊いてきた。
「水野真代さんですね?」
「はい。そうですけど……。あんたらはどちらさんですか?」
もう一人の、半そでの黒のTシャツ姿の若い男が、大きい声を出した。
「私らは加茂川署の刑事です。あんたにちょっと尋ねたいことがある。立って貰おうか」
「ええっ、なんの用なんですか」
Tシャツの刑事は無理やりに、腕を掴んで引っ張りあげた。
「痛い! やめてください。うちが何をしたんです?」
「あんた、分かっているんやろ? 自分のしたことを」
「自分の、したこと……?」
男達は、真代の両脇に立って、互いに腕を掴んだ。そして中年のスーツを着た刑事が、早口で言った。
「笹本正行さんを殺したやろ。証拠はあがってるで」
「え……」
ふらっと体が揺らいだ。男達は、支えるように真代を抱えながら、中年の刑事が話しかける。
「結婚を妬んだのか? あんたの父親のメッキ工場から青酸性毒物が無くなっている。あんた、工場の従業員に薬品庫の鍵のありかを聞き出したそうだな。被害者は、毒を凍らせた氷を水割りに入れて、それを飲んで死んだんや。毒の氷を製氷皿に仕込んだのはあんたやろ!」
真代は、男達に引き摺られるように歩きながら、ふっと闇夜の空を見つめた。
京都の夜は本当に暗い。この町は、夜になると「あやし」の次元が現われ、それは太古から変わらずに続いているのかも知れない。
ぼんやりした真代の視界の中、路地の向こうに、車のヘッドライトが行き交う大通りが見えた。
「うちは……正行が好きやった。だから、彼の部屋で知らん女の人と楽しそうにお酒飲んだりするの許せんかった。殺すつもりはなかったけど、二人のこと、壊してしまいたかった……。そやのに……、ほんまはうちの事好きやなんて……。ほんまにうちはあほや」
ああっと顔を覆う。刑事が何か耳元で怒鳴ったが、もう真代には聞こえなかった。
「まさゆき――っ!」
「あっ! おい、待て!」
刑事の腕を振りほどいて、一目散に走った。
そして、大通りのヘッドライトの流れの中に飛び込んだ。
キキキキ―――ッ!! ドコン……。
「真代、ほら行くで。早う、起き上がれ」
「うん、正行、ちょっと待ってえな。靴を片一方、履くさかい」
京都の深い闇夜に、擦り切れたような細い月が、夜空に隙間を作るように現われた。
静寂が似合う古都の夜は、いつものように寝苦しさが、まだまだ続くだろう。
(終わり)
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