第一章
「梓、起きろ」
父の声で私は目を開けた。
まだ重たい瞼を擦りながら、斜め前の運転席に座る父の背中を見つめた。
窓の外が暗かったから一瞬夜なのかと思ったけれど、どうやらトンネルの中にいるらしい。
「着くの?」
「まだだよ。でも起きてた方がいいぞー」
何でだろう、と疑問を持った瞬間に私を乗せた車はトンネルを抜けた。突然明るさに触れたため、思わず瞳を細める。
暗闇の先に待っていたのは息を飲むほどの美しい光景だった。
「すごい……」
唇から零れるようにして出たその言葉に、父が「そうだろー」と得意げに笑った。
「ここの桜並木は全国的にも有名なんだよ。いつもならもっと人がいるんだけど今日は少ないな。前、来た時も人でごった返してたんだけど……遠回りしたかいがあったなあ。そういえば────」
父の説明なんてそっちのけで、私は窓から顔を出した。
満開の桜が包み込む長く長い一本道。無数の花びらが雨のように降り注ぐ。こんなに沢山の桜を目にするのは生まれて初めてだった。
「すごーい!」
視界いっぱいに広がる桃色に胸が踊った。
何だか、ようこそ、って歓迎されてるみたいだ。
小学4年の春、私はこの町にやってきた。
あれから30分程車を走らせた後、私達は無事に新居へと辿り着いた。新居と言ってもあまり新鮮味は感じられなかった。今までに何度か訪れた、母の実家だったからだ。
家の敷地内に車を止めて荷物を降ろしていると、玄関から誰かが出てきた。
ショートヘアーの、すらりとした背の高い女性だった。
誰、と少しの間正体がつかめなかったけれど、明るい声で名前を呼ばれて私はようやく気がついた。
ぱっと見で分かるはずがなかった。だって最後に会った時は髪が長かったのだから。
「お母さん!」
そう言って母に飛びついた。
久しぶりに感じた母の温もりが心に染みる。会えなかった時間を補うようにぎゅーっと力強く抱きついた。
しばらくして体を離すと、優しい笑顔の母がこちらを見下ろしていた。
「元気だった?」
その問いかけに私は何度も頷いた。
私の母は仕事に生きるばりばりのキャリアウーマンだ。そのせいか昔から転勤が多かった。引っ越しに引っ越しを重ね、小学4年生までで転校通算6回。一定の仕事に就いていた父にも少なからず影響があった。
けれど、私も父も文句は言わなかった。母は私達のために頑張ってくれているし、家族なのだから皆で協力すべきだ、と。
でも、本人はそう思っていなかったらしい。
私と父を振り回したくない、プライベートと仕事は分けたい、といつしか母一人だけが拠点を移動するようになっていた。いわゆる単身赴任というやつだ。
お盆休みや正月は帰ってくると言い残して母は遠方に行ったけれど、いざ離れ離れになってみると仕事が忙しくてこっちに帰って来るどころの話ではなくなっていた。
"完全に別居"という、そんな状況を大きく変えたのは母からの一本の電話だった。
『父さんが倒れた』
向こうっ気が強く、いつでもエンジン全開で元気だったおじいちゃんが、ある日突然倒れた。
病名は子供の私には難しくてよく分からなかった。ただ、もう前のような元気いっぱいのおじいちゃんは見れない、ということだけは分かった。
その数日後────。
母が仕事を辞めると言い出した。
「ずっと仕事仕事で親孝行なんてしてこなかったからさ……出来るうちにやらなきゃね」
そう言う母の両目には私が映っていた。
あの母が仕事を辞めるなんて余っ程のことだったから少し心配していたけれど、ちゃんと前を見てくれているみたいでとりあえずはほっとした。
「おおっと!? うわああ!」
あまりにも唐突に父の叫び声と何か重いものが崩れ落ちたような音が響き渡り、私と母は身を震わせた。
「何?」と怪訝な顔で音のした方を見る母だったが、少しして何かに気づいたのか私の方へ険しい表情で向き直った。
「……あーずさー? お父さんに全部持たせちゃ駄目でしょ!」
その言葉に苦笑いを返すと頭をぺちんと叩かれた。
「もー、大丈夫ー?」
小走りで父の元へ向かう母の背中を見つめた。
また3人一緒にいられるんだ。これからはずっと一緒なんだ。
そう思うと胸の中が嬉しさで満ち満ちていった。
転入先の小学校は家から徒歩で15分くらいの場所に存在していた。
第一印象はどこにでもありそうなごく普通の学校。人数も多からず少なからずで、特にこれといった面もなさそうな場所だった。でも、校門のところにある桜の木は凄く綺麗だった。
「卯月梓です! よろしくお願いします!」
この挨拶も慣れたものだけれど、今回は少しだけ訳が違う。多分、これが最後だ。私はこの小学校を卒業することになるのだと思う。
緊張と不安と期待とわずかな高揚。私の中でたくさんの感情が入り混じり、心臓が忙しなく動いている。
疎らな拍手が聞こえる中、私は用意された座席に腰を下ろした。席は窓際の端っこだった。窓から差し込む陽がぽかぽかと心地良くて目を瞑ると眠ってしまいそうだった。
隣を向くと、少しの空間を挟んで男の子が座っていた。
その子は、先生が一生懸命話しているのに見向きもせず、ただひたすら熱心に絵を描いていた。
真っ白な紙の上で踊るように動く鉛筆が、凛とした猫を形取っていく。
私はその様子をじっと見ていた。いや、目が離せなかった、という方がきっと正しい。
たった鉛筆一本で、水晶のような目や、ふわふわと柔らかい毛が上手く表現されている。
猫のあのぬくぬくとした感じが、見ているだけで伝わってくる。
────なんて柔らかくて優しくて温かい絵なのだろう。
ふと、私の視線に気づいた彼がこちらを向いた。
その瞬間、今度は彼から目が離せなくなった。
ビー玉みたいな大きい瞳、すっと伸びる長い睫毛。透き通るような白い肌に濁りの無い真黒の髪がよく映えていた。
きょとんとした顔で見る彼に、私ははっと我に返った。
初対面だというのに、こんなにじろじろ見るのは失礼だったかもしれない。
黙って何事もなかったかのようにするのは感じが悪いし、とりあえずと思って口をついて出た言葉は在り来たりなものだった。
「よっ、よろしく」
私のそれに彼はにこりと微笑んで、「よろしく」と同じように返してくれた。
だんだんと胸の鼓動が早くなっていく。
目の前のものすべてがきらきら輝いて見えて、自然と口元が緩んでしまう。
これから始まっていく日常に、まだ見ぬ未来に、心が弾んだ。